8. ディアナ、灰色熊に手綱を絞られる
「ローゼナルトを飲んだことはあるか?」
リンツ団長の問いに私は頷いた。
「成人の――十七の誕生日に、父が用意してくれてました」
北側の隣国にあるローゼナルト地方は、古くから名酒の産地だ。
山岳地帯で、質のよい湧水と一年を通して涼しい気候が、おいしい酒を産み出すのだという。
その中でも"ローゼナルト"の名を冠する葡萄酒は、どこの国でも祝いの酒として欠かせない。鮮やかなピンク色と仄かに甘い風味の製法は門外不出。その一本の値段は、庶民の一家族が一ヵ月暮らせるほどだ。
「口当たりのよい葡萄酒でしたね」
高級葡萄酒の味より、あの学問馬鹿の父が娘の誕生日を覚えていた事の方が驚きだったけれど。
「ジークさんが言っているバッタ物とは、ローゼナルトのなんですか?」
「バッタ物……お前、本当に語彙が豊かだな」
「そうですか? まだまだ下町っ子には勝てませんよ」
「勝ってどうする。方向性を完全に間違っていると思うが――まあ、そうだ。三ヶ月ほど前に王宮の厨房で見つかったのが最初だ。知っているだろうが、王宮では王族の口に入る物はすべて毒味される。その時に毒味役が味の違いに気がついたんだとさ。調べてみると、納品された三ケースのうちの一つが紛い物だった」
「それ、普通の人なら飲んでも分からないですよね?」
「たぶん。そうそう頻繁に飲む物じゃないからな」
リンツ団長は立ち上がると、壁際に置かれたキャビネットから瓶とグラスを二つずつ持ってきた。
ローゼナルトだ。
「開けて一週間経っている」
リンツ団長はそう言って、それぞれの瓶から葡萄酒をグラスに注いだ。
一つは綺麗なピンク色。もう一つはくすんだ薄紅色だ。
私はくすんだ色のグラスを取って、匂いをかんだ。
「発酵が進んでますね。こちらが本物ですか?」
「あたり」
「バッタ物の方は一週間経っても色が変わらない、と」
「ああ。お前の言うところの"おすすめしない色素"で着色しているんじゃないか?」
私はもう一つのグラスを手にして、軽く揺すった。
「鮮やかですね……おそらく人工的に合成したものかと。もしそうなら、これを飲んだ翌日はひどい二日酔いになるでしょうね」
「それだけか? これは体に蓄積しないのか?」
「微量ですから毎日一本飲んだとしても、目に見える症状が出てくるのは年単位で後のことです。ただ、症状が出てきた時はもう手遅れです」
「普段使いではないのが救いだな。開封しないで見分ける方法はないか?」
「無茶言わないで下さい。いっそ輸入しなきゃいいのでは?」
リンツ団長は腕組みをして私を真っ直ぐに見た。
「関係者全員、それも考えたさ。だがな、想像できるか? 結婚式や、子供が生まれた時や、成人の祝いにローゼナルトがないなんて」
私の成人をローゼナルトで祝った時の、父の得意そうな顔が心をよぎった。
「なかったら、人生の楽しみを一つ逃す気がします」
「だろ? 今のところは、ケースごとに一本ずつ抜き取り検査をしている。検査を通った物は検査済みのラベルをつけて市場に出しているのだが」
リンツ団長は二本の瓶を傾けて、私にラベルを見せた。
「抜き取り調査は、開けて数日置くという方法ですね?」
「そうだ」
「そしてこのラベル用の紙、特別製ですよね?」
「ああ。偽造できないようにな」
私はため息をついてリンツ団長を見た。
「何本も無駄にするような抜き取り調査、特別製のラベル、その経費はどこが負担するんですか?」
「価格に上乗せだ」
「ただでさえ高いのに? ますますバッタ物が横行しますよ」
リンツ団長は熊のように唸った。
「すみません。ジークさんのせいじゃないですよね」
「いや、気にするな。市井で起きることは全て、我が騎士団の管轄だ」
真面目だなあ。
「ええとですね、試薬のようなものを作ればよいと思うのですよ。それなら開けてすぐでも分かるでしょう? 無駄になるのはグラス半分だけで済みます」
「そんな物ができるのか?」
「それほど難しくないと思います――あ、待って下さい。私じゃないですよ。王立大学の研究室に依頼して下さい」
リンツ団長は、無言で問いかけるように片眉を吊り上げた。
「私はただいま別件の仕事で忙しいんです。時間のかかる仕事は困ります」
「何の仕事だ?」
「大学の仕事です」
「それならいいが。酒場でお前を見た時は、俺の目がどうかなったのかと思った」
「よく気がつきましたよね。変装してたのに」
「あれで?」
私はムウッと口を尖らせた。
「普通の人は気がつきません」
「俺は普通の人間じゃなくて、灰色熊だからな」
リンツ団長は、からかうように首を傾げて私の顔を覗き込んだ。
「あの時着ていた服は、どういう仕掛けだったんだ?」
「何がですか?」
「しらばっくれるのかよ。見る角度で色が変わってたじゃないか」
「野生の勘! ジークさん、凄すぎです。ほとんどの人は、最初に見えた色にしか見えないんですよ?」
「誉めてもディナーデートしか出ないぞ」
「いえ、それはお断りの方向で」
「ちっ、引っ掛からなかったか――で、あの服は、何をどうやったんだ?」
「あれ、服地の染色に失敗しただけなんです。濃い紫に染めようと思ったのですが、手違いであんな色に。棄てるのももったいないので自分の服を仕立てましたらですね、どうも目の錯覚を引き起こすらしくて、人によって見える色が違うんですよ」
リンツ団長は、まじまじと私を見た。
「その失敗、再現できるか?」
「えっ? ああ、できるはずですよ。全て記録を取っていますから」
はぁーっと深いため息。
灰色熊さん、どうかしましたか?
「お前を野放しにしておくの、心配になってくるわ。いいか? 見る奴ごとに違う印象を与える服があったら、俺なら間諜に着せるぞ」
「ああ、なるほど。それは名案です」
私はポンと手を打った。
リンツ団長が呆れたように頭を振る。なぜだ?
「同時に、だ。他所の間諜には着て欲しくない」
「それはそうですよね」
「で、お前の作った物、あるいは技術を欲しいと言う輩が現れたとする。お前は、そいつがこの国にとって、敵か味方か区別がつくんだろうな」
「申し訳ありません。無理です」
「即答かよ!」
リンツ団長は苦笑すると、私の手を取って手のひらを上に向けさせた。
「これは、酒場の女将から回収した品代」
金貨が手のひらに乗せられた。
「これは今日の相談料。それから、これはお前が技術を売るのを差し止める補償金だ。毎月同じ金額を渡す。どんな物も俺に相談なく売るなよ?」
思いがけない収入に、私は目を見開いた。
「灰色熊さん!」
「なんだ」
「け、け、け、契約書、作ってもらってもいいですかっ?!」
「ああ。契約書でも、誓約書でも書いてやるぞ」
「誓約書はいいです。なんか重い気がする」
「俺は重い関係を望んでいるんだがな」
リンツ団長はさらりとそう言った。
すみません。意味が分かりません。重い関係って何だろう?
戸惑い、パチパチと瞬きをすると、リンツ団長は私の頭を撫でて、『成り行きに任せるか。こういうことは縁だしな』と言ったのだった。