1-1 白猫と少年と少女
木漏れ日が降る。
ハルニレの木陰で、久磨統真はまどろんでいた。
小さな鳴き声が聞こえた。
透き通るようにまっ白な猫。
先に気づくのは、いつもファロウだった。統真の親友である。
草を踏み進む足音が近付いてくる。
薄目を開ける。
水色のスカートが揺れるのが見える。
顔を見なくても遙間瑠璃だと分かる。
「またか」統真は小さくため息を吐く。
少し、嫌気が差していた。
幼なじみの特権を活用して図々しく繊細な心に踏み込んでくる少女。
見た目はかわいい。
最近ではふとした仕草に見え隠れする一瞬の表情がきれいだと思う。
けれども、総じて厚かましい。
少し放って置いて欲しいと統真は思っていた。
統真は高原にあるハルニレの木の下にいる。
家から一時間ほど山を登らなければならない場所だった。
それなのに、わざわざ瑠璃は登ってきたのだ。
平日、学校帰りに寄り道するには気が引ける距離。
ゴールデンウィークの初日で、天気がいい午前中は、逆に心地よい運動となる。
避けたつもりが却って好都合と思わせた気がして、浅はかな計略しか思いつけない自分に統真は苛立った。
ただ、その苛立ちは瑠璃に向けられたものでもあった。
「僕に何を求めているんだろう」
胸の内で問いかける統真の声は、瑠璃には通じたことはない。
「またこんなところでサボり?」
草を踏みしめる足音が間近で止まって声をかけられても、統真は寝たふりをしている。
「起きているのは分かっているんだから。ね、ファロウ」
白猫は同意するように短く鳴いた。
「裏切り者め」
統真は胸の内で毒突くが、ファロウはいつも意に介さない。
「おい、起きろ、統真!」
投げ出していた足が蹴飛ばされた。
「痛いじゃないか!」
統真は目を開けて見上げる。
白いブラウスを着て、両手を腰に当てた瑠璃が立っている。
肩より少し伸びた髪はきれいに編まれていて、前髪は花のアクセサリーが付いたヘアピンで留められている。
「わたしがわざわざ来てあげたのに、寝たふりしているからでしょ!」
瑠璃は巷では名家の令嬢として知られている。
山向こうの名門の私立女子高に今年から通っている。
中学時代は、校内でも上位を争う美少女だと人気が高かった。
清楚でおしとやかなイメージを装い、近付きがたい雰囲気を纏っていた。
色白でか弱く、箱入り娘で近付きがたい高嶺の花だった。
統真は知っている。
それが周囲を欺く仮面だと。
実際の瑠璃は粗野で横暴な性格の持ち主だった。
その素性は、高校生になっても変わってない。
瑠璃には通常、外出には侍女の梨詩愛が同行している。
それが一人で来たということは、侍女を騙して抜け出してきたことを意味している。
そういうずる賢さがある少女だった。
統真は苛立ちを紛らわせるように、髪をかきむしりながら上体を起こした。
「初めて会った時は、今にも死にそうだったのに」
「いいでしょう。これもファロウのお陰なんだから」
「おい!」
統真は睨み付ける。
「何?」
瑠璃が屈みに覗き込むように身をかがめてくる。
白いブラウスの襟首から胸元が見えそうになり、統真は視線を逸らした。
「べ、別に」
「本当は僕も助けたじゃないかっていいたいのかな?」
「違うよ」
「そう?」
「ああ」
統真は力強く頷く。
瑠璃は顔を逸らすように背を向け、二歩下がった
「でもわたしは忘れてない。覚えてるよ」
「え?」
統真が思わず視線を戻す。
待っていたように、瑠璃が振り向いた。
目が合うと微笑みを浮かべてくる瑠璃に、見とれる。
「ねえ、いい物見せてあげようか」
「え?」
安易に頷いていいのかと統真は躊躇する。
瑠璃は返事を待たずにくるりと反転しながらスカートをまくり上げる。
膝が、腿が、そして……、丸見えになる。
「どう? 元気になった?」
「どこが元気になるんだよ」
「どこと言われても困るけど。好きでしょ、男の子ってスカートめくり」
「違うだろう。自分でめくり上げる奴のスカートに、めくる価値があるか」
「じゃあ、めくる?」
からかう少女の悪戯心に満ちた笑みが統真にはまぶしかった。
「ふざるなよ」
統真は羞恥に染まる頬を隠すように横を向く。
「第一、スパッツ履いてるじゃないか」
「なんだ。しっかり見てたじゃない」
「見せたんだろう」
「同じことよ」
「違う」
「でも、統真がわたしのスカートの下を見たことに変わりはないから」
統真は頭をかきむしる。
「あのさあ、瑠璃。お前はなんでそうなんだよ」
統真は立ち上がる。
立てば瑠璃よりも身長は高い。
一六三センチあるという瑠璃を見下ろすことになる。
「何が?」
「何がって、そうやって僕をからかうことだよ」
「そりゃあわたしとの約束破ったからじゃない」
「好きで破った訳じゃない」
都合の悪い話題に統真は視線を逸らした。
「そうよね。実力よね。倍率が低いのに、不合格を引き当てるんだから」
「悪かったな」
何かと当てつけてくる瑠璃の態度に頭にきて、統真は睨んだ。
「けど、山向こうの県立高校は、この辺りの公立だと一番偏差値高いじゃないか」
「それはそうよ。お父様に頼み込んで納得してもらうためには、せめて公立でも県内一くらいじゃないとだめだったからよ。でも、今の私立よりは下だよ」
「だから、悪かったって何度も謝ったじゃないか」
「でもわたしは合格したよ、両方に」
もともと瑠璃は頭が良いからだと統真は思っている。
「僕は頭が悪いんだよ」
「でも約束したよ。一緒に高校生活で青春しようって。けど統真が落ちるからさあ――」
「もう何度も聞いたよ、その話は。だから僕も何度も謝ったじゃないか」
瑠璃は頬を膨らませて口を尖らせる。
「結局わたしはお父様の目論見通りになっちゃったんだよ」
「来年まで待ってくれって言ったら、嫌だって言って今の女子校に行ったのは瑠璃じゃないか」
「だって、来年入ってきたら、わたしの後輩だよ。同級生じゃないんだよ。そんなの嫌」
「でも、同じ学校じゃないか」
「だから、それじゃあ違うの。それに統真だって、二次募集で別の高校に行ったじゃない」
「瑠璃が女子高行くって言ったからだ。まったく。人の気も知らないで文句ばかり言う」
瑠璃のことをいいかげん疎ましく思えてきた統真は、これ以上瑠璃に謝る気が失せた。
「分かんないよ。統真の考えなんて」
瑠璃は背を向ける。
「そうかよ。だったら、放って置いてくれ」
「ダメ。花の高校生活がだめなら、起死回生の挽回のチャンスをあげよう」
瑠璃は微笑みを浮かべて試すような視線を統真に向ける。
「なんだそりゃ」
怒った方と思えば優しくなり、すねたかと思えば笑顔を見せる。
瑠璃という少女は、統真の理解を超えていた。
そうやっていつも心を惑わされ、いつの間にか統真は瑠璃の術中にはまってしまうのだ。
「高校を飛ばして、同じ大学行きましょう。そうすれば、統真はわたしとの約束を守ったことにしてあげる」
「気楽に言うなよ。どこの難関大学にいくつもりだ? うちは塾に行く金なんて無いんだ。当然私立も無理だ」
「だから、わたしが居るんじゃない」
「どういうこと?」
「わたしが家庭教師よ。統真に勉強を教えてあげる。それでわたしと同じくらいできるようになれば、同じ大学に行けるでしょ」
理屈はそうでも、現実はどうなのかと統真は思案する。
だが、心の奥に棘のように引っかかっている悩みは別にある。
統真には見えていなかった。
同じ大学に行って瑠璃と学生生活を満喫できたとして、その先に何があるのか。
統真には将来の夢がない。
勤めたい会社はないし、安定性抜群の公務員は肌に合わないし、やりたいこともない。
ただ漫然と生きているだけのつまらない存在でしかない。
同じ高校に行こうと瑠璃と約束し、危ういと言われたのを強引に受験して不合格になった。
当然の結果だと、先生も同級生も納得した。
瑠璃だけが、納得してくれなかった。
無謀だと自覚はしていた。
それでも統真には、約束を破ったことに対して負い目はある。
悪いとも感じている。
ただ、主体性がないまま、瑠璃の言いなりで決めた進路だったから悔しさは少なかった。
怪我の功名になったとも言える。
不合格になったことで、考えるきっかけが得られたのだった。
自分の人生、このままでいいのかと。
統真には分からないことが多い。
瑠璃が自分に対して抱いている感情が、果たして何なのか。
幼なじみの御節介の延長なのか。
それとも、友達感覚の仲間意識の表れなのか。
あるいは異性に対しての感情なのか。
体のいい子分かもしれない。
頼りない用心棒代わりの可能性すらある。
だから尚更、瑠璃の理想を演じるために大学に行って、その先に何があるのか、見えなかった。
「僕、親父の跡でも継ごうかなって考えてる」
統真は木陰から出る。
日差しの眩しさに目を細め、手を庇にして空を見上げる振りをして視線を逸らした。
「またまた、冗談ばっかり。あれだけ跡を継ぐのは嫌だって言っていたのに」
「僕にはそういうのが似合ってるのかなって。器というかさあ」
「嘘つき」
「何だよ!」
統真は振り返って瑠璃を睨む。
「臆病者。一度負けたからって、安易な方向に逃げるんじゃない」
「に、逃げてないだろ。そう決めたんだ」
「ばか。そういうのを、負け犬って言うんだよ。へたれ」
「おい、瑠璃、言いたいことばかり一方的に言うけど、僕は瑠璃と同じ学校に行きたくないんだ。本当は」
「うそ……でしょ?」
瞬間、統真は悔いた。
瑠璃の表情が一瞬にして曇り、目に涙が浮かぶのが見えた。
だが、泣き落としで何度騙されたか、数え切れない経験がある。
泣いた振りして慌てさせ、意のままに操る狡い手段であると、統真は学んでいた。
「そうやって泣き落としで男を弄ぶんだろう、瑠璃は」
「違うよ」
「僕は何度騙されたか。僕が一浪して同じ高校に入るのを嫌がったのだって、瑠璃にとって、幼なじみが高校受験に失敗したバカ野郎だって知られたくないからだろう?」
「違う――」瑠璃は首を振って否定する。
「結局僕を、金持ちのご令嬢に釣り合うご学友、というような枠にはめたいだけじゃないか」
「統真のバカ」
瑠璃は背を向けて俯く。
手で涙を拭う素振りをして見せるのも、いつもの騙しの手口だと統真は思った。
「もう騙されないからな。僕の人生を、勝手に決めるな。そんな権利が瑠璃にないだろ」
「……分かった。さようなら、統真」
瑠璃はちらと振り向いたが、すぐに顔を逸らし、走りだした。
本当の涙がこぼれているのが見えたが、統真は気づかぬふりをした。
いつも泣かせた罪悪感から追いかけて謝り、許しを請うてきた。
そうした関係は、中学の卒業と同時に終わりにしたんだと、統真は自分に言い聞かせる。
ファロウが鋭く鳴く。
「お前も瑠璃の肩を持つのか?」
瑠璃を追いかけようとしたファロウは、振り返ってまた鳴いた。
「分かったよファロウ。君とは親友だと思ってたけど、今日で絶交だ」
見損なったとでも言うように、ファロウは背を向けて駆け出した。
統真もファロウに背を向ける。
ふて腐れた統真は木の下に戻り、腰を下ろしてハルニレの幹に寄りかかる。
手を頭の後ろに組んで目を閉じた。
瑠璃のことはもう知らないし、ファロウとの関係も終わりだと、統真は心に決めた。
すべて無縁の存在となり、一人で悠々自適な昼寝の時間を勝ち得たのだと誇ってみる。
それでも、統真の心は落ち着かなかった。
ざわめく感情の風でさざめく心の波に揺られる。
「くそ。なんなんだよもう」
統真はくずれるように横になる。
体をくの字に曲げた格好のまま、泣きたい気分になった。
呼吸の度に草の匂いが鼻孔に満ち、何かを求める手は、土を握りしめていた。
ここから逃げ出したかった。
温もりに満ちて全てを受け止めてくれる優しさに浸りたかった。
統真には母親がいない。
小さい頃に死んだ。
母親の温もりをあまり覚えていない。
代わりに鮮明に覚えているのは、冷たく固くなった手だった。
「情け無いな。甘えてるのかな」
母親の温かくて柔らかい温もりの中に逃げ込んで「統真は悪くない」と頭を撫でもらいたいという欲求が根底にあるのかと、統真は思った。
自分を無条件に肯定してくれる存在、何者からも守ってくれる存在を。
「幻想なんだろうな」
幼いときであれば、母親とはそうした存在に成り得ただろう。
けれどもそれは、外界から隔絶された限定的な世界での話である。
母であれ父であれ、どちらも人間である。
大人となり、社会という外界に出てから受けるであろう様々な波風から守ってくれる程に強くはない。
独り立ちするまでの手助けをしてくれるまでが、親の役割としての限度である。
「やめた」
統真は目を開けた。
草の向こう、白い何かが見えた。
鳴き声がした。
上体を起こして見ると、ファロウだった。
走り去ったはずだが、いつの間にか統真の目の先に座っている。その眼差しは力強く、頼もしい。
立て、そして追いかけろと、促しているように統真には思えた。
共に歩んでくれるが、立たせようとはしない。
ただ待ってくれている。
そこにあるのは信頼なのかもしれない。
省みて自らの力で立ち上がると信じてくれているから、そこで待っていたのだと統真には思えた。
「分かったよ。追いかけるよ、ファロウ」
統真は立ち上がり、瑠璃が駆け去った方へ一歩踏み出した。
ファロウは動かない。
「あ、ごめん」統真は気づいた。
「ファロウ、さっきの絶交というのは無しだ。僕が悪かった。許してくれるかい」
ファロウは頷き、急げと言うように声を発すると、素早く身を翻して駆け出す体勢となり、振り向いた。
「よし行こう、ファロウ」
統真は駆けだし、ファロウが併走してくれる。
二人は、瑠璃を追って山を駆け下りた――。