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油はフライパンが温まってから


東京都心のオフィス街。

三ツ葉食品が小さなビルを買い上げたのは、一昨年のことだ。

戦前に先代が創設して80年。

戦中戦後のどさくさに紛れて商いを大きくし、高度経済成長期にあくどく稼ぎ、バブルの大波に乗りに乗りまくって早三代。

祖父や父よりやり手の女社長は、戦後最大の経済危機もなんのその。

伝手を駆使して都心の最寄りから徒歩5分の優良地に立つ優良物件を格安で手に入れた。


今年の春、その自社ビル2階に、クッキングスクールが創設された。

その名も『三ツ葉』。

午前中は子育て中のママさん向け。

午後は隙を持て余す中高年向け。

夜は仕事帰りのお一人さまを狙った三段攻撃。

イケメン、ガテン系、おねえ系と講師陣も豊富に揃え、秋にはどんなご要望にもお答えする個人レッスンも開催予定だ。


このクッキングスクール『三ツ葉』を運営するのは、昨年度発足の教養サポート部。

これまでの販売促進部から数人を選りすぐった最も新しい部だ。

社長イチオシの教養サポート部は、新社屋で最も日当たりの良い3階南側に新設された。


「春山」


地を這う低音に、部内が凍りついた。

午後の暖かい日差しの中、ブリザードが吹きすさぶ。

気づかないのはうららかな日差しに眠りこける、女子社員1人。


「春山暁乃」


普段は冷静沈着な低い声が、より低くなって暁乃を呼んだ。

空気にたえられなくなった同僚が、日当たりの良いデスクでのびのび眠る暁乃を小突いて、やっと彼女も目を覚ます。


「むぁ…おはよーございます、かちょー」


間抜けな声にピシリと入った青筋が恐ろしすぎて、部長まで報告書の影に身を隠した。


教養サポート部課長・響野淳ーヒビノ アツシー。

彼こそは教養サポート部の実力者である。

勤続12年、中堅の中ではその堅実さで最も信頼される部下であり上司でもある。

根気強さを買われて長年新人育成に携わってきたが、これまでで最も手を焼かされているのがこの春山暁乃ーハルヤマ アキノーだ。

昨年入社の21歳、新社屋世代筆頭の若手である。

クッキングスクール企画に入社後研修卒業以来携わっており、女性視点の貴重な発信元ではあるものの、やる気の足りなさで響野課長を怒らせる天才でもある。

特に春に入って、生来の怠け者ぶりがいかんなく発揮されていた。


「春山、職場で昼寝するな」

「まだお昼休みですよ」

「なら休憩室で寝ろ」

「ヤですよ、あそこオッサン臭いし」


ポンポン返される言葉が怖い。

休憩室利用者の部長はちょびっと傷ついた。


「もういいから、行くぞ」

「どこへ?」

「下へ」


諦め混じりのため息を追って、暁乃も席を立つ。

ちらりと見えたお昼寝用ブランケットは見ない振り。

暁乃と出会ったこの1年でかなり慣れた。

そして悟った。

怒ったら負け、諦めが肝心。


♢  ♢  ♢


真新しいシンク。

真新しいフローリング。

コンロをはじめとする機器はあえて家庭用にして、明るい間接照明で部屋全体をアットホームな感じにした一室。

主婦向けの教室で最終チェックリストを見比べる暁乃は、やっと仕事人の顔だ。

入社以来打ち込んで(?)きた巨大プロジェクトに、暁乃も思い入れがあるようだ。

ようやく衣装負けしなくなったスーツ姿の背中を見て、響野は嘆息する。


卵を割ったこともないと聞いて、耳を疑った。

米を炊いたことがないと言われて、愕然とした。

親元を離れた成人女性が、それでいいのか?

いや、いいわけがない。

よし、設備の試用のためにも、少し手ほどきしてやろう。

そう、玉子焼きぐらい焼けるように。

ーーその親心が、仇となる。


「春山」

「はい?」


器用にも右手にフライパン、左手に溶き卵の

ボウルを持ったまま小首をかしげる。

小動物から好かれたことのない30代独身男としては、ちょっと胸きゅんだ。


「油はフライパンが温まってから入れろ」

「はい!」


相変わらず、返事だけはいい。

手元のコンロに火はついていないが。


「春山」

「はい!」


威勢のいい返事。


「ガスはどうした?」


小首をかしげる小動物の仕草。

また、ちょっぴり胸きゅん。

もちろん、おくびにも出さずにコックをひねってガス火を点す。

すぐに油を注ごうとする手を止めてもう一度。


「春山、油はフライパンが温まってから」

「はい!」


直後、フライパンをコンロに置いて空いた右手の人差し指がフライパンにのばされ。

まだ皮も薄い若い手が躊躇いなくテフロンに着地して、慌てて冷凍庫の氷をわし掴むことになる。


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