30 謎の女性1
「シュウ、のんびりしすぎだよ。空いた食器、さっさと下げて。もっとテキパキ動かなきゃ。バイトでも仕事はちゃんとやらないとだからね」
ひなが小声で、でもはっきりと注意してくる。
「わかってるよ〜。……まったく、ひなはいつもうるさいんだからなぁ」
俺も冗談めかして返すと、ひなは「何それ!」とさらに眉を吊り上げる。
そんな二人のやりとりに気づいたのか、カウンターに座る先ほどの女性がふっと視線を上げてきた。目が合った瞬間、柔らかく微笑む。その笑みには、どこか温かさと余裕が漂っていて、俺の胸に不思議な落ち着きを与えた。
「あっ……すいません、うるさかったですよね」
ひなが慌てて頭を下げると、女性は首を横に振り、静かな声で答えた。
「いいえ。むしろ、仲がよくて微笑ましいくらいよ」
その一言に、ひなはかすかに赤くなり、俺は何とも言えない気恥ずかしさを覚えた。けれど同時に、なぜだかこの女性がただの客ではないような、不思議な存在感を感じていた。
「なんだかこのお店、気に入っちゃったわ。コーヒーも美味しいし……それに、かわいい店員さんもいるしね」
女性がふっと口にしたその言葉に、ひながパッと笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます!」と即座に返すその姿は、いつものテキパキしたひなそのものだった。
その様子をぼんやり眺めていた俺に、ひながすかさず突っ込んでくる。
「シュウ、何ボォーっとしてんの! お客さんがせっかく優しいこと言ってくれたんだから、あんたもちゃんとお礼言いなよ」
「えっ、あ、あぁ……すいません、ありがとうございます!」
慌てて頭を下げる俺。けれど声が裏返ってしまい、自分でも何を言ってるのか分からなくなる始末だった。
すると女性は小さく笑って、肩を揺らしながら「いいから、いいから。気にしなくて大丈夫よ」と軽やかに返してくれる。その柔らかさに、場の空気がふっと和む。
やがて、女性はひなの方へ視線を向けて微笑んだ。
「大変な彼氏だけど、頑張ってね」
「えっ、あ、あの……」
ひなは驚いたように頬を赤らめ、何か言おうとして言葉を失う。俺はさらに焦って、ますます訳がわからなくなるばかりだった。
女性はそんな二人を楽しむように見つめながら、軽やかに立ち上がった。
「じゃあ……お会計お願いね」
「はい!」とひなが慌ててレジへ向かい、お会計を済ませると、女性は帰り際にもう一度だけ振り返った。
「また来るわね」
そう言って扉を押し、外の陽射しの中へ消えていった。
——この女性がどれほどすごい人物であるのかを知るのは、もう少し先の話。今の俺たちには知る由もなかった。