どこにあったかな 7
都市部がはじめから廃墟であったなんてことはない。当たり前だけれど、ときどき確認しないことには、それすら忘れてしまうような景色が目の前に広がっている。マゼンタはまだ彩り鮮やかだったころの中央市をよく知っている。だからこそ、思い出すことは頻繁に行っていた。
今ではどこに何があったのか、それすらもはっきりとしない灰色の一帯。緑鮮やかなところから来たから、なにか劈くような乖離が心身に痛かった。けれど同時に、来ざるを得ない郷愁のようなものがあった。かつての話である。今は、なにより同行する少女の目的、そして老婆の依頼があってここにいる。
「シアン、今日はどうする?」
地面が舗装に変わってからしばらく歩いて、マゼンタが傍らの少女に問うた。黒猫のようなものを抱えた少女は「うーん」と唸ってから、呟くように「今日はマゼンタの近くで探し物する」と言った。
「そっか」
頼られているような気がした。
二人と一匹と一台は、かつての目抜き通りをいくつか越えて、記憶にある限りの建築物の遺骸を過ぎて、やがて昨日訪れたビル街へと辿り着いた。
「ねえ、マゼンタ」
ガスマスクがイエローの停め場所を決めあぐねてきょろきょろと落ち着かない様子でいるところに、少女が声をかける。マゼンタはあらぬ方向を腕組みして眺めつつ「んー?」と応えた。少女は続ける。「どうして、壁があるのと、そうじゃないのがあるの?」
「んー…わかんないなぁ」
「せんせいなら、わかるかなぁ」
「…そうかもしれないね」
マゼンタは、適当な場所にイエローを停めて、ガラクタの中から帆布で編まれたザックを取り出した。以前、老婆から譲り受けたものである。紐がねじれて背負うのに難儀して、くねくねと無理に身体をひねって、やっとのことで身に着けた。
「じゃ、行こうか」
探索を着手するに手近なビルは、壁面が残っている類のものだった。内装は実に古めかしいものと言ってのけて差し支えない。
「野暮ったい感じがしない?シアン」
「やぼったい?」
「なんだかこう、ふるくさいなぁって」
「ふるい…わかんない?」
「わかんない?」
「うん」
案内板を見るに、ここはかつていくつかの商社が入っていたようで、いわゆるオフィスビルとして機能していたのがうかがえた。六階建ての建物であった。彼らは一階から順繰りに訪ねて回って、役に立ちそうなものを収集してまわった。
「見て!見て!マゼンタ、見て!」
最上階の捜索中、マゼンタに先んじてドアというドアを「ばーん」と叫びながら開けて回っていたシアンが、最奥の部屋に飛び込んでから駆け戻ってきた。まだ色がでそうなペンを探してふらふらしていたマゼンタは、顔をあげた。
少女は、ガスマスクの青年を見上げて胸を張っている。両口角はあがって気色爛漫だが目は何か企んでいるような悪戯心を映していて、彼女の諸手がその小さな背中のほうに隠れているのが一層怪しく見えた。
「なにを見せてくれるのかな」
マゼンタは手をとめて、少女を見遣った。シアンはふふふ、と含み笑いをしてから、右手を掲げた。「これはなんでしょう」
ちいさな手には、ぬらぬらと鱗を光らせる得体のしれない魚が握られていた。生臭い匂いが鼻腔を突こうとするような錯覚にとらわれて、思わずのけぞった青年だったが、よく見るとそれは、はく製と言い張るにはつくりの粗さが目立つ程度によくできた偽物だった。
「魚かな、よくできてるね」
「よくできてる?違うもん、本物だよ、本物のさかな!」
シアンが満足しているようなので放っておくことにした。マゼンタは頷いておいた。
「でね!こっちがもっとすごいんだよ、いひひ」
少女らしからぬ嫌らしい笑みと声を抑えきれない様子で、次いでシアンは左手を、白日にさらした。
その品については、マゼンタも驚いた様子だった。
濁りのない透明の立方体の中に、虹色に彩色された魚類の骨格が浮かんでいる。光少なきところでは目立たないが、それは差し込んできた陽光を浴びると驚くほど鮮やかに息づいた。もちろん生きているというようなことはないのだが、少女の手が動く度に瞬くのが、それと錯覚させるだけの、あるいはそれを表象しているような美しさがあった。
「こっちのほんものの魚もね、ちゃんと洗ったりしたらこんなになります」
「それは知らなかったなあ」
「わたし、は、やってみようと思います」
「…そうか」
現実を知るのもまた成長というものだろう、と、マゼンタは勝手なことを思った。
「目減ずに、頑張ってください」
力強く頷いたシアンは、息付く間もなく「あとね、あとね」と縋った。握りしめていた戦利品を青年が受け取ってザックに詰めると、すかさず彼の手を握って駆け出した。暗い廊下、埃をまき散らしながら、連れられるがままに最奥の部屋に駆け込むと、正面には正方形の窓があった。なにがあったかわからないが、はめ込まれているはずのガラスは欠片も残っていなくて、用を為さない窓枠が外界を縁どるばかりである。
「いろんな色があるよ!」
覗き込んだ直下には背の低い幾つかの味気ないビル、あるいはその骨格が点々と連なったあと、その先に、もっと東に、シアンの言ったような「いろんな色」が広がっていた。
所々でビルの長い影を落としながらも、西日を浴びて光る赤、橙、黄、緑、青、紫...めくるめく色彩の織り成す地上のパッチワークは、まるで巨大なプリズムの落とすスペクトルのようだった。マゼンタの知る限り、それは住宅街。中央市の東側に位置する、かつての人々の住処であった。家のつくりがどれも同じであるのはマゼンタ自身、その街中を幾度となく歩いたことがあるから知っていた。地べたから見回すそれはおそろしく退屈な景色であったのに、こうして俯瞰すると、それは―――
―――思い出してしまった、なんて言い方は随分に言い訳がましい。忘れたことなどないのだ。いま立ち枯れ、鉄骨ばかりになったこの都市も。ほんの少し、星の一瞬きにも満たない時間を遡れば。この光景は、その残り香。
視界が狭いのが煩わしい。できることならこの邪魔くさいマスクをとって、片目はもう幾分も見えていない肉眼で、懐かしくも新しい色を目にしたい。あの残滓の返す光に当てれば、きっと何もかも元通りになる。全てがあった世界に、戻る。
冷静さを欠いた感情の奔りは、呻きよりもなによりも、緩やかに自制を乱した。
そして、すこし、意識を外れた指先が、マスクの止め紐に触れた。
「きれいだねぇ、いっぱいだねぇ」
向こうへ身を乗り出した少女が振り返ってそう笑った。
窓の外の空と同じ色の瞳には、奇妙な人影が映っている。
曇った黒い瞳ばかりが大きくて、顔の先には口の代わりに底の浅い缶のようなものがくっついた、オリーブ色の肌をした醜い化け物だ。けれどその化け物の最も醜いのは、大きな両目の奥で縮み上がった若草色の瞳だった。白昼夢に酔って昏迷に浸り、あまつさえ目の前の少女とのこれまでをも無かったことにしようとした。夢からは覚めず、現には遠のかれる、そんな場所に身を窶そうとしていた。まだ見えているはずの瞳でさえ、そういうことを克明に物語っていた。
応答がないことはさほど気にしていない様子で、鼻唄を唄いながら、シアンは屋外に向き直った。塞ぐものの無くなった窓へ風が吹き込み始めて、少女の髪を忙しく揺らしている。陽はまだ高いけれど、いくらか傾き始めた。ビルの陰は、それに応じてぐんぐんと伸びて行った。カラフルな屋根たちはその薄墨に混ぜられて、いかんともしがたい色になった。景色が変わる。世界が代わる。ここは灰に霞んだばかりで、それはひと時の夢に似たもの。どれも誰しもが知っていたこと。ガスマスクの青年は、それに惑わされて、そして気付いた、最後の人である。
「だけどまだ、きれいだね」
シアンはずっと先を見つめて、目を細めていた。