7 偶然
ミーティングを終えると、俺はいつものように迷うことなく海へと向かった。
波の感触、潮の香り、仲間たちの笑い声──それらはすっかり日常の一部になっていて、ここに身を置くと自然と心が落ち着いていく。
ふだんなら、太陽が西の空を茜色に染めるまで、時間を忘れて海と遊ぶのが俺たちの決まりごとのようになっている。けれど、今日だけは違った。胸の奥に小さな予定を抱えていた俺は、仲間に「今日は少し早めに上がる」と伝え、名残惜しさを感じながらも先に海をあがった。
サークルを早めに切り上げた俺は、ひなと一緒に歩くときのことを思い浮かべながら、鎌倉駅から鶴岡八幡宮へと続く道に、ふたりで立ち寄れそうな素敵なお店はないだろうかと考えていた。
小町通りに入ってすぐのところで、ふと右手に目をやると、小さなバーが目に留まった。外観は落ち着いた雰囲気で、控えめな灯りに誘われるように心が惹かれる。けれど、その佇まいは賑やかなデートに似合うというより、ひとり静かに訪れてみたい場所のように思えた。
「ここは、ひなとじゃなくて……俺ひとりのときに来たいな。」
そう心の中で呟きながら、俺はそのバーの前を通り過ぎ、小町通りをさらに奥へと歩いていった。
改めて小町通りへ足を踏み入れると、夕暮れどきのせいか通りは人々であふれ、どこか祭りのようなにぎわいを見せていた。小町通りを進んでいくと、目に入ってくる店構えは以前とはすっかり様変わりしていて、見慣れた景色の中に思いがけない新鮮さが混じり合っている。その変化に少し驚きながらも、活気ある通りの空気に自然と心が躍る。
ただ、あまりにも多くの店が軒を連ねているせいで、どこに立ち寄ればいいのかすぐには決めきれない。「まぁ、雰囲気を楽しむだけでもいいか」と自分に言い聞かせ、気持ちを軽くする。
そうして歩いているうちに、当日の過ごし方がおぼろげながら頭の中に描かれはじめた。大まかな流れはこれで十分だろう。あとは、アキラのところへでも顔を出してみようか──そう思いながら、俺は小町通りを進んでいった。
しばらく小町通りを歩いたあと、ふと道を外れて住宅街の方へと足を向けた。車を停めてある場所まで戻ろうとしていた、その時だった。
「……あれ?」
目の前に広がる小さな公園に、妙な懐かしさを覚えた。滑り台やブランコの配置、ベンチの位置、木々の並び方――その一つひとつが、なぜか頭の奥に残っている光景と重なっていく。
思わず足を止め、公園の中へと足を踏み入れる。夕暮れの柔らかな光に包まれたその場所は、どこにでもあるような普通の公園なのに、どうしても既視感を拭えなかった。
「……ここ、夢で見た公園だ」
胸の奥から言葉がこぼれ落ちる。
夢の中だけの世界だと思っていた場所が、こうして現実に存在していることに、俺はしばらく呆然と立ち尽くすしかなかった。
なんとなく足の向くままに公園の中を歩き、ふと周囲の住宅街へと視線を移した。
すると、目に飛び込んできたのは――あの「お化け屋敷」だった。
思わず足が止まる。まさか、この公園があの屋敷の並びにあったとは……。
胸の奥に驚きと、少しの恐れが入り混じる。しかも、あの件の後にアキラが原因不明の病に倒れ、いまだ入院している。どうしても他人事には思えなかった。
気づけば俺は屋敷の前まで来ていた。
静かに立ち止まり、深く頭を下げて手を合わせる。胸の中で祈るように言葉を繰り返した。
――この前は、本当に失礼いたしました。
あの夜のあと、友人が原因の分からない病にかかり、いまも入院しています。どうか、どうかお許しください。
アキラの容態が良くなり、以前のように元気に笑える日が戻ってきますように……。
心からの懺悔と祈りを胸に、俺はしばらくその場で手を合わせ続けた。
俺はしばらくの間、その屋敷をじっと見つめていた。
改めて目にすると、そこにはごく普通の住宅があるだけだった。夜に訪れたあのときは、闇と静けさに覆われて、不気味さが何倍にも膨れ上がっていたのだろう。だが、今は夕暮れ。西日に照らされた姿は、周囲の家々と比べても特に変わったところはない。
違いといえば、人の気配が絶えて久しいせいか、庭が荒れ放題になっていることくらいだ。雑草は背丈ほどに伸び、枯れ枝が風に揺れる様子はどこかもの悲しい。
それ以外は、本当にただの空き家にしか見えなかった。
そう自分に言い聞かせながら、俺はその場をあとにした。
ふと足を進めてみると、歩いてきた道が自然に駐車場へとつながっていたことに気づく。
――車を停めた場所から、こんなにも近かったとは。
偶然にしては出来すぎている気がして、胸の奥に小さな引っかかりが残った。