どこにあったかな3
「せんせい?」
聞き慣れない言葉だった。
「そう、先生。シアンが私に用があるのなら、そう言いなさい」
その時いつも通りに「ねぇ」と話しかけたら、そんな風に返されたのだ。
これは私が“先生”に出会ってから迎えた七回目の朝だ。
「それって、まえにいってた、みょうじとはちがうの?だってなまえは“でーびす”」
「戸籍上の登録名称はスレート・デービスだとも。個人名がスレート。家族名がデービス。どちらも単なる記号に過ぎないが、代名詞で語るにはこの世界は広すぎたし、モノで溢れすぎていた」
むつかしい言葉だらけだ。あの時も、そして今も、いまいち何を言っているのかわからなかった。それでも“先生”が私になにをして欲しかったのかは、あの時でもよく分かった。だから私は、三回目の夜にお腹が減った時に初めて〈私〉という言葉を使ってみた時のように、すぐに新しい言葉を使ってみた。
「“せんせい”、私、ごはんたべたい」
「よし。昨日の朝と同じ、それほど美味しくもないパンだ。いいかな?」
「いい」
「「はい」か「いいえ」、で良いのだよ」
「はい」
「ありがとう。私もシアンにとって良い朝食になるように腕によりをかけよう」
「よりをかけよう…?」
「…ご飯の後に、教えてあげるさ」
ぼやけた視界に映る黒い塊は彼女の頭ほどの大きさで、細くて長くて奇妙にくねり動く部分を有している。目が覚める少し前からそれが鼻先をくすぐっていた。シアンは冴えない思考の中で、その塊が以前に本で見かけたことのある猫という生き物であると決定し、且つ知り合いであることに気づいた。それからすぐに、手を伸ばしてそれを引っ掴んで抱き寄せた。
それは細い十本の指につかまり、毛布の中に吸い込まれてから「ぬぉ」と鳴いた。
ふわふわとした快い触り心地にシアンはうっとりとする。なんとなく満足する。
ブラックの奇妙な鳴き声に気を取られたマゼンタは、焚火に放り込もうとした薪を放すのを忘れたから少し指先を炙った。悲鳴を上げてから、大袈裟に腕を振り回している。
悲鳴を聞きつけた一人と一匹が、同時に彼を見る。
すっかり夕刻になった大橋の廃墟。
覆う灰色の闇と向こうで這いつくばった夕陽色、それからまだ小さい篝火の三色を映した橙色の瞳は一対あって、よく見ると胸のすくような空色を仕舞い込んでいた。もう一対は混じりけのないこがね色で、煌々と滾り光っているかのようだった。どんなものを見ても変わらない瞳の色だから、ブラックと目が合ったマゼンタは、時々それに妙な寒気を覚えるようにこの瞬間も、余計に体を震わせた。
「…たくさん寝ちゃった」
シアンは事実の報告をした。
「うん、たくさん寝たね」
マゼンタはその確認をした。そうしながら、彼女が疲弊してしまうほどの日中の活動を許したこと、慮れなかったことを悔やんだ。視線をそらしてから欝々としばらく薪をいじって、やがて火の勢いが落ち着いてきたころになって、その妙な責任感が思い上がりのような気にさえなって来た。許すも何も無かったなと首をかしげる。彼女は彼女、僕は僕、それぞれ違う目的があって、ただ偶然の内に連れ合いになっただけのお話。なんでもない二人で、そして一匹と一台。
けれどそんな割り切りとは裏腹に、ブラックを抱きしめて覚めやらぬ陶酔に呑まれそうなシアンを短い間に二度垣間見ると当然のように寄っていって、その手を引いてきたのだった。




