7. ディアナ、灰色熊に餌付けされる
淡いクリーム色の壁に沿った殺風景な階段を三階まで上ると、建物の雰囲気は一変した。
長い廊下には毛足の長い赤絨毯が敷かれていて、片側に並ぶのは真鍮のノブがついた重厚なオーク材の扉だ。表面には、これでもかというくらい複雑な彫刻が施されていた。
扉と反対側の壁には、巨大なガラスがはめ込まれている。
その向こうを見下ろすと、芝生に囲まれた広い競技場のような場所があった。
ひょっとして、あそこを走っているのはさっきの人達かな。あれを十周? 馬じゃなくて、人間が十周?
なんというか……
「偉そうな場所ですね」
ポツリと感想を漏らすと、リンツ団長はクスリと笑った。
「お偉いさんばかりの階だからな。贅沢なもんだろ?」
「やり過ぎ感は否めませんね」
「だけどな、これは必要なんだ。基本、軍ってのは実力主義だ。出自は関係ない。ここは、どんな境遇に生まれても頑張ればこういう場所で仕事ができるっていう見本でもあるんだ」
「ジークさんも、ここを目指して頑張ったんですか?」
見上げると、緑の瞳が私を見返した。
「そうだ。俺は一応貴族の出だが、たまたまそういう家に生まれただけで、そんなの自慢にもなりゃあしない。だろ?」
「ああ、なんとなく気持ちは分かりますよ」
学問の世界も実力が物を言う。まあ、多少は学閥みたいなものもあるが。
「副団長のエミールなんかは、捨て子でな。子供の頃に食べられなかった菓子を買いまくることが、あいつの夢だったらしい」
「えっ、えっ、えっ! 待って、ジークさん、そんな人からお菓子を取っちゃダメですよ!」
「大丈夫、大丈夫、任せておけ」
お―――――――いっ!
私が止めるのも聞かず、リンツ団長は真鍮のプレートがついた副団長室のドアを叩いた。
「おい、エミール、開けるぞ」
灰色熊さん、『開けるぞ』と言った時にはもう開けてるってどうなの?
「団長――?」
「あー、いい、いい。お前ら全員座ってろ。クリームが落ちる」
好奇心に負けて、私はリンツ団長の後ろから中を覗きこんだ。
えーと………とりあえず、この国は豊かで平和だわ。
重厚な調度品でまとめられた部屋の中で、厳つい風貌の大人の男が三人、テーブルの上に色とりどりのケーキを並べて食べていた。
うん。別にいいよ。
ケーキは美味しいものね。男性だって食べたいよね。ただ――
「なに、その量……」
あ、しまった。また、心の声が……
「凄いだろ?」
リンツ団長は楽しそうに言った。
「エミール、俺の客用に菓子を分けてくれないか?」
「もちろん、宜しいですよ。珍しい。女性のお客様ですか」
「ああ、まあな。緑のなんとかって店のがいいらしい」
「『緑の丘』ですね。まだ箱を開けてないので、そのままどうぞ」
ええっ! それの他にもあるの?
「あのぉ……」
私の後ろから、テルマが遠慮がちに声を上げた。
「大変差し出がましいのですが、お茶をお入れしましょうか?」
確かに、テーブルの上には飲み物が一切ない。
ケーキを乗せた皿を抱えた男三人は一瞬固まった後、ブンブンと上下に激しく頭を振った。
「まあ、そこに座れ」
リンツ団長に勧められ、私は長椅子に座った。
うおぉぉ、ふかふか。さすが騎士団のお偉いさん。いい家具使ってるね。
リンツ団長の従卒さんとうちのテルマが、手際よくお茶とケーキを並べていく。
従卒さんはまだ十五、六の少年で、下町言葉を口にしては言い直している。貴族の家にお勤めのお姉さんに緊張しているようだ。
大丈夫だよ。実はテルマもチャキチャキの下町っ子だから。
「では、あちらの方達にもお茶を入れて参りますね」
テルマはそう言って、従卒さんを連れて執務室を出て行った。
さすがは我がグラウシュタット家の使用人だ。少人数で家を切り回しているだけあって、仕事に無駄がない。
「お話って何ですか?」
果物とクリームたっぷりのケーキだ。美味しそう。
「菓子に話しかけるくらいなら、先に食ってしまってもいいんだぞ」
私は顔を上げた。
「いえ。見た目も堪能したいので、ゆっくり食べます」
テーブルの向こうのリンツ団長は、座っているせいで、とても近い気がする。物理的な意味だけではなく。
「これはお前のだな?」
コトリと置かれたのは、私の香料の小瓶だ。
中には濃紺の液体が半分ほど入っている。
「私が作った物です。言っておきますが、違法な成分は入っていませんよ」
「そうらしいな」
「安酒に色つきの香料を入れるのは、下町じゃよくあることです」
「ああ」
「私の他にも作っている人、いますよ?」
「それも知っている」
リンツ団長は膝の上に片肘をつき、手のひらに顎を乗せた。
「世間に出回っているのと違って、こいつは随分と綺麗だった。二段階で色が変わるんだな」
「夕暮れをイメージしてみました」
「なるほど。少し置くと色が褪色していくのはなぜだ?」
「天然の植物色素は色味が安定しないんです。でも、お酒ってすぐ飲んでしまうからそれで充分なんです」
「色を安定させるにはどうすればいい?」
「安定させる物質で色素を溶かすか、鉱物系の色素を使えばできますよ。ただし、食品向きじゃありません。内蔵に蓄積していくので、いずれ体を壊します」
リンツ団長は上を向いて『うーん』と唸った。
考え事ですか? 邪魔はしませんよ。ケーキを食べておとなしくしています。
うん。甘味あっさりで、苺の酸味とのハーモニーもすばらしい。いくらでもいける味だ。
「悪質な密造酒が出回ってる」
リンツ団長は上を向いたままポツリと言った。
「製造場所は国外ですか?」
「なぜ知っている?」
「知りませんよ。推測しただけです。製造場所が国内なら、とっくの昔にジークさん達が叩き潰しているでしょう?」
「信頼、痛み入る」
だてに"雷神"なんて呼ばれてないと思うよ。私から見たら熊だけど。
「厄介なのはその酒が、高級酒のラベルをつけて高級酒に混じって、正式なルートで輸入されていることなんだ」
「ワーワーワー、聞こえません」
私は耳を塞いで騒いだ。
「そんな大事な話をして人を巻き込むの、やめて下さいね」
「冷たいこと言うなよ。お前、色彩合成が専門だって言ったじゃないか」
「どうしてそんな細かい事、覚えてるんですかっ!」
叫んだ私の口に、ケーキを飾る大粒の苺が突っ込まれた。
リンツ団長は、私の口に苺を入れたまま、ニイッと笑った。
「『魔女の館』の女将から、香料の品代を回収してあるぞ。それに、我々は調査料の名目で予算をちゃんと計上してある。タダ働きにはならんが?」
私は口の中の苺を咀嚼して、ゴクリと飲み込んだ。
「詳しいお話、お伺いします」