夫婦善哉
かっちゃんは、四角い顔を心底悩ませた真剣な顔で俺を呼んだ。
「なぁ歳ぃ、どうしよう?」
「ったく煮え切らねぇなぁ。なんで俺に訊くんだよ」
普段は皆を引っ張る強い意志と行動力を持つ大将気質の癖に、女のことになるとからっきしだな。
江戸三多摩……天領であるこの地域には、どこに出しても恥ずかしくない忠誠心が根付いている。
知名度は三大道場に比べることもできないが、ここ・来るもの拒まずの試衛館はたくさんの門弟を抱え、元は道場破りに来たような荒くれも食客として居着いていた。
一見ボロ屋だがよく掃除の行き届いた小奇麗な道場で、しかしどの部屋を覗いても暑苦しい程の男達がいるのだが、今は二人きりで密談の真っ最中だ。
「そりゃあ……こんなことお前にしか言えないだろう? 源さんは若先生のお好きに、の一点張りだし、宗次郎は最近めっきり元気がなくて話し掛けても上の空だし……。俺、なんかしたかな?」
誰があの女ギライに相談しろって言ったよ。
「さぁな。言わなきゃわかんねぇか?」
あいつはそれこそ言わなきゃわかんない奴で、自分の行動への相手の反応や心情を読み取ろうとする割に、妻子ができてもソージは変わらず俺の家族だと、かっちゃん本人から説いてやらなきゃ不安でしょうがねぇんだ。
かっちゃんは、道場の跡目を継ぐ者として妻を娶ることになった。
それで立て続けに三人の女と見合いをし、さてどの女にしようかというわけだ。
まだ眉間を寄せっぱなしのかっちゃんを肘で小突いた。
「三人に言い寄られるなんていいご身分じゃねぇか。楽しめよ。俺だってそんな経験……」
……あったな。
「不謹慎だなぁ。女一人の一生を左右する問題なんだぞ」
とことん真面目なかっちゃんだ、こいつ以上に“良き夫であり父”が似合う奴も居まい。
「俺は、今日会ったツネさんがいいなぁ、と思ったんだが」
武家の娘で、幕府の祐筆を務めていたという女だがしかし。
「はぁ? どこがいいんだよ」
なんだってあんな醜女を?
「物静かで頭がよくて……優しそうなひとじゃないか」
思い出すようにボンヤリとした顔をする。
「……かっちゃん、女のそんなとこ見てんのか」
珍しい男だな……変態か?
「歳はどこを見るんだよ」
「目と腰。」
正確に言えば、目付き腰付きの色気だな。
「……お前に相談したのが間違いだったよ」
呆れ顔で肩を落とされた。
これには流石の俺もむっとする。
「じゃあもう知らねぇ。……俺は二番目に来た女がいいと思うぜ」
匂い立つような美貌で、ツンと取り澄ました気の強そうな女だった。
「絶対やめておく」
「テメッ! なんでだよっ!」
「言わなきゃわからないか? 歳と女を巡って争うなんて御免だよ」
「……かっちゃん、三流芝居の観過ぎだ」
私以外にも二人の女性とお見合いをされた、と聞いていましたけれど。
それも、すごい美人と。
自分の顔が嫌い。
理由は、見てもらえればわかる筈ですけれどこの低い鼻、小さくて離れがちな目。
お世辞にも、両親にさえ美しいと言われたことはありませんでした。
いいえ、言われたとしても残酷な厭味としか聞こえません。
私が務めていた祐筆という仕事には誇りとやりがいを感じていましたから、このままどこに嫁ぐこともないのでしょうと諦めていました。
もらってくださる殿方なんて、生涯現れないでしょうと。
生きる人全てが美男美女ではないのだから、醜女ゆえだけで結婚できないと思い詰めているわけではなく、人付き合いが苦手で引っ込み思案の私はいつも俯きながらボソボソと呟き落とすようにしか話せず、よく陰気な女だと疎まれていましたから。
別に構わないと半ばいじけて、見合いなどするだけ無駄と思い始めていました。
でも近藤さま、という方は。
何故か私を選んでくださいました。
お会いしましたのは、数日前のことでした。
三多摩で大人気の、異色な程の実戦剣法を扱う天然理心流……近藤さまはここの跡目を継ぐ方なので、お見合いも試衛館道場の一角で行われました。
実は若い男性自体が苦手なので、行かず後家の私が何を贅沢なと両親にも叱られましたが、正直気が進まないまま父の後を付いて、重い足取りで門を潜りました。
「あっ……」
その時背中の、かなり上の方から声がしました。
振り返ると背の高い男の人が、普通よりもかなり太い木刀を肩に担いで、そこに防具袋を下げて立っていました。
父は一瞬慌てていましたが、私はこの方が近藤さまだとは思いませんでした。
近藤さまは三十歳くらいと聞いていましたけれど、この方は多く数えて二十歳にも満たないように見えるからです。
あ、こんな風に言うのは、失礼ですよね。
「あの、先生の……すぐにご案内しますねっ」
先生……近藤さまのことでしょう……門弟さんなのかもしれません。
父が挨拶を始めようというより先に私達が何故ここに来たか察して、深く頭を下げられました。
「ソージ、お前はいいから荷物置いてこい」
道場の中からはもう一人、門弟のような方が迎えに出てきてくださいました。
目鼻立ちの整った男の人だけれど、視線が冷たい気がして苦手でした。
外から見ると、聞いたところによるその剣筋通りに、明け透けに言えば荒々しい道場なのですが、中に入るととても男所帯と思えないくらいに綺麗に整頓され、掃除されていていました。
隙がない、といった感じです。
その印象とはまた違って、近藤さまは穏やかな雰囲気の、優しさが滲み出るような方でした。
四角い顔で頬骨が張っていて、でもいつも笑顔だから全然怖くはなかったのです。
「ツネさん!」
試衛館の前まで来てしまったのはいいけれど、中に入ることも出来ずにこのまま帰ってしまおうかと振り返ると、大きな声で呼ばれました。
近藤さまの、元気でよく通る声。
婚約が決まってから、お会いするのは初めてです。
「こんにちは! どうぞ、寄っていってください」
「は、はい……あの、すみません突然……」
道場から、例のすごい太さの木刀を担いで出てきてくれました。
「寄っていって……というのはおかしいな。ここはもう、あなたの家なのですから」
大きな口を開けて、屈託なく笑うひと。
好きになれそう、と思います……私は。
でも近藤さまの方は、私でいいのでしょうか。
ううん、嫌われてしまうかもしれない。
嫌われるくらいなら、傍にいたくない。
「あ、あの……」
「おい、かっちゃん! まだ終わってねぇぞ! 勝ち逃げすんな!」
「歳三さんばっかズルいですよ! 先生、次は僕と……あっ」
稽古中に、抜け出してきてくれたのですね。
私を、見つけてくれて。
お見合いの日にお会いした二人の門弟さんも私に気付き、お辞儀をされました。
「ごめんなさい、お話し中に」
加えて若いかた……確か“ソージ”さんと呼ばれていたかたは、私に向かって謝ってもくれました。
もう一人のかた……お見合いの時に案内をしてくれたかたは、初めの印象通りニコリともしなくて、やっぱり私は苦手かもしれません。
でもお二人とも、近藤さまをとても慕っているのが伝わってきます。
「紹介します! こっちの優男、うちの道場に入ったのは最近なのですが、昔っから喧嘩仲間の歳三です」
「やさっ……! おい!」
訊きたいことがあって、ここまで来てしまったのだけれど……やっぱりダメみたいです。
なぜ、私を……?
本当は、知ってしまうのが怖かったです。
他の二人の女の人に私が勝るのは、家柄だけ。
「こっちのヒョロッとしたのは若いですが塾頭を任せてまして、宗次郎といいます。俺の子どもみたいなもんです」
「せっ……先生!」
誰もが会ったばかりの人達なのに、なんとなく居心地がいい。
この輪の中に入っていけたらどんなにか楽しいでしょう。
そう望むのも、離れようとするのも、バカみたい。
「すみません、僕っ失礼します!」
宗次郎さんが顔を真っ赤にして行ってしまった後、心配そうに黙って見送る近藤さまに、恐る恐る訊きました。
「あの……近藤さま、どうして、私を……」
もう手遅れで、好きになってしまったのでしょうか。
涙で詰まって、言葉が繋げられません。
「俺も外すわ」
「いや、歳も聞いてくれ」
私の両肩に、力強くて、でも優しい手が置かれました。
温かさに、涙も驚くようでした。
「俺はあなたの、優しさが好きです。子ども好きで面倒見がいいところが、家事が得意なところが好きです」
好き……私を……。
確かに、得意というかどれも好きだけれど、どうしてわかるのでしょう……まるで前から見ていてくれたように。
「いろいろと周りが言うでしょうが、気にしないでください。俺を信じて、ツネさん」
ご存知だったのですね、何もかも。
ツネを選ぶなんて、金と地位に目が眩んだのだ。
そんな噂が、うちにまで聞こえてきた。
そして近藤さまのお義母さま・ふでさまは、私が嫁に来るなら自分は出ていくとおっしゃっていることも。
「俺が腑甲斐ないばかりに、辛い思いをさせましたね」
「いいえ! 私がブスだから……」
「いや! 俺はどうも、ツンツンと我儘そうな美人の方が苦手で……」
「馬鹿! かっちゃん!」
「……だあっ! や、違うんです!」
歳三さんに小突かれてからあたふたと謝られて、言われた通り、全て忘れてしまえるかもしれない、そう思いながら笑ってしまいました。
「でもツネさん、あなたの文字の美しさは心の美しさだ。俺も書道が好きでして、教えてくれたら嬉しいです」
今は興味と同じ気軽な“好き”だとしても、いつか妻として愛してもらえるように、私もっと明るく、そして優しくなれるように頑張りますね。
この日私は誓ったのです。
未来にどんな辛く苦しいことがあっても、生涯このひとに添い遂げると。
了