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三題小説

三題小説第三十七弾『薬』『牛』『軟禁』タイトル「件」

作者: 山本航

 確かに物音を聞いた。一定のリズムで牛の厩舎の方へ近づいていく音だ。

 この牧場では多くの動物を飼育しているし、山の中であるから他にも野生動物や虫の起こす音はよく聞くのだけれど、今聞いたのは明らかに人間の足音だった。


 真っ暗な寝室のベッドの上で私は耳を澄まして家の外の様子を探る。足音は徐々に遠ざかっている。

 私もまた静かにするりとベッドから抜け出す。このような夜更けに外を出歩く人物に心当たりはない。念の為に妻と二人の子供の様子を見に行ったが、三人とも寝室で深く眠っていた。

 牛泥棒なんてものは考えにくい。だけど何かしらの悪戯の被害に遭ったという話は同業者から何度か聞いた事がある。牛に怪我をさせられてはたまったものじゃない。


 私はすぐさま居間の電話から通報し、しかし電話口の「ただ待っていろ」という指示には従わず、金属バットと懐中電灯を持って家を出た。

 遠く人影が厩舎の中へ入っていくのをこの目で確認し、後を追う。どうやら奴も懐中電灯を持っているようだ。私は気付かれないようににライトをオフにしたまま後をつける。

 まるで私の方が悪い事をしているかのように抜き足差し足厩舎に近づき、手近な窓から中を覗き込んだ。予想に反して真っ暗で何も見えない。奴は中に入ってから懐中電灯を消したのだろうか。人の気配も感じない。いや、人の気配どころか……。


 じっとそこで何かが起こるのを待っていても涼やかな虫の鳴き声が聞こえるだけで何の変化も起こりそうにない。


 仕方がないので入口から回り込もうとした時、野太い叫び声が厩舎の中から聞こえてきた。驚きつつも、金属バットを固く握りしめ、入口の扉を勢いよく開く。

 既に叫び声は聞こえず、そこには誰もいなかった。そして牛一頭見当たらなかった。頭の処理が追い付かず、体を動かせない。ふと何かが動く気配がしてそちらに懐中電灯を向けたが、それが何なのかを認識する前に私の意識が遠のいた。



 どれくらい気を失っていたのだろうか。私は固く冷たい床に寝かされていた。牛の鳴き声を聞いたような気がして目が覚める。節々に痛みを感じながら体を起こす。

 果たして実際に牛たちがそこにいた。私の飼っている牛たちだ。確かに我が牧場の使用している耳標をつけている。このような状況下におかれて牛たちは気を荒くしている。中には頭をぶつけ合っている牛たちもいる。三十頭を超える我が牧場の牛たちが全て連れて来られているようだ。


 ここは薄暗い部屋だ。壁に取り付けられた芋虫のような電灯は何故か緑と紫のコントラストで安っぽいお化け屋敷のような様相を呈している。その奇妙な色合いが牛たちを化け物めかせていた。

 辺りを見回すと金属バットと懐中電灯が側に転がっていたので拾い上げる。懐中電灯は異常なく点灯した。


 牛たちとは違い不思議と冷静な自分に気付く。


 明りを方々に向ける。かなり広い部屋だ。これだけの牛が収まっているのだから当然だけれど、我が牧場の厩舎と同じくらいの広さだろう。


「ひいっ! 何だ! 誰だ!」と、誰かが上ずった悲鳴を上げた。


 私は声の聞こえた方向に懐中電灯を向け、牛を掻き分け、暴れている牛は避け、近づいていく。その姿を見る前にその人物に心当たりが生まれていた。聞き覚えのあるその声は兄の声だった。


「兄さん。何でこんな所に……」


 懐中電灯に照らされた兄は子供のように怯え、自分の身を庇うように腕を構えている。

 かつて兄は、楢崎誠一はミュージシャンを志して家を飛び出した。前近代的父と長男として牧場を受け継ぐ事から逃げ出したのであって、ミュージシャンの夢は言い訳に過ぎないと私は思っているが。

 まさか十数年ぶりに再会するとは思ってもみなかった。まあこのような状況に放り込まれる事と比べれば、大した事でもないかもしれないが。


「ひ、久しぶりに実家に帰ってきただけだろ! それなのにそれだけなのに何でこんな目にあわされなきゃならないんだ!」


 それだけなら深夜に厩舎に近づく必要はないように思うが、この状況でその事を追及しても仕方ない。


「これは私の仕業じゃないよ、兄さん。という事は兄さんの仕業でもないんだね?」

「あ、あ、当たり前だろ! 何で俺がこんな事をしなきゃならないんだ!」


 私はため息をつく。


「それもそうだね」


 こんなに臆病な男だっただろうか。兄が出て言った時、私はまだ子供で、だから大きな人間に見えていただけなのかもしれない。それともこの十数年の間に美化されたのかもしれない。

 懐中電灯の明かりをあちこちに向ける。兄の悲鳴を無視して何かしらのヒントを探る。一体ここはどこで私達は何故このような所に押し込められているのか。


「おい! 栄二! 俺にライトを寄越せ!」


 無視して壁に近づく。壁は金属のようだが、不思議な光沢を描いている。油に覆われているかのような紫と緑の光沢だ。触ってみるとざらざらしていて温かくて、小刻みな振動が伝わってくる。どうやらこの壁によって円形に囲まれているらしい。

 壁を伝って慎重に歩いてみる。すると一か所だけ壁にスリットがあった。牛は通れないが大の男でも横になれば通れそうだ。覗いてみると同じような部屋があるように見える。数は少ないがあちらにも牛がいるようだ。


「栄二! どこだ! どこ行ったんだ!」

「こっちだよ。兄さん。こっちに通リ抜けられそうな隙間がある」


 兄はおっかなびっくり引けた腰で駆け寄ってきた。


「隙間? 出られるのか?」

「分からない。でも通られそうだ」

「よし、先に行ってみろ」


 兄もかなり落ち着いてきたようだがまだ声が震えている。


「そう言うだろうと思っていたよ」


 こういう性格だった事は全然覚えていないが、最早理解でた。今は亡き父も母も家を飛び出した兄に対して怒ってはいたが悪口を言うような事はなかった。だから何となく兄は当然の反抗を行い、父母には罪悪感があるのだと思っていた。どうやらそんな事はなさそうだ。要するに何に立ち向かうでもなくただ逃げ出したのだろう。


 私はスリットに体を押し込める。ガニ股で首を横に曲げながら、床を擦るように隣の空間へと進む。しかし丁度中間で体が止まった。


「どうした?」


 後頭部の向こうから兄が呼びかける。


「どうやら詰まったようだよ」

「何してるんだ。早く進め」

「やろうとしてるよ」


 しかしいかんせんこの十数年で腹が出た。つっかえて進まない。それにこの壁のざらざらが摩擦力を高めている。


 突然兄が悲鳴を上げた。私の頭は固定されていてとても兄の様子を窺えないが、なにやら大きな変化が起こっているようだ。どたばたと忙しそうな様子が聞こえてくる。


「蛇! 蛇だ! 栄二急げ! 蛇に食われちまう! 早くしろ馬鹿!」


 兄が何度も私の肩を小突いてくる。

 蛇なんて影も形も無かったはずだ。それにこの隙間以外に蛇が入ってこれそうな場所などなかった。一体何と間違えているんだこの男は。


 ひと際大きな悲鳴だ。兄は半狂乱になって私がつかえている隙間に入ってくる。


「食われた! 牛が食われた! 一呑みだ。馬鹿野郎! 急げ栄二! ああ! 天井に! 天井から伸びてくるんだ! 早く! 早く!」


 私は兄にぐいぐいと押され、隣の部屋へ飛び出し、床にしこたま顔面を打ちつける。すぐに続いて兄も飛び出し、私の上を這って逃げた。

 振り返って隙間を見ると確かに巨大な蛇のような何かが天井から伸び、のたうち、牛を一頭一頭一呑みにしていた。しかし蛇のようで蛇ではない。壁と同じような金属で出来た蠢く管のようだ。しかし機械のような正確性はなく、牛を品定めしつつ呑みこんでいるように思える。それまで落ち着いていた牛たちも、いざ呑み込まれる段になるとさすがに鳴き暴れ、牛追い祭りのような騒動になっている。


 私は咄嗟に天井を見る。こちらの部屋に蠢く管はないが、さっきの部屋でも最初はそんな物見当たらなかった。次の瞬間にでも天井に隙間が開いて管が伸びてくるかもしれない。この部屋にも別の部屋へと続くスリットがないのか、と私は部屋全体を見渡す。明りの具合も壁の様子もさっきの部屋と寸分違わないようだ。


 この部屋には一頭の牛と一人の男がいた。


 私はその有様に悲鳴を上げる事も出来なかった。どうやら兄も同じようで、口を大きく開いたまま固まっている。その部屋は凄惨な殺人現場のような様子で、そこら中に血が飛び散り、肉や内臓が散らばっていた。

 しかし私と兄の視線はその状況を飛び越えて釘づけになっていた。そこに男と牛がいる。体がバラバラになってはいない男と牛だ。ただし頭が牛で体は人身の男と、頭は人身で体は牛の二体の化け物だ。

 いつの間にか先ほどの部屋の騒動は静まっているが化け物たちから目を離す事は出来ない。そしていつの間にか金属バットも懐中電灯も手放していた。素早く辺りを見回すとたんに床に落ちていただけだったが、腰を落として拾う動作が隙になるように思えて動けなかった。


「人間は久しぶりだ」と、化け物のどちらかが言った。


 暗くて分からないが人面牛身の方がよたよたと進み出てきた。頭だけ見ると五十代くらいの男のようだ。禿頭で顔は脂ぎっている。その人間の顔も牛に似ている気がする。

 私はくだんという妖怪の伝承を思い出した。この手の話の常として諸例諸説あるらしいが、私が知っているのは人面牛身の化け物として牛から生まれ、生まれてすぐに予言を残して死ぬ、というものだ。見たところこのくだんは顔は成人、体も成獣のようだが。

 兄が低い唸るような悲鳴を上げて後ずさる。金属バットと懐中電灯を拾いつつ私も兄に続く。


「くそ! 一体何だってんだ! 何なんだよお前らは!」


 兄はスリットを背にして叫ぶ。しかし戻る気にもなれないらしい。


「見ての通り化け物だ。元は人間だったが気がつけばこの姿にされていた。あっちの牛もそうだ。僕達は体を入れ替えられたようなんだ」


 こちらがくだんなら牛面人身のあちらはミノタウロスだろうか。しかし神話にある様な凶暴性は感じられない。除角もされている。それに体が五十代だからだろうか、頭が大きいからだろうか、変な姿勢で寝転がり、たまに体勢を変えているだけで動くのが億劫そうだ。


「誰にですか? ここはどこなんですか?」と、私は言った。


 脱出手段はあるのだろうか。私達も牛人間にされるのだろうか。

 くだんは体に比して小さな頭を振った。


「正直なところ全く分からない。僕達がどれくらいここにいるのかも分からないんだ。時間の経過を知る術がなくてね。十年と言われても驚かないよ」

「ふざけんな! 何で俺がこんな目に合わなくちゃいけないんだ! 出せ! ここから出してくれ!」


 兄が当たり散らした所で状況に何の変化も起こりそうにない。


「どうやってここで生きているんですか?」


 一見ここには何もない。


「あらゆる面倒見が天井からやってくるよ。何だかよく分からない食糧のようなものとかで生きてきた」

「嘘だろ!? そんな目に合わされてよくも生きていられるな! 頭おかしいんじゃないか!?」


 兄がうずくまりながら、口角から泡を飛ばし喚き散らす。


「黙っててくれ兄さん」

「何だと!? 大体お前が悪いんだ!」


 私は驚いてほとんど反射的に振り向く。


「私が何をしたって言うんだ」

「牛だ! お前が牛を飼ってなけりゃこんな事にはならなかったんだ。だから俺は家を出たんだ。俺は間違ってなかったんだ」

「何を言ってるんだよ。滅茶苦茶だ」


 次第に苛立ちが募ってくる。兄がこのような男だったとは。


「くそ! くそ! 嫌だ! 牛男になんてなりたくない! 俺なら死ぬね! そんな姿になってまで生きながらえたいとは思えない!」

「黙ってろって言ってるんだ!」


 私はかっとなって思い切り兄の脇腹を蹴り上げた。兄は呻き、脇腹を抑えながら呪いの言葉を吐く。

 正直なところこのくだんを侮辱した事に関して私はどうも思っていなかった。私とて早く逃げ出したい。その邪魔をする兄が憎たらしかった。


「てめえ! やりやがったな!」


 兄が立ちあがり、私に殴りかかったが、私の拳が先に兄の顎をとらえた。薄い肉と骨の感触が気持ち悪い。兄はひっくり返ってスリットの角に右手の甲を打ち付け、痛みに呻きながらすすり泣いていた。あのざらついた金属壁のせいか手の甲は大きく裂けて血が出ていた。このような場所ではどうしようもないだろう。


「来るぞ」とくだんが言った。


 その視線は天井へと向いている。何に察したのか私にはまるで分からなかった。前兆のようなものは見当たらない。しかしある瞬間、その金属の天井に波紋が起こり、何度も何度も波打ち、中心にぽっかりと穴があくと、中からジェル状の液体が滴り落ちてきた。淡く青く発光するジェルはサッカーボール大の滴が三滴落ち、止んだ。天井の穴も塞がっている。


「何です? これ」

「薬だと思う。僕達が何かの拍子に怪我をした時に出てくるんだ。君のお兄さんの為だろう。治療するってんならまず元の身体に戻して欲しいものだけどね」


 くだんは皮肉っぽく微笑んで言った。


「だそうだよ、兄さん」

「そんなもの使わねえよ。気持ち悪い」


 兄さんは薬から目を逸らし、右手を庇うように抱えながら吐き捨てるように言った。


「そう言うと思ったよ。ん?」


 また天井に穴があいている。そして先ほど隣の部屋の牛を何頭か呑み込んだのと同じ巨大な管が伸びてきた。私は壁際のスリット近くまで後退する。呑みこまれるのはごめんだ。

 管の口がこちらを向き、真っ暗な穴が私達を見ている。嫌な予感がして私は咄嗟に飛び避けると、直後に青いジェルが噴き出した。兄はその場で蹲っていたためにジェルを一身に浴びる事となった。

 管が引っ込むと喚きながらジェルに溺れている兄を引っ張り出す。


「どうしても傷を治して欲しかったようだね」


 私は手についたジェルを壁になすりつけながら言う。


「くそ! くそ! くそ!」


 兄を無視し、天井の様子に注意を払いながらくだんの方へ近づく。


「他にも色々と教えてくださいますか?」


 くだんの前で胡坐をかいてそう言った。


「ああ。いいよ」


 くだんもその場で座った。

 とは言え、知れた事は少なかった。彼のここへ来る以前の記憶はほとんど薄れている。ここでの生活にしても天井から色んな物がやってくるという事くらいで、あとは彼の推測以外何もなかった。

 興味深かったのは、ヒューマン・アブダクションやキャトル・ミューティレーションという言葉だ。前者は宇宙人による誘拐やその体験談、後者は牛等の家畜を奇妙な方法で惨殺されるという70年代のアメリカで起こった事件だそうだ。

 ここの連中はよく牛を、たまに人間を攫ってくる訳だが、中にはその一部だけ持ってくる事もあるらしい。確かに多くの点で今の状況と一致している。


「しかしこれが真相だとするとその動機は何なのでしょうね?」


 既に数時間は経過しているような気がするが、正解を知りえないこの場所では時間の感覚が歪んでいる。兄はスリットの近くで丸まって眠っている。


「さあてね。宇宙人が何を考えているかなんて分かりようもないよ。仮に理由を説明されたとしてもこの体にされた事を納得出来るとも思えない。気まぐれや悪意でやったって言われた方がまだ腑に落ちるね」


 それ以前にくだんのような状況に置かれて正気を保っていられる事が不思議だ。もしかしたらそれも含めて宇宙人によって改造されているのかもしれない。あるいは私共々既に正気ではないのかもしれない。


「時々自分が元々人間だったのか、牛だったのか分からなくなる時があるんだ」


 くだんはどこか寂しそうにそう呟いた。


「あなたは頭が人間なのだから人間でしょう」


 疑いの余地はないはずだ。私はミノタウロスの方を見る。逆にあの牛頭は寝てばかりで知性の欠片も感じられない。


「私も最初はそう思っていた。だけどね。これだけの術を持った連中だ。脳も入れ替えられるんじゃないかと思うんだよ。実際の所人間の神経と牛の神経を繋げるなんて出来やしないはずなんだ」

「それはそうでしょうね。普通は

「するとしたらどちらかを、もしくはどちらも、もう一方に近づけなくてはいけない。人間と牛は無理でも牛人間と人間牛なら繋げられるんじゃないか?」

「あなた達を合体させるって事ですか?」

「いや、そうじゃない。そうじゃない。まず人間を牛的神経に改造して、牛は人間的神経に改造して、それを繋げるんだよ。それなら繋がるじゃないか」

「そうして今の身体になったと」

「そこは論点じゃないだろ。私は牛じゃないか、という話をしているんだ」


 意味不明だ。やはりこの牛も、この男も正気ではないのかもしれない。そう思うと、途端にくだんが恐ろしくなってきた。いや、そもそももっと恐ろしいと感じるべきなんじゃないか。何故血を分けた兄弟と喧嘩して、こんな化け物と語り合っているんだ。

 くだんの、私を見つめる瞳で息苦しさを感じる。人間の瞳なのだが、獣のような純粋な眼差しのように思えてきた。


「ちょっと、兄の様子を見てきます」

「うん」


 私は立ち上がり、兄の傍へ行く。よく眠っているようだ。背中にくだんの視線が刺さっているような気がする。気がするだけかもしれないが。


「兄さん。起きてくれ。兄さん」

「起きてる。何だ」


 私は腰を屈め、兄の耳元で声を細めて言う。


「隣の部屋へ行こう」

「何でだよ。またあの管が伸びてきたらどうする」

「こっちにも出ただろ。同じ事じゃないか」


 もう一度背を伸ばし、スリットの向こうの様子を見る。牛の数は半数ほどになっている。


「ちょっと二人で牛の様子を見てきます」


 そう言って振り返ると、くだんは四本足で立ってこちらを見つめていた。


「出来る事はないよ。ここから脱出する方法を考えた方が良い」

「それはそうですけど、私の牛ですからどうしても心配なんですよ。ちょっと行ってきますね」


 既に兄はもぞもぞと立ちあがってスリットの中に入ろうとしている。右手の甲にはさっきの傷跡があったが傷口は既に綺麗に塞がっていた。


「牛の事なら私の方が分かっている。君がいくら牛と親しくしていても、牛そのものの私より分かる訳がない」

「そうですね。そうかもしれない」


 私も兄の後に続いて右手側からスリットに入る。やっぱり腹がつかえる。するとくだんが猛突進して来た。私は悲鳴を上げた。


「兄さん! 兄さん! 引っ張ってくれ!」

「何だよ。何を叫んでいるんだ」

「早く引っ張ってくれ!」


 顔を後ろに向けたままスリットに入ったので、見えない兄に右腕を伸ばす。兄は私の腕をつかんで引っ張る。

 くだんが頭だけスリットに突っ込んだ。鬼のような形相で唾を飛ばしながら叫ぶ。


「ふざけるな! どこへ行く! お前も俺を馬鹿にしているのか! 俺の身体が牛だから! 牛だから! 牛だから!」


 突然ミノタウロスがくだんの後ろから現れた。腕を伸ばし、私の左腕を掴んで引っ張る。


「兄さん! 助けて! もっと引っ張ってくれ! 兄さん!」


 腕が抜けそうなほどに痛い。くだんが支離滅裂な言葉を怒鳴り散らしている。左足でかする程度の蹴りをお見舞いするが怒りを誘うだけだった。兄の力もミノタウロスの力もほぼ同等で均衡状態を保っている、と思った次の瞬間、ミノタウロスよりも大きな何かが二体の化け物の背後に現れた。それは長く曲がりくねり、大きな口を開いて、ミノタウロスを頭から呑み込んだ。天井から蠢く管は一瞬でミノタウロスを天井の向こうまで吸い込み、次いでくだんを呑みこんだ。

 私は兄に引っ張られて初めの部屋に飛び出した。大きく息をついて隣の部屋を見るが既にもぬけの殻だった。

 ここの主の癇に障ったのだろうか。彼らが呑みこまれた理由は思いつかなかった。


「ありがとう。兄さん。助かった」


 振り返ると兄はいなかった。代わりに蠢く管の大きな暗い穴が私を見つめていた。




 気がつくと私は厩舎の中で倒れていた。勢いよく体を起こす。節々が痛い。体が冷えている。

 厩舎の中は空っぽだった。牛も兄もどこにもいない。荒らされたような痕跡も何もない。

 外が白み始めている。私の身体は全て人間のままだ。確かめるように一歩一歩二足歩行で厩舎の外へ出る。青くさい牧場のにおいを胸一杯に吸い込んだ。


 何が起きたのかまるで分からない。厩舎の中の様子から言って夢でもなく確かに何かが起こったようだが、とにかく私は無事に帰ってこれたようだ。

 不意に鈍い痛みが右手の甲に走る。そこには綺麗に塞がった大きな傷跡があった。

ここまで読んで下さってありがとうございます。

ご意見ご感想ご質問お待ちしております。


久しぶりにホラー、のつもりだったけど何か違う気がする。

何に対して怖がらせるかがぶれてしまったかもしれない。

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