5 バイト
ジリジリジリ――と、耳元で目覚まし時計が鳴り出した。
俺は手探りでそれを止め、天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。
眠気はまだ体の奥にへばりついている。けれど、それ以上に、胸のあたりが重たい。昨日のことが、断片的に蘇ってくるのだ。アキラのこと……そして、あの奇妙にリアルな男の子の夢。意味なんて分からない。だけど、心のどこかに小さな棘のように引っかかっていて、完全には忘れられそうにない。
――でも。
バイトに行けば、ひなに会える。
そう思った瞬間、心の中にふっと温かい光が差したような気がした。小さな希望の光。俺にとって、今それがどれだけ大きな救いになっているか、自分でも驚く。
「よし、切り替えていくか」
声に出してみると、不思議と体が少しだけ軽くなった。重い腰を上げ、ベッドから足を下ろす。冷たい床の感触が、ようやく目を覚まさせてくれた。
着替えのシャツを手に取り、袖を通しながら、心の奥に沈んでいた昨日の残滓をひとつひとつ押しやっていく。完全に消せなくても、今は前を向きたい。ひなの笑顔を思い浮かべれば、それができる気がする。
支度を整え、玄関の扉を開けた。外の空気は少しひんやりしていて、俺の頬を優しく撫でた。
――さあ、今日も行こう。ひなに会うために。
バイト先の裏口から店内へ入り、まずは店長に軽く会釈をして挨拶を済ませる。
更衣室に向かい、制服へと着替え始めたその時だった。
勢いよくドアが開き、ひなが顔をのぞかせる。
「遅い遅い! 早く来てよ、忙しいんだから」
開口一番、ひなはそう言い放った。
その口調は少し呆れたようで、でもどこか親しげでもある。
「修はいつものんびりしてるんだから」
さらに追い打ちをかけるようにそう言ってくる。
僕は思わず手を止め、「えぇ、今来たばっかりだよ」と苦笑混じりに返す。
「いいから早く来て」
そう言い残し、ひなはくるりと踵を返して店のほうへ歩き出す。
その背中が少し小走りになったかと思うと、数歩進んだところでふいに立ち止まり、こちらを振り返った。
そして、ふわりと柔らかい笑顔を浮かべ、「おはよう」と一言。
一瞬、時間がゆるむように感じた。
普段は口うるさいことを言うくせに、こうして見せる無邪気な笑顔が、なんだかずるい。
胸の奥が少しだけ熱くなるのを、自分でもはっきり感じた。
モーニングがようやく終わり、ホッとひと息つきながらレジ横で立っていると、
ひながトレーを片づけるふりをしながら、少し弾んだ足取りで近づいてきた。
「修、海……忘れてないよね?」
小首をかしげ、いつもの明るい笑顔で俺を見上げる。
「前から連れてってくれるって言ってたじゃん」
「ああ、あれね。大丈夫、ちゃんと覚えてるよ」
俺が笑って答えると、ひなの目がほんの少し輝く。
「いつがいいかなぁ〜。修の予定は?」
「このバイトとサークルくらいしかないから、あとでLINEで送るよ」
「うん、待ってるね」
その言い方は、最初こそ甘えるような笑みを含んでいたが、
最後の一言だけは、きゅっと表情を引き締めて——。
「絶対、忘れないでね」
目の奥に「約束破ったら許さないから」という無言の圧が潜んでいて、
俺は無意識に背筋を伸ばしていた。
ひながこの海の約束をどれだけ楽しみにしているのか、
その視線だけで痛いほどわかった。
それから間もなくランチタイムに突入し、店内は再び慌ただしさを取り戻した。
注文の声や食器の音が飛び交い、気づけば時計の針はもう15時を過ぎていた。
早番のひなが「お疲れ様」とスタッフたちに軽く会釈をして帰り支度を始める。
そして、出口に向かう前にふと立ち止まり、まっすぐ俺の方へ歩いてきた。
「修、LINE待ってるからね」
その言葉と一緒に、少し意味ありげな笑みを浮かべながら視線を合わせる。
「じゃあ、先上がるね。後でね」
やわらかな声とともに、ひなは軽く手を振り、ひらひらとその指先まで楽しそうに揺らしてバックルームへ消えていった。
その仕草が、ただの社交辞令ではないことを、俺は当たり前の様に察していた。
…と、その時。何気なく視線を向けた店長が、こっちを見ながら口元だけで「ニャッ」と笑っている。
完全に見られている。
やばい、絶対何か勘づかれてる――そう直感した俺は、慌てて目をそらし、手元の伝票を意味もなく重ねたり揃えたり、必死に“忙しいふり”を装った。
だが耳の奥には、さっきの「LINE待ってるからね」というひなの声が、まだ鮮やかに残っていた。