6 約束
時計の針が18時を指し、俺の上がりの時間が来た。
「店長、お先に失礼します」
「おぉ、お疲れさん。また頼むね、修くん」
店長の声を背に受けながら、俺は軽く会釈してバックルームへ向かい、いつもの手順でエプロンを外し、制服を畳み、ロッカーから私服を取り出す。
帰り支度を終えると、自然と頭に浮かんだのは――ひなの顔だった。
「…LINE、しないとな」
店を出る足取りは、仕事終わりの疲れよりも、少し浮き足立っている自分に気づく。
夜風がまだほんのり温かく、そんな空気に背中を押されるように歩きながら、俺はひなとの約束を思い出していた。
美味しいものを食べさせてあげたい。
でも、そもそも“海”って言ってたけど、目的はなんだったんだろう?
海水浴?いや、ひなが水着…ちょっと想像すると…いやいや落ち着け。
じゃあ鎌倉散策?食べ歩きとか?…あぁ、ひなのことだからきっと食べ歩きだ。
だって、あの子、まんじゅうとかクレープとか見つけたら絶対立ち止まるタイプだし…。
いや、でも、もしかしたら海辺でのんびり…なんてのもいいかもしれない――
そんなふうに妄想は止まらず、気がつけば俺の脳内は、ひなと過ごす未来のデートプラン会議の真っ最中だった。
目の前の街灯や信号の色はちゃんと見ているのに、心の中はすっかり“ひなワールド”。
そうして俺は、半分夢の中みたいな気分で、家路へと歩いていった。
家のドアを閉めて靴を脱ぎ、ようやく自分だけの空間に戻ってきた。
さっきまで頭の中はひなのことでいっぱいだったはずなのに、急にアキラの顔が浮かんできた。
あのときのぐったりした様子、病院で叫んでいた声…そして、昨夜夢に出てきた幼い男の子のことまで、次々に思い出が重なってくる。
「そういえば、アキラ…どうしてるかな」
呟くように声を漏らし、ひと呼吸おいてから、
「後でLINEしてみるか…」と心の中で決めた。
とりあえず空腹を満たそうと、冷凍庫を開けて冷凍パスタを取り出す。
電子レンジに放り込み、ピッとボタンを押す。
これが今夜の晩ご飯。
大学二年、一人暮らしの男なんてこんなもんだ。
栄養バランスよりも簡単さ優先、味だって慣れてしまえば悪くない。
そのぶん食費を浮かせて、ひなとのデートや海の計画にお金を回す――それが俺の小さな戦略だった。
チンという音とともに、湯気を立てたパスタをテーブルに置く。
フォークを手に取りつつ、スマホを開いてスケジュールを確認すると、来週の平日で空いているのは火曜日と木曜日だけだと分かった。
「よし…これをひなに伝えよう」
LINEを開き、指先が画面の上を迷う。
どんな文面にすれば軽すぎず、でも堅すぎず、ちゃんと楽しみにしてる感じを出せるか――そんなことを考えながら、俺は「来週の火曜と木曜、空いてるよ」と打ち込み、送信ボタンを押した。
送った瞬間、ひなの返信がいつ来るか、妙に胸がそわそわしていた。
スマホの通知が鳴った瞬間、胸が少し跳ねた。
開いてみると、そこにはひなのメッセージが並んでいる。
「 修、遅いよぉ〜。待ちくたびれたんだから!どっか寄り道してたんでしょ〜?ひな、怒るよ!でもね…来週なら木曜日が大丈夫だよ。木曜日にしよっかぁ〜。」
読んだ瞬間、思わず苦笑する。
「何怒ってんだよ…帰ってきてすぐ送ったのに」
そう心の中でツッコミを入れつつも、返信が来たこと自体が嬉しくて、すぐに指が動いた。
「ひな、目的は何がいいかなぁ?
海水浴?それとも散策?」
送信してすぐ、ひなの返事が飛んでくる。
「修、変なこと考えてるんでしょ〜?
ひなの水着姿見たいとか…まだダメだからね
散策がいいかなぁ〜。」
思わず吹き出す。
「やっぱり食べ歩きだな…」
と心の中で呟きながら送った一言。
「なに“やっぱり”って!」
すぐさま返ってきたツッコミに、慌ててごまかす。
「いや、なんでもないwww」
ひなはさらに畳みかけるように送ってきた。
「修、ひなそんなに食べないよ!」
「そうだっけ?」
「ひどい!修はひなのこと、そんなふうに思ってたんだ!」
軽口と笑いが行き交うやり取りは、時間を忘れるほど楽しかった。
気がつけば二人とも、来週木曜日が待ちきれない気持ちになっていて―
LINEを閉じた後も、スマホを見つめる自分がいた。
そうだ――明日はサークルの集まりがあるし、せっかくだから最近流行っている店を探してみようかな。
明日の予定は現地集合・現地解散。だから、終わったあとに街を少しぶらつくのも悪くない。
人混みを歩くのも、なんだかんだ言って久しぶりだ。
もしその店が良かったら、ひなもきっと喜んでくれるだろう。
あいつが笑顔になるなら、ちょっとした手間なんて惜しくない。
そんなことを考えながら、スマホでアキラにLINEを送った。
「どうした?もう大丈夫?」――短い文に軽いスタンプを添えて。
しかし、画面に表示されるトーク画面は、いつまでたっても既読にならない。
既読のマークがつかないその沈黙が、だんだん胸の奥に小さな不安を広げていく。
あれからアキラの様子全くわからないし…
何か重い病気なのか…
考えれば考えるほど、気持ちは落ち着かなくなった。
「よし…」
俺は明日、サークルが終わったらそのまま散策に出ることに決めた。
そして、アキラのところにも寄ってみよう。
どうなったのか確かめたいし――そんな思いが、胸の中で静かに形になっていった。