たまごはかき混ぜすぎるな
暮れなずむ街。
光と影のなか。
クッキングスクール『三ツ葉』の夜の部ーソワレーが始まる。
「そんなにかき混ぜるな」
「でも課長」
「黙れ」
「…はい」
響野ーヒビノーが静かに怒っている。
暁乃ーアキノーは従順におとなしくなった。
間接照明が照らすのは、バドミントンコートほどのキッチン。
オフホワイトの壁紙と水垢ひとつないシンク。
フローリングと揃いの明るい木目調のカウンターに、青々としげる観葉植物。
広さと極端に物が少ないことをのぞけば、一見個人宅のキッチンダイニングにも見える。
ただし、横並びにキッチンに立つのは夫婦でも恋人でも、百歩譲って兄妹でもない。
どちらもスーツに「MITSUBA」のロゴが入ったエプロン姿。
関係は上司と部下。
間柄は教師と生徒、である。
「課長、明日は土曜日ですよ」
「だからどうした。おい、それは三温糖だぞ」
「三温糖ってなんですか?」
「…こっちの白砂糖を使え」
「ねぇ、三温糖ってなんですか?」
響野は黙ってフライパンを出したまま、暁乃の素朴な疑問に答えようとはしない。
返事をしてくれない上司にムッとしながら、暁乃は正確に計量された砂糖を卵にぶち込んだ。
それでも、まん丸スプーンで計量する際すでにひと悶着あったので、今は黙っていることにした。
「あまりかき混ぜすぎるなよ」
「はい」
響野も、あまりうるさく言わないようにしている。
本人比で。
「課長!」
「なんだ」
「砂糖が溶けません!」
「…火を入れれば大丈夫だ。かき混ぜすぎるな」
「はい」
是の返事だけは素早く軽快な部下に、ひっそりため息がもれる。
部下の言うとおり、今日は華の金曜日。
冬の澄んだ夜空の下、広い料理教室で部下と2人。
どうしてこうなったのか、響野にもわからない。