浮気相手を「体調が悪い」と庇う婚約者のために、王宮専属の凄腕解剖医を手配してあげました
浮気相手を「体調が悪い」と庇う婚約者のために、王宮専属の凄腕解剖医を手配してあげました
三度目の観劇が中止になった朝、伯爵令嬢セレスティアのもとへ届いたのは、婚約者本人ではなく、従僕が運んできた一枚の手紙だった。食卓には焼きたての丸パンと半熟卵、薄く切った林檎が並んでいたが、紅茶は口をつけないうちに冷め、表面へ細い膜を張っている。手紙には謝罪が二行、その倍の長さを使って、幼馴染の男爵令嬢リリアナが昨夜から胸の痛みを訴えていると書かれていた。
『彼女を一人にはできない。君なら分かってくれると信じている』
セレスティアは手紙を四つ折りにし、半熟卵の殻を銀の匙で割った。先月の遠乗りは眩暈、その前の音楽会は頭痛、王立植物園を訪れる予定だった日は足首の痛みだった。いずれも公爵令息アーヴィンが付き添い、翌日になるとリリアナは菓子店や宝石店で元気な姿を目撃されている。
「お嬢様、またでございますか」
侍女の妙は林檎へ蜂蜜をかけながら、手紙の封蝋を見た。アーヴィンは急いで書いたと言いながら、公爵家の正式な便箋を使い、香水まで振りかけていた。セレスティアは丸パンを二つに割り、片方へ塩気の強い山羊乳のチーズを挟んだ。
「ええ。でも、今回は胸が痛むそうよ。これまでで一番重い症状ね」
「では、お見舞いを?」
「まさか。素人が顔を見せても、病気は治らないでしょう」
セレスティアは卵の黄身をパンですくい、朝食を最後まで食べた。それから昨日届いたばかりの王宮夜会の招待状を取り出し、裏面へ出席の返事を書いた。何度も倒れる令嬢を医師へ診せず、婚約者でもない男が夜通し付き添うのは、あまりにも不親切だった。
王宮夜会の当日、セレスティアは藍色のドレスを選んだ。胸元を真珠だけで飾った簡素な仕立てだが、裾には銀糸で薬草の葉が刺繍されている。馬車へ乗る前、妙が小さな革鞄を膝の上へ置いた。
「解約に必要な書類、アーヴィン様から届いた手紙、目撃者の署名、すべて入っております」
「ありがとう。ハンカチもある?」
「白を三枚。泣く予定がおありなら、もう二枚追加いたします」
「泣く予定はないけれど、誰かが冷や汗を拭きたがるかもしれないわ」
王宮の大広間には、蜜蝋の燭台が幾百も灯され、磨かれた床へ金色の光が映っていた。焼いた鴨肉と香辛料の匂いが漂い、楽団の弦楽器は軽やかな舞曲を奏でている。セレスティアが入場して間もなく、アーヴィンはリリアナを伴って現れた。
病弱なはずのリリアナは、背中の大きく開いた薄桃色のドレスを着ていた。頬には薔薇色の化粧が施され、耳元では大粒の真珠が揺れている。彼女はアーヴィンの腕へ両手を絡ませながら、給仕の盆から蜂蜜酒を取り、半分ほど一息に飲んだ。
「セレスティア。今日は来てくれたのだな」
アーヴィンは婚約者へ差し出すはずの腕を、リリアナに取らせたままだった。胸飾りには、公爵家の色ではない桃色のリボンが結ばれている。セレスティアはそれを眺めたあと、視線をリリアナの顔へ移した。
「胸の痛みはいかがですか、リリアナ様」
「まだ少し……。でも、アーヴィン様がそばにいてくだされば耐えられます」
リリアナは胸元へ手を添え、細い声を出した。その直後、近くを通った給仕へ空の杯を戻し、新しい蜂蜜酒を受け取る手つきには震え一つなかった。セレスティアが返事をする前に、楽団が最初の舞曲を奏で始めた。
「セレスティア、悪いが今夜の最初のダンスはリリアナと踊る。彼女は体調が悪く、気分転換が必要なんだ」
「胸が痛む方を踊らせるのですか?」
「医師でもない君に口を出されたくない。彼女の命がかかっているんだぞ」
周囲の貴族が会話を止めた。リリアナはアーヴィンの腕へいっそう密着し、口元を扇で隠している。その扇は、先週セレスティアが注文を取り消した店の新作だった。
「三日前の観劇も、先月の遠乗りも、春の音楽会も、すべてリリアナの体調を理由に断った。私は重い責任を背負いながら、彼女を守っているんだ。健康な君には、病弱な女性の苦しみなど分からない」
セレスティアは革鞄から、折り目のない一通の書状を取り出した。紙の上部には王家の紋章が押され、その下には六名の医師の名が並んでいる。最後に記された名を見た途端、アーヴィンの顔から血の気が引いた。
「おっしゃるとおりですわ。ですから、私のような素人が判断してはならないと思い、王宮医務院へ相談いたしました」
「王宮医務院?」
「リリアナ様は半年間に十一度も倒れ、胸痛、眩暈、呼吸困難、頭痛、発熱、関節痛を繰り返していらっしゃいます。しかも通常の医師では原因を突き止められなかったのでしょう? それほどの難病なら、国家最高峰の医師団に全身をくまなく検査していただくべきです」
広間の扉が開き、白い上着を着た六人の医師が入ってきた。先頭を歩く白髪の男は、王宮専属解剖医オルランド・ゼーレンだった。王族の不審死を二度解明し、毒物の微量な臭いを嗅ぎ分け、遺体に残った針ほどの傷から犯人を特定したことで知られている。
「ゼ、ゼーレン卿が、どうしてここに」
リリアナの声が、先ほどより一段高くなった。オルランドは返事をせず、彼女が持つ蜂蜜酒と、締め付けの強い胴衣を順に見た。それから助手へ合図し、診察用の衝立、器具箱、検体を保管する硝子瓶を運び込ませた。
「命に関わる胸痛と聞いております。直ちに診察を始めますので、食事と飲酒を止めてください。今夜は王宮医務院へ入院し、少なくとも七日間、脈拍、尿量、食事、睡眠、発作の時刻を記録します」
「にゅ、入院ですか?」
「必要ならば胃の内容物、血液、排泄物も調べます。毒物の可能性も考え、身につけている化粧品、香水、衣服、宝飾品もすべて提出していただきます」
オルランドの助手が革手袋をはめると、乾いた音が広間へ響いた。リリアナはアーヴィンの腕を離し、二歩後ろへ下がった。先ほどまで胸元へ当てていた手は、今では腹の前で固く組まれている。
「わ、わたくし、急に良くなったような気がします」
「半年続いた重篤な症状が、医師の到着と同時に消えたのですか。それは医学史に残る回復ですな」
オルランドは懐中時計を取り出し、時刻を書き留めた。周囲で笑い声が漏れたが、セレスティアは口元を緩めなかった。革鞄から今度は十一通の手紙を出し、王宮侍従長へ手渡した。
「こちらはすべて、アーヴィン様がリリアナ様の容体を知らせてきた手紙です。『生死の境をさまよっている』『王宮行事へ出席できないほど重篤』『公爵家の名に懸けて彼女の命を救う』と記されています」
「待て、セレスティア。それは君への私信だ」
「本日も王宮夜会で、『彼女の命がかかっている』と大勢の前でおっしゃいました。王宮で虚偽の急患申請を行い、王家の医師団を動かしたのであれば、単なる恋人同士のお芝居では済みません」
セレスティアは初めて微笑んだ。リリアナの手から扇が落ち、磨かれた床へ甲高い音を立てた。アーヴィンは拾おうともせず、医師団と侍従長を交互に見ている。
「そんなに重篤なら、国家最高峰の医師団に全身をくまなく検査させましょう。仮病なら、王家を欺いた国家反逆罪として調査されますけれど」
「セレスティア、これは大げさだ。リリアナは少し具合が悪かっただけで――」
「先ほどは命がかかっているとおっしゃいましたわ」
「言葉の綾だ!」
「では、十一回分の言葉の綾を、調査官へご説明ください」
侍従長が指を鳴らすと、衛兵がアーヴィンとリリアナを挟むように立った。すぐに国家反逆罪が確定するわけではないが、王宮医務院への虚偽申告と、王家主催の夜会を利用した虚言については、正式な事情聴取が行われる。さらに、公爵家の名で医師を呼んだ記録があることも判明し、その費用と薬代がどこへ消えたのかまで調べられることになった。
「セレスティア、君は私の婚約者だろう。私を助けるべきだ」
アーヴィンはようやく彼女へ手を伸ばした。セレスティアはその手が触れる前に半歩下がり、革鞄から最後の書類を取り出した。公爵家当主と伯爵家当主、双方の署名が入った婚約解消届だった。
「いいえ。三十分前までは婚約者でした」
「三十分前?」
「あなたが私との最初のダンスを断り、リリアナ様と踊ると宣言した時刻を、証人の皆様に記録していただきました。婚約契約書の第八条、公の場で婚約者の名誉を三度以上損ねた場合、被害を受けた側は即時解消できる。今夜で十二度目です」
セレスティアは署名済みの書類を侍従長へ預けた。妙が背後から藍色の外套を差し出し、肩へ掛けてくれる。外套の留め金には、ドレスと同じ銀の薬草が彫られていた。
「帰るのか。この状況で私を置いて?」
「リリアナ様の命がかかっているのでしょう。どうぞ、最後まで付き添って差し上げてくださいませ」
セレスティアは大広間を出る前に給仕を呼び止め、手つかずだった小さな林檎菓子を紙へ包んでもらった。外では細い雨が降り始め、石畳から湿った土の匂いが立っている。迎えの馬車に乗り込むと、妙が向かいの席で林檎菓子を半分に割った。
「お嬢様、ゼーレン卿は本当に解剖までなさるのでしょうか」
「生きているうちは診察だけよ。けれど、あの方に見つめられたら、隠していたことまで切り分けられた気分になるでしょうね」
翌朝、セレスティアの食卓には、温かい紅茶と半熟卵、薄切りの林檎が並んでいた。昨日と同じ朝食だったが、テーブルの端に謝罪の手紙はなく、観劇の切符が一枚だけ置かれている。セレスティアは卵の殻を銀の匙で割り、妙へ顔を向けた。
「今夜の舞台、あなたも一緒に見ない?」
「よろしいのですか」
「ええ。今度こそ、幕が上がるところから見たいもの」
二人分の席を取るため、妙はすぐに劇場へ使いを出した。そのころ王宮医務院では、健康そのものと診断されたリリアナが七日分の検査費用を請求され、アーヴィンは十一通の手紙を一枚ずつ読み上げさせられていた。セレスティアは温かいうちに紅茶を飲み、蜂蜜を塗った丸パンへ、薄切りの林檎を一枚挟んだ。




