3 お化け屋敷
そのときは、ただの興味本位だった。
昼間の海での話題が、ほんの遊び半分の延長のように続いて、
「じゃあ、行ってみるか」という軽いノリで車を走らせた。
材木座の海から、車でわずか五分ほど。
街灯の明かりが途切れがちになる住宅街の外れに差し掛かり、
近くの空き地に車を止める。
夜の空気は昼間の熱気をすっかり失い、少し肌寒く感じられた。
「……あれだ」
智也が先頭を歩きながら、指差した先に見えるのは──
ぱっと見は、ごく普通の一軒家だった。
白い外壁に、二階の窓。庭先には古びた植木鉢。
表札すらも、生活感のある字体で刻まれている。
けれど、その家だけが周囲の空気から浮き上がって見える。
人の気配はなく、窓は暗く、玄関のポーチライトも消えていた。
「ここな……昔、この家で──」
智也が少し声を落として語り出す。
失踪した家族、夜ごと聞こえるうめき声、誰も住んでいないはずの部屋の明かり……
そんな話を、面白がるように淡々と続けた。
メンバーはそれぞれの反応を見せた。
アキラは「マジかよ、それ本当か?」と笑いながらも目を輝かせ、
健三は「おいおい……やっぱやめたほうがいいって」と小声でぼやく。
典子と洋子は、半分顔を見合わせ、半分は家から目を離せずにいた。
そして──。
……何も、起こらなかった。
風の音と、自分たちの呼吸だけがやけに大きく響く。
拍子抜けするほど、静かな夜だった。
車に戻ると、洋子が助手席に腰を下ろしながら、
「……ほらね、結局なんにもなかったじゃん」
と笑った。肩の力が抜けた声だった。
「ほんとにあれ、お化け屋敷なの?」
すると、後部座席にいた智也が、前かがみになって言った。
「お前ら、あの家の噂、ちゃんと知らないだろ?」
その声は、さっき家の前で話していた時よりも、妙に真剣に聞こえた。
「……あそこに引っ越した家族、何組もいるんだけどさ、全員、最終的に誰かが……おかしくなるんだって」
「おかしくなる?」と典子が眉をひそめる。
「うん。家族の誰かが突然暴れて、家族を殺したり、自殺したり。で、生き残った人は……みんな行方不明」
その場の空気が、またひんやりとした。
「しかも、無事に住み続けられた家族は一度もない。取り壊そうとしても、工事中に事故が起きて、結局誰も壊せないんだとよ」
智也はそう言って、ポケットからスマホを出し、「週刊誌にも載ってたんだよ」と画面を見せようとした。
しかしその瞬間、運転席のアキラが笑い出した。
「おいおい、また始まったよ智也の怪談。ぜ〜んぶ雑誌の盛り話だって!ありえねーから!」
ハンドルを叩きながら、わざとらしく大げさに笑う。
「だってよ、家が壊せないって、RPGの呪いの城じゃねーんだからさ!」
智也は「マジだって!」と笑い返し、車内は再び軽い笑い声に包まれた──
……けれど、窓の外の暗闇は、何も言わずにじっとこちらを見ているようだった。
しばらく車を走らせていると、運転席のアキラがふいに口を開いた。
「……悪い、ちょっとコンビニ寄っていいか?」
いつもより声が低く、妙に張りがない。
助手席に座っていた俺は、横目でアキラの顔を見た。
街灯の光が一瞬だけ照らしたその横顔は、やけに青白く、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
「……アキラ、気分悪いのか?」
問いかけると、彼は小さくうなずいた。
「あぁ……なんか……吐きそうな感じがするんだ」
それだけ言うと、アキラは道路脇に車を寄せ、ブレーキを踏み込んだ。
エンジン音が静まり、車内に微妙な緊張感が広がる。
アキラはシートベルトを外すと、足早に外へ出て、近くの街路樹の影へ向かった。
そしてその場で、胃の奥から絞り出すように吐き出した。
吐瀉音が嫌でも現実感を強める。
俺も慌てて車を降り、アキラな背中に手を置く。
「大丈夫か……?」
背中越しに伝わる体温は高く、肩は小刻みに震えている。
息も荒く、時折、喉の奥でひゅっと空気が引っかかるような音がした。
……さっきまであんなに笑っていたのに。
何が、アキラの体をこんなに急に弱らせたのか──そのときの俺にはまだ、見当もつかなかった。
俺はアキラの肩を抱えながら、声を張り上げた。
「健三ぉー!来てくれぇ! アキラが……!」
その叫びに、車の後部座席から健三が飛び降りてきた。
「どうしたんだ!?」
「急に気分が悪くなって吐いたんだ。そのあと……力が抜けたみたいにぐったりして……」
俺と健三は、互いに目を合わせ、一言もなくアキラの両脇を支えた。
体は思った以上に重く、まるで水を吸った毛布のように動かない。
息は浅く、額からは冷たい汗が流れ落ちていた。
どうにかして後部座席に横たえると、洋子と典子が顔をのぞき込む。
「え……なにこれ……どうしたの……?」
洋子は声を震わせ、典子は一瞬ためらいながらも、クーラーボックスから保冷剤を取り出し、あきらの額にそっと当てた。
「……冷やしたほうがいいよね……」
彼女の声もわずかに上ずっていた。
しかし、静かに横たわっていたあきらの唇が、わずかに動いた。
次の瞬間──
「……くるな……くるな……」
低く、掠れた声。
その声はすぐに大きくなり、叫びへと変わった。
「やめろぉ……! こっちにくるなぁーーーっ!!!」
車内に響き渡る絶叫。
その目は見開かれ、何かを凝視している──だが、そこには何もない。
窓の外の闇に向けて、両手を必死に振り払うその動きは、
まるで“何か”が今にも触れようとしているのを防いでいるかのようだった。
俺たちは凍りつき、ただその場で息を呑むしかなかった。
あきらの絶叫が途切れ、まるで糸が切れたように静かになった。
目を閉じ、浅い呼吸を繰り返すその姿は、気を失ったようにも見える。
俺と健三は顔を見合わせ、同時にうなずいた。
「……とにかく、病院だ」
その言葉に異論はなく、全員が即座に動き出す。
洋子はもう携帯を握りしめていた。
「鎌倉救急病院が一番近いみたい! ここからならすぐ!」
声は震えていたが、その指は迷いなく画面を操作している。
「番号は?」と健三が聞く。
洋子が読み上げた数字を、健三はすぐにカーナビへ入力。
小さく「OK」とつぶやき、画面に表示されたルートを指で示した。
「運転は俺がする!」
俺はそう言ってハンドルを握り、ナビの指示に従いながら車を発進させる。
その間、後部座席では典子がすでに病院へ電話をかけていた。
「はい、大学2年の男子なんですけど……急に吐き気と意識がなくなって……はい、はい……」
落ち着いた声で状況を説明する彼女の額にも、汗が光っている。
車内には、さっきまでの混乱はもうなかった。
誰も指示を出していないのに、全員が自然と自分の役割を見つけ、動いていた。
言葉は少なかったが、それぞれの行動が噛み合い、ひとつの流れになっていた。
ナビの案内が「目的地まであと500メートル」と告げた頃、
前方に病院の白い建物が見えてきた。
到着まで、わずか5分足らずだったが──その時間は異様に長く感じられた。