4 不安
診察室から出てきた医師は、難しい表情のまま短く言った。
「原因は…今のところ分かりません。とりあえず一晩、入院して様子を見ましょう。」
検査結果の説明も曖昧で、はっきりとした答えはなかった。
それが余計に、胸の奥をざわつかせる。
看護師は丁寧で親切だった。
「ご安心ください」と笑顔を向けてくれるが、
その声の奥に、どこか貼り付けたような硬さがある。
まるで、この状況に慣れすぎているかのように──。
廊下に出ると、蛍光灯の明かりがやけに白く、冷たい。
天井から吊り下げられた照明は、古びたカバー越しにわずかにチラつき、
壁の影を揺らしていた。
耳を澄ますと、遠くの病室から小さなうめき声が断続的に響く。
消毒液の匂いが鼻に刺さり、その奥に、何か湿ったような匂いが混じっていた。
病院というより、静かすぎる廃墟のような空気──
ただ、そこに生きている人々の気配だけが不自然に漂っている。
俺たちは簡易椅子に腰を下ろし、あきらの家族に電話をかけた。
洋子が短く事情を説明すると、受話器の向こうの声が一瞬、沈黙した。
「すぐに行きます」
それだけ言って切れた声は、震えていた。
それからの時間は遅く、重く進んだ。
ただ待つしかないことが、こんなにも息苦しいとは思わなかった。
誰も口を開かない。
椅子の金属がきしむ音と、壁の時計の針の音だけが、
薄暗い廊下に響き続けていた。
「なぁ、修…」
健三がぽつりと声を落とした。
顔をこちらに向けながらも、視線は床に落ちている。
「これってさ…もしかしたら…お化け屋敷に行ったせい、とか…ないかな」
その一言に、場の空気がわずかに重くなる。
椅子の上で足を組み直しながら、典子がすぐに首を振った。
「何もなかったよ。あんなの、ただの古い家でしょ。関係ないって」
言葉は軽く聞こえるが、その声はほんの少しだけ早口だった。
洋子も典子に続き、笑顔を作ろうとした。
「そうそう。私たち、全然普通じゃん。…ね?」
けれど、語尾が小さくしぼみ、目が一瞬だけアキラの病室の方を向いた。
それでも健三は、納得できない様子で口をつぐまない。
「でもさ…アキラ、あの時…」
彼は言葉を探すように、ゆっくりと周りを見渡した。
「智也をからかったじゃん。お化け屋敷なんてウソだ、ありえないって…そのあと、急に…」
その場にいた全員の脳裏に、あの笑い声と、次に続いた叫び声が重なった。
ふざけていた空気が、アキラの叫びで一瞬にして凍りついたあの瞬間を、
誰もがはっきりと思い出していた。
言葉を失い、また静けさが戻る。
ただ、全員が同じことを考えているのに、
それを口にする勇気がなかった。
しばらく、アキラの容態やお化け屋敷の話を小声で交わしていると、
エレベーターのドアが音を立てて開いた。
そこから、中年の夫婦が足早に入ってくる。
アキラの母親は、息を切らせながらも辺りを見渡し、
アキラは?と聞いてきたので
こっちです。
と言って部屋に案内をした
ベッドに横たわる息子を見つけた途端、駆け寄った。
「…アキラ!」
母親の声が病室に響く。
父親は短く息を吐き、俺たちに向き直る。
「…どういう状況なんだ?」
その目は怒っているわけではないが、強く、必死な色を帯びていた。
俺は言葉を慎重に選びながら説明を始めた。
「今日、みんなで海に出て…帰りに、お化け屋敷だっていう場所に寄ったんです。
そこでは特に何もなかったんですが、帰る途中で急にアキラが気分を悪くして…
吐いたあと、ぐったりして…それから、叫び出して…」
健三も途中から口を挟み、
「すぐに車でここに来ました。典子と洋子が、病院にも連絡を入れて…」
と言葉を補った。
母親はアキラの髪をそっと撫でながら、何度も「大丈夫、大丈夫」とつぶやいている。
父親は最後まで黙って聞き、深くうなずいた。
「分かった。もういい、君たちは帰りなさい。こっちは私たちが見るから」
その言葉に、俺たちは互いに視線を交わし、小さく頷き合った。
心残りを抱えたまま、静かに病室をあとにした。
俺たちは、まだベッドで眠るアキラの顔を最後に一瞥し、無言のまま病室をあとにした。
足音だけが廊下にこだまし、やけに遠くまで響いて聞こえる。
自動ドアを抜けると、夜の空気がひやりと肌に触れ、誰も何も言わず駐車場へと歩いた。
車に乗り込んでも、誰ひとり口を開かない。
エンジンの低い振動と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが、やけに耳に残った。
フロントガラスの向こうで、街灯が等間隔に流れていく。
その明かりに、時折みんなの横顔が一瞬だけ浮かび上がっては、すぐ闇に沈む。
視線を合わせることすらためらわれるような空気。
咳払いひとつすら、場を乱すようで誰もできない。
車内は、アキラの容態への不安と、説明できないざわめきで満たされていた。
目的地は東京の自宅。
ただハンドルを握り、前だけを見て走る。
言葉を飲み込みながら、夜の道路を静かに進んでいった。
仲間をそれぞれの家まで送り届け、気づけば車には俺ひとりだけが残っていた。
夜道を抜け、一人暮らしのアパートにたどり着く。
エンジンを切った瞬間、車内を満たしていた微かな人の気配が途切れ、急に静けさが耳に押し寄せた。
部屋の鍵を開け、靴を脱ぎ、慣れた手つきで風呂のスイッチを入れる。
湯が張られる音が、かすかなBGMのように響く。
だがその音さえ、今夜はなぜか落ち着かない。
ソファに腰を下ろした瞬間、今日一日の出来事が、まるでフィルムを巻き戻すように脳裏を駆け巡った。
とくに――アキラが苦しそうに叫んでいた姿。
「くるな、くるな」と繰り返すあの声が、耳の奥でまだ生々しく残っている。
健三がぽつりと言った言葉が、不意に蘇る。
――もしかして、お化け屋敷に行ったからじゃないかな。
くだらない、と頭では笑い飛ばそうとする。
だが、あの家の前に立った時の妙な寒気を思い出すと、笑いは喉の奥で引っかかって消えた。
もし万が一、本当にあの場所に原因があるとしたら……。
お祓いとか、そういうことを考えた方がいいのか?
いや、そんなはずはない。
現実にそんなことが起こるわけが――。
そう思おうとしても、心の奥で何かが小さくざわめいていた。
翌日は午前中からバイトが入っていた。
「もう、あれこれ考えるのはやめよう…」
そう自分に言い聞かせ、風呂場へ向かった。
浴槽に湯をため、肩まで沈み込むと、張りつめていた筋肉がじわりと解けていく。
疲れが溜まっていたのだろう、湯気の中でまぶたが自然と重くなった。
――気づけば、そこは知らない公園だった。
薄曇りの空、古びたブランコ、色の剥げたすべり台。
そして、足元に小さな手の感触を感じる。
見下ろすと、幼稚園くらいの男の子が俺の手をぎゅっと握り、まっすぐ見上げてきた。
「おにいちゃん、一緒に遊んで」
小さな声なのに、なぜか耳元で囁かれるようにはっきり聞こえる。
「お母さんは?」と尋ねると、男の子は小さく首を横に振った。
「いないよ。だから寂しいんだ。…一緒に遊んでよ」
その瞳は、今にも泣き出しそうなほど真剣だった。
胸が痛んだが、俺はできるだけ優しく言った。
「ごめんね、おにいちゃん、これからバイトがあるから遊べないんだ」
男の子は一瞬だけ唇を噛み、うつむいた。
やがて顔を上げ、弱々しく笑いながら言った。
「じゃあ…今度、遊んでくれる?」
気づけば、俺は迷いなく答えていた。
「うん、約束するよ。今度絶対に遊ぼう」
その時、ふっと心が軽くなった。
ふと、まぶたが開いた。
視界には天井の白い湯気が揺れている。――どうやら、湯船の中でうたた寝をしていたらしい。
しかし、胸の奥に妙なざわめきが残っていた。
あの公園、あの男の子。
小さな手が、確かに俺の指をぎゅっと握った感触が、まだ皮膚の奥に染みついているようだった。
温もりすら残っている気がして、思わず自分の手を見つめてしまう。
頭を振って気持ちを切り替え、湯から上がる。
髪を軽く拭きながら、明日は早いからもう寝ようと、ベッドへと潜り込んだ。
だが、閉じた瞼の裏で、アキラの青ざめた顔と、夢の中の男の子の笑顔が交互に浮かんでは消えていく。
二つの出来事が脳裏で絡まり、ほどけない糸のように渦を巻く。
それでも、全身にまとわりつく疲労が思考を押し流し、やがて意識はゆっくりと暗闇の底へと沈んでいった。