3. ディアナ、夜の街に紛れる
グラウシュタット伯爵家の地下には、先々代のさらに先代が造ったと言われている研究室がある。
"研究室"なんて言うと聞こえはいいが、要するに、くすんだガラス器具と琺瑯の大鍋だらけの台所といった風情だ。
最初に私がここの鍵をこじ開けて中を見た時は、他にも奇妙な物がたくさんあったが、いつのまにかヨハンに始末されていた。
曰く、『淑女が見るような物ではありません』。
どうやら、ご先祖様は怪しい性癖の持ち主だったらしい。
それなら同じ趣味の方に売りさばけばよいと思ったのだが、ヨハンに思いっきり叱られた。
家名に傷をつけずに収入を得るのは、結構難しい。
「だから、私だって分からなきゃいいのよね」
私は鼻歌まじりに、地下室の棚から色とりどりの小瓶を下ろし、古ぼけたバスケットに入れた。その上に黒い布を被せる。
それから部屋の隅に掛けられた大鏡の前で身支度を整えた。
私が今、着ている服は、街の商店の娘が着ているような簡素なワンピースで、色は茶色と青紫が混じったようなビミョーな色だ。染色を失敗してしまった布で仕立てたのだが、思いがけず私にとって"使える服"となっている。
いつもはリボンで後ろにまとめている黒髪も肩に垂らし、毛先にいくつもの銀色の髪飾りを着ける。一見、銀細工のように見えるが、あくまでも銀色の模造品だ。
いつもの眼鏡を外し、化粧をする。
目の上には銀粉の混じった青、唇には黒ずんだ紅。
両手首にいくつものブレスレットを着け、最後に黒いレースのストールを頭から被る――はい、変装終わり。
「よいしょっ……とぉ」
大鏡をずらすと、秘密の通路が現れた。
これを作ったのはおそらく件のご先祖様だろう。
通路の先は我が家の通用門脇にある無人の――もちろん経済的な理由で――門番小屋である。
私は小屋を出て、いつものように鍵をかけた。
どこからか明るい音楽が聞こえてくる。
おそらく三区画先の男爵家だろう。
当主は大層な商売上手だという。没落した伯爵家の屋敷を買い叩き、しばしば商売相手を招いてのパーティーを開いている。
「豪勢ねぇ……ま、人は人、自分は自分」
母がよく口にしていた言葉を呟いて、私は坂の下の灯りに向かって歩き出した。
「ディーディー? 今夜は遅かったわね」
菱形の窓がついた赤い扉を開けると、低くかすれた声が私を出迎えた。
「出がけに使い魔がそそうをしたのよ」
私は黒いレースの下で肩をすくめた。
"魔女ディーディー"。それが私の夜の顔だ。
別に魔法が使えるわけではない。
私はここ、『魔女の館』というかなり痛いネーミングの酒場で占い師をやっている。店の設定上、"魔女"のつもりで振る舞わなければならないのだ。
最初は安い蒸留酒に綺麗な色をつける香料を店に売りつけていたのだが、いつの間にか女将の陰謀により、私は"小間物売りの魔女"と呼ばれ、店の見習い魔女から占い師へと設定が進化していった。今となっては、散歩中に上空から鳥のアレが頭に落ちてきた気分である。
お店の中では私よりよっぽど"魔女"な姐さん達が、お客様の接客をしている。夜の灯と化粧は偉大だ。いやもちろん、うん十年もの間、体形を維持している姐さん達にも脱帽だが。
「はい、これ。いつもの」
私はカウンターの上にバスケットを置いた。
酒場の女将が中に入っている香料の瓶を確かめる。
いや、間近で見るとすごい迫力。
女将、昼間のシワはどこへ行った? もはや魔女を通り越して妖魔怪物の類いだわ。
こみ上げてくる笑いを隠すために店の中をぐるっと見回すと、見覚えのある男に気がついた。
――グラーザー男爵家の次男じゃない?
うちの三区画先の。
店の奥、趣味の悪い置物の陰で、誰かと話し込んでいる丸い横顔は確かにそうだ。相手の方は置物のせいで見えない。
「妙ね……」
あそこの家、長男はアホだけど、次男は父親似のやり手だという。仕事がらみのパーティーをさぼって、こんなところで遊ぶだろうか? どうせなら新市街の、若い女の子がウサギの耳をつけているようなお店に行くだろう。
「女将、カードをちょうだい」
「あいよ。なんだい? カモでもいたかい?」
「まあね」
私はレースのストールを目の下まで下げ、占い用のカードを手に奥のテーブルへと向かった。そして、女将ばりの低くかすれた声を作って、テーブルの端に片手を乗せる。
「はぁい、お兄さん達、運勢占いはいかが?」
男達が顔を上げた。
一人は私の予想通り、グラーザー家の次男だった。そしてもう一人は灰色のフードを目深に被った痩せた男――四十はとうに過ぎているだろう。二十歳そこそこの男爵次男の遊び相手にはどう見ても年をとりすぎている。フードの陰から、左の頬にある、深く引きつれたような傷が見えた。
黒のレース越しに男と目が合った。
鋭いとび色の目が、品定めをするように私をジロジロと見た。
「要らん。あっちへ行ってろ」
「あたしの占い、当たるのよ?」
なにせカード占いに関する文献を、十冊以上は丸暗記したのだから。
「ほら一枚引いて?」
男爵家次男に向けてカードを扇のように広げて差し出す。
「"金貨の3"……なあに? 商談なの? つまんない人達ね」
次男が引いたカードをテーブルに置き、その上下左右に四枚のカードを置く。
「"剣の10"……ヤバい仕事? "旅人"……今は順調みたいね。"女神"……成功は約束されているわ。ただし――」
私は一番上に置いたカードを指差した。
「"死神の馬"……あなた方には必ずや大きな試練が降りかかるでしょう」
芝居がかった口調で私が言った途端に、入り口のドアが大きく開いた。
「全員、そのまま! 聖ルドヴィック騎士団の巡回である!」
制服の騎士が三人、店の中に入ってきた。
「うわぁ……抜き打ち検査かよぉ」
店の客たちから呻き声があがる。
「心配するな。違法賭博は罰金で済む」
騎士が爽やかな笑顔で言い放った。
「慰めになってねえっ!」
「おい、女」
背後からささやき声と共に、私の首に冷たい物が当たった。
金属の感触だ。
「振り向くな。テーブルの上の金をやる。その代わり、俺たちのことは話すな。もし話したら、必ずお前を見つけ出して――分かるな?」
私は無言で小さく頷いた。
金属が離れた。
微かな衣ずれの音を残し、男達が影のように去っていく気配がした。
いったいどこへ?
こっそり振り向こうとした私の前に人影が立った。
「おや? ご婦人、お一人か? 接客中のように見えたのだが?」
さすが騎士様、礼儀正しいこと。酒場の姐さん達を"ご婦人"なんて呼ぶんだなあと、顔を上げて――あれ? さらに首が痛くなるほど上げて――おわぁぁぁぁぁっ!
目の前にいたのは、ブルーグレーの灰色熊さんだった。