出発前夜
雨の夜、煙菓子を口で転がし、明日の予定をぼんやりと考えていた時の事だ。
普段誰も来ないこの家のドアが叩かれた。
雨の音にも負けるほどの小さな音だったが、何故か妙にはっきりと聞こえて来た。
覗き窓に映っていたのは、泥濘で転んだか、泥だらけになっているガキだった。
顔には見覚えがあった。ずいぶん昔、あのばあさんが拾った奴だ。俺の居場所を知っているってことは、俺がばあさんのもとを離れてからも、ずっとそこに居たんだろう。
ドアを開けると、そいつは一言目にこう告げた。
「エミリアが死んだ」
そんな馬鹿な、と思う気持ちが半分。もう半分は、まあ、そんなもんか、という納得だった。
「中に入れ。今にも死にそうな顔しやがって」
とりあえず体を拭かせ、暖炉の前に座らせた。最後に会ったのは、何年前だったか。まともに話したことは、全くと言っていいくらい、無かったはずだ。
「んで、ばあさんが死んだってのは、なんだ。殺されたのか?」
「…………」
ガキは無言で頷いた。まあ、あいつが事故で死ぬとは思えねえ。思った通りの答えではあった。
「誰にだ?」
「わからない。手紙が来て、母さんが出て言って、それで、帰ってこないから様子を見に行ったら……」
言葉が続かない。嗚咽のような声を漏らしながら、青ざめた顔をしている。
「……ほら、こいつを飲め」
カップを受け取ると、それを一気に飲み干してから、思いっきり咽た。
「っ、なんだよ、これ」
「はは、まだガキには早かったか?」
呼気から酒の匂いが漂ってくる。エールはそう強い酒でもないが、ガキには刺激が強すぎたか。だが、気付けとしては悪くないだろう。
「話は明日訊いてやる。体を冷やしたんだ。今日はもう寝ておけ」
文句ありげな目で睨まれたが、抗議するだけの体力も残ってはいないらしい。
「そういや坊主、お前の名前はなんだ?」
「……アレン」
消えそうな声でそうつぶやくと、アレンは目を閉じ、気を失ったかのように眠りに落ちた。
「全く、面倒ごとを持ってきやがって」
どうせあのばあさんに、何かあったら俺を頼れとでも言われてたんだろう。無防備な顔で眠りやがる。
エールを注いで、一息に飲み干す。
「アレン。アレンね」
そういや、そんな名前だったな。
煙菓子を一つ取り出し、口に放り込んだ。甘い香りの煙を肺の奥まで吸い込み、ゆっくりと口から吐き出す。
「面倒は全部明日だ」
明かりを消し、寝床に就いた。窓から、大月アミナの光が目に入る。いつの間にか雨は止み、空には大小の光が輝いている。
胸がざわつくのは、きっと月のせいだろう。今更あのばあさんが死んだくらいで、悲しむ程の想いも無い。
「……死んじまったのか」
小さく、独り言ちる。
そして、目を閉じ、ゆっくりと意識を手放した。
◆
目が覚めると、知らない場所だった。辺りを見回すと、男の顔が目に入る。男は、椅子に深く座り、煙を燻らせながら鼻歌を歌っていた。
「ようやく起きたか、アレン」
酷く曇った甘い臭いがする。煙菓子とかいう奴だろう。
男の声に、だんだんと昨日の記憶が蘇ってくる。彼は、イヴォークだ。もしもの時は彼を頼れ、と母さんが信頼を置いていた男。
「まずは食え。話はそれからだ」
バスケットから渇いたパンを投げ渡される。試しに一口かじってみるも、やはり食べられたものではない。
「硬い。ミルクが欲しい」
「贅沢言うな」
せめて焼くなり何かして欲しいものだけれど、イヴォークは特に動く様子もなく、椅子に座ったままだ。いきなり転がり込んできて、食べ物が渡されるだけましなのだろうか。
「……しょうがねえ、後で適当に見繕ってやる。それはその辺に転がしとけ」
暫く様子を見ていたが、どうにも歯が立たないのを見かねて、彼はそう言った。
転がしとけ、と言われて本当に転がしておくわけにも行かないだろう。とりあえずテーブルの上、バスケットの脇に歯型のついたパンを並べて置いた。
「さて、それじゃあ、改めてだ。おはようアレン。これからの話をしようじゃねえか」
これからの話。おそらく仕事の話だろう。
もう自立してもいい年ではある。だけれど、母さんの弟子の身である俺は、ずっと母さんと共に暮らしてきたし、これからもそうだと思っていた。
イヴォークが養ってくれるという事はまずないだろう。そもそも、養ってもらうつもりもない。ただ、助けて欲しかった。
「アレン。お前、これからどうやって生きていくつもりだ?」
「……分からない」
「エミリアには何を教わった?」
「魔法の基礎とか、文字とか、剣術とか」
「じゃあ、傭兵にでもなるのか?」
「……それでもいい」
「本当にか?」
ずい、とイヴォークは迫る。顔に笑みは無く、真剣な表情でこちらを睨んでいる。
「魔法使いエミリア・クラムクランは誰かに殺されました。残された可哀そうなアレン君は彼女に教わった技術をもとに、傭兵としてその生涯を終えました。それで、本当にいいのか? お前は、エミリア・クラムクランの最後の弟子なんだろう?」
良い訳がない。考えるまでもない。だからと言って、どうすればいいのか。
エミリアは、俺を育てながら、色んなことを教えてくれた。多分、俺を魔法使いに、いや、魔女にするつもりだったのだろう。
私を超えるくらい、強くなって見せろ、と事あるごとに言われていた。エミリアを、魔女クラムクランを超えて見せろと。自分よりも強い魔女を、彼女は作りたかったんだろうか。
「……強くなりたい」
「なんだ?」
「俺は、母さんを超えるくらい、強くならなくちゃいけないんだ。だって、それが、母さんの願いだったから」
「魔女にでもなるか?」
「なんだっていい。とにかく強くなって……」
そのあとは? どうする? どうしたい?
「……母さんを殺した奴に、会わなきゃいけない」
「殺すためにか?」
「わからない。でも、聞かなきゃいけない。知らなきゃいけない。母さんはなぜ殺されたのか」
「……そうだな」
ため息を一つ吐き、イヴォークは表情を緩める。
「アレン、それなら答えは一つだろ。旅に出ろ」
「旅?」
「ああ。こんな田舎町に燻ってても、どうにもならねえだろ」
そう言うと、イヴォークは立ち上がり、部屋の中をひっくり返し始めた。
「『樹の国』アルマスまで、俺が連れて行ってやる。そのついでに、いくらか魔女にも合わせてやるさ。どうせお前、あのばあさん以外の魔女も知らねえんだろう」
「……いいのか?」
「一人で言って野垂れ死なれてもしょうがねえからなあ」
渋々といった口調だが、表情はそれほどでもなかった。一人ででも旅に出ていきそうな雰囲気さえある。
「やっぱり食え。どうせ乾いたパンばっかり食うことになるんだ」
先ほど齧ったパンを改めて投げ渡される。
「ミルクは買ってくれるのか?」
「後でな。お前の家の近くにあっただろう。向かうついでにだ」
「わかった」
そこから先は、食糧をそろえ、改めて母さんに、庭に作った小さな墓に挨拶をして、荷物をひったくる様に準備して、町から飛び出した。
そうして、俺の旅は始まった。