9 記憶
慌ててアキラの病室へ飛び込むと、目に入ったのは予想もしなかった光景だった。
ベッドの上で上体を起こしたアキラが、いつもの調子でにやりと笑っている。
「腹減ったよ、修。差し入れ買ってきてくれた?」
一瞬、耳を疑った。
受付でまだ意識が戻らないままだと聞いていたはずなのに。
「アキラ……。いつから元気になったんだ? メールしても既読にすらならなかったのに」
動揺を隠せない俺の横で、慌てて駆けつけてきたナースが説明する。
「本当に、さっきなんです。まだ三十分も経っていません。それまではずっと昏睡状態で……急に目を覚まして、こんなふうに元気に話し始めたんです。今すぐ先生が参りますので、少しお待ちくださいね」
そう言い残すと、ナースは足早に部屋を出ていった。
残された俺は、言いようのないざわめきを胸に抱える。
なぜなら――アキラが目を覚ましたというその時間は、ちょうど俺が“あの家”で彼のことについて謝罪していた時刻と重なっていたからだ。
偶然にしては出来すぎている。
まるで何かが呼応したかのように……。
「修、今日はゆっくりしていけそうか?」
「まあな。明日はサークルもないし、特に用事もないから。……でも本当に良かったよ、こうして元気になってくれて」
ベッドに腰掛けたアキラは、ふっと笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「そういや俺、海からの帰りに気分悪くなったんだよな。確か……」
俺は思わず身を乗り出した。
「えっ、覚えてるのか?」
「いや……正直、はっきりとは思い出せねぇんだ。海で騒いだ後、帰り道で急に気分が悪くなったことだけは覚えてる。でも、それ以外はぼんやりしてて……」
その言葉に、俺の胸がざわついた。
――アキラの記憶から、“あの場所”がすっぽり抜け落ちている。
海の帰りに、俺たちは確かにお化け屋敷に寄ったはずなのに。
アキラは本当に思い出せないのか? それとも、無意識に避けているのか?
いずれにせよ、今ここで話すべきではない――そう直感的に感じた。
「……そうか。まぁ、無理に思い出すこともないさ」
俺はそう言って、あえてその話題を口にしないことに決めた。
心の奥で、妙な不安を抱えながら。
しばらく他愛もない会話を続けていると、病室の扉が勢いよく開き、アキラの母親が駆け込んできた。
肩で息をしながら、それでも顔には安堵の色が広がっていく。
「――あぁ、修くん来てくれてたのね。本当にありがとう。病院から電話をもらって、急いで来たの。でも……良かった……気がついてくれて」
その声は震えていた。心配のあまり胸を締めつけられていたのだろう。
「母さん、大げさだよ。俺、ピンピンしてるんだから。もう大丈夫だから、そんなに心配すんなよ」
ベッドの上のアキラが、気恥ずかしそうに笑いながら軽口を叩く。
すると、お母さんは堪えきれないように何度も何度も頷き、目尻に涙を浮かべながら「はい、はい」と返す。その姿からは、言葉以上の喜びと安心感が伝わってきた。
俺は少し微笑んで立ち上がる。
「では、俺はそろそろ帰りますね」
「あら、お父さんも今向かってるから、会っていけばいいのに」
「いえいえ、今夜はご家族でゆっくり過ごしてください。また必ず来ますから」
そう言ってアキラに軽く手を振り、病室を後にした。
背後では、母親が息子のそばを離れまいと寄り添い続けている姿が、温かい空気とともに感じられた。