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どこにあったかな 5

小太りの老女は皺深いその顔をもっとしわくちゃにしながら、飛び込んでくるシアンを抱きとめた。足腰はまだそれなりにしっかりしているので、よろめく様子もない。無邪気に胸元へ顔をうずめる少女の頭を、優しく撫でている。

「ただいま!」

「おかえりなさい、シアン。それからマゼンタも」

少し離れたところでイエローに積んだ荷物を整理し始めていたマゼンタは、空いた左手をひょいと挙げた。ガラクタの塔の天辺でブラックが、んまぁん、と奇妙に鳴いた。イエローは寡黙であった。

 老女の木造の住まいは、廃都市の西に広がる草原のさらにその西端からはじまる、緩やかでそれほど広くはない丘陵地帯にあった。草原から歩けばちょうど、五つの丘を越えると見えてくる。すこし背の低い丘の頂上にあって遠くから認めることはできないが、彼女が起床していれば、決まって竈の賑わいを知らせる一筋の煙が上がっているから、その場所も判然というものだった。

 マゼンタはシアンと出会う前からこの老女とは物々交換を行っており、互いの需要を補完し合う関係にあった。老女の家宅は都市部の喧騒から離れるために建てられたもので、世間との隔絶の為に地下に巨大な食料・燃料庫を有しており、放牧しているヤギから乳製品まで恒久的に得られるとのこと。食うものには困らずむしろ持て余しているというのは、マゼンタが彼女から聞いた話である。対して〈その後の世界〉にあってマゼンタという身の上は、食糧難との戦いを強いられることしばしばであった。腹ペコで体力だけはそれなりにある青年と、加齢故に委縮した胃と釣り合わない食料の山を持つ体力のない彼女が、緩い需要と供給の相関を持つのは当然の帰結だったのだ。今でこそ、マゼンタは当然のように“まだ使えそうな”ガラクタを拾い集めてまわっているが、その奇癖とも労役ともいえる習慣は元はと言えばこの老女との関係にある。このように言ってしまうと随分とビジネスライクに聞こえるけれど本当のところは、自分自身以外のヒトと出会うことが奇跡にも近くなった世界で、それを一期一会などと割り切ることの耐え難さにあった。その証拠に、老女はマゼンタに穀物やヤギのミルクの代金として適当な注文をしておきながら彼が帰還するたびに、

「わざわざありがとう」

 と声を掛けるのだった。マゼンタは老女の言わんとしていることはわかっていたが、一方的に頼り切るのを潔しとしないところがあったし、老女も青年のその気概を快く思っていたので、それ以上のことは無かった。

「今日はすぐに出ますので」

「見つからなかった?」

「いえ、ご注文の品は見つかったのですが」

 マゼンタは老女から視線を外し、その傍らにちょこんと立っている空色の瞳をした少女を指さした。

「シアンの探し物がまだで。それに、魚の缶詰がたくさんある倉庫を見付けたから、忘れないうちにここに運ぼうかな、と」

「また気を遣うのねえ」

「お互い様ですよ」

 マゼンタはマスクの下でにっこり微笑んだ。語気からその様子を受け取った老婆も、眉尻を下げて少し困ったような表情を浮かべた。シアンは満面の笑みである。老女とマゼンタがやさしいやりとりをしているのが大好きだった。

 シアンと老女はこれで三度目の対面だった。マゼンタがはじめてシアンを連れてきたとき、老女はその出来事を青天の霹靂というように扱い、寿命が幾らか縮まったと、事あるごとに呟いたものである。シアンの方はと言うと、出会って数時間は恥ずかしがってイエローの荷台に隠れて出てこようとしなかったが、甘いにおいに釣られて顔を出したところ、口にできたてのクッキーを突っ込まれ、はふはふ言いながら平らげてからはすっかり懐いている。

「おばあちゃんは、何していたの?」

 老女のしわしわの両手をにぎにぎと遊びながら、シアンは少し見上げた。シアンは老女を専ら、おばあちゃんと呼んでいた。その為もあってか、シアンへの溺愛もひとしおの様子である。崩れきっていると思われた相好をさらに崩しながら、彼女は穏やかに言う。

「洗濯物を干そうとしていたのよ。もし良かったら、少し手伝ってくれるかしら」

 少女は二つ返事で、それを引き受けた。

シアンたちは太陽が南中に至る前に、食事をしてからこの場を再び離れるつもりである。マゼンタはイエローのメンテナンスをした後、屋内で三人分の食事を拵えている。その間、老女とシアンはいくつかの家事に勤しんでいた。手始めは、提案通りに洗濯物を干す作業だった。マゼンタはその様子を小窓から、折に触れては盗み見ていた。

 木造家屋の裏手はやはり緩い丘であったが、その斜面の一点には上方で二股に分かれた、天に垂直にして並び立つ二本の木の棒があった。シアンは勝手知ったるという風でその二本の二股に横倒しで、細くまっすぐな木の棒を置いた。物干し台の完成である。得意げに鼻を鳴らすと、老女が嬉しそうに拍手をするので、少女はますます得意満面だった。

 洗濯物を干す作業は、小さなステンレス製の脚立でもって行う。普段は老女が危なっかしく登って一人で行うが、今は元気いっぱい腕白少女がいるので、老女は下で支えになるばかりだった。なんもかもさせてしまって申し訳ない様子もあったが、可愛くて仕方のない孫のような存在が一所懸命にしているのを眺めていられる多幸感がそれを上回っているようである。

「わっ」

 ちょうどバンダナをひっかけようという時だった。丘と草原を、突風が駆け抜けた。短い下草の千切れたものがふわりと舞って、ちょっとした土埃が足元で瞬時に立ち現れ、あっという間に消えて行った。風に顔を伏せてそれを目の当たりにした老女は、すぐに脚立を見上げた。身を案じられた少女は、「平気です」と、天と平行に渡した物干し竿を両手で掴んでいる。バンダナは見当たらなかった。

「あれっ」

 素早く見上げた二人の頭上からややずれたところでは薄い雲に覆われた太陽がそれでもめいっぱいに陽光を放っていたが、刹那にそれが何かに遮られて皆既日食のように見えた。少し風に煽られて、若草色の正方形をした布切れが、逆光の黒から彩を取り戻した。このままでは上空の気流にもみくちゃにされて、随分遠くへと旅に出てしまうものと思われた。舞い踊るバンダナを見上げながら、開け放ったままの口腔のみっともなさを老女が自覚するより先に、シアンは脚立から飛び降りた。

「…気を付けるのよぉっ!」

「はーいっ!」

 外の騒ぎに気をとられてマゼンタが顔を上げると、視界に入ってすぐにシアンの後姿は丘の下に消え、やにわにまた、物理法則を無視して小窓の枠外に上方へと消えて行った。老女の方では元気の良い返事をした少女が、助走をつけるようにたった十数歩、大地を大股で駆けた。そしてそのまま見えない階段を駆け上がるようにして、空へと飛翔した。その様は、湖面を飛び立つ白鳥とよく似ていた。朝露の静寂が染み込んだ水面のように穏やかな様子になっていた草地を蹴り上げて、草飛沫を上げてシアンは跳んだのだ。

 幸い、バンダナはそれ程遠くまで流されていなかった。巨大な螺旋階段に戯れるように大きな円の軌道を重ねて、とっとっ、と跳ね駆けながら徐々に上空へと進んでいったシアンはバンダナの傍らまで昇ると、両手でがっしり捕まえた。

「よーっし!」

 勢いをそのままに、彼女は往路より随分大雑把な円を描いて下降を開始した。明らかに速度が速い様子であったが、そもそも未だに空を駆ける彼女を見慣れない老女はその速度違反を注意する余裕なく、小窓の内側のマゼンタが危険に気付いて家から飛び出そうという時には既に、地上が目前だった。

「駄目だったら!」

 遅きに尽き、且つ屋内故に届かぬ警告空しく、白いワンピースの少女は着陸において勢い余って転がり、そのまま丘の向こうに消えて行った。老女がかすれた悲鳴を上げ、すぐにそれを追って行った。気が気でないという後姿で、なんともいたたまれなかった。

 マゼンタはしかしシアンの妙な頑強さを心得ていたので、特に構えることもなく、玄関からゆっくりと裏手に進んだ。丸太で組まれた立派な壁面の陰から少し距離のあるところに、シーツやらなにやらがはためく物干し台があった。そしてその傍らには、老女と少女が手をつないで立っている。老女はまだ動揺が拭えないという様子で、肩が縮こまって可哀そうに見えた。一方、少し背の低い少女は満面の笑みを称えて、

「取り返しました!」

 と、悪びれもせず報告するのだった。


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