13 少女
流石にビールジョッキを三杯ほど空けた頃、さすがにトイレに行きたくなり、カウンター越しにママさんへ声をかけた。
「ママさん、トイレどこですか?」
すると彼女は手を止めて、にこっと笑いながら答える。
「ほら、あそこの扉を出ると階段があるでしょ。その階段を降りた先にトイレがあるから。ちょっと外に出る形になるんだよね」
そこで一拍置いてから、わざと声を潜めるように続けた。
「それとね、その階段……よく幽霊が出るって有名なんだ。だから、気をつけてね」
最後はクスッと笑いながら冗談めかして言ったものだから、周りのお客さんも小さく吹き出していた。
俺は苦笑しつつも、なんとなく心の奥がくすぐったくなるような感覚を覚えた。悪い気はしない。ただ、どうも完全に子ども扱いされているんだな、そんな風に思いながら椅子から腰を上げ、ママさんに軽く会釈をしてトイレへ向かった。
扉を押し開けると、途端にひやりとした空気が肌を撫でた。
そこは店の中から一歩切り離されたような場所で、薄暗い非常階段が上へと続いていた。壁も手すりもどこか古びていて、錆の浮いた鉄のにおいと湿った夜気が混ざり合っている。
「外にトイレがある」と聞いてはいたが、まるで昭和の時代に取り残されたような造りで、階段の横をすり抜ける感じで前に進んでいく。
「完全に外だ。このまま食い逃げもできてしまう。でもきっとあのママさんだからそんなお客さんはいないんだろうなぁ」
ふと、冗談半分でママさんが言っていた「幽霊が出るから気をつけて」という言葉が、不思議と頭の中でよみがえってくる。
階段を横切ると、その先にぽつんと小さな扉が見えた。
上に掲げられたパネルは半分ほど灯りが消えていて、かろうじて「トイレ」と読める文字が浮かんでいる。光が弱々しいせいで、むしろその扉の奥に何か得体の知れないものが潜んでいるように感じられた。
恐る恐る扉を開けると、コンクリートの古い空間が現れた。コンクリートむき出しの床は少し湿っていて、ほのかに漂う石鹸と古木の匂いが混じり合う。天井の裸電球が心もとなく揺れて、影を長く引き伸ばしていた。ここが確かにトイレであることに、ようやく胸をなで下ろす。
用を済ませて手を洗い、再び外に出ると、夏の夜のひんやりした風が頬を撫でた。
扉を閉めて外に出ると、階段の踊り場に小さな影が見えた。
まるで夏祭り帰りのように無邪気に階段の端で遊んでいた。
非常階段の踊り場に、浴衣を着た女の子がちょこんと腰を下ろし、手すりに手をかけながら何かを楽しそうにしている。年の頃はまだ小学校一年生くらいだろう。ひらひらと浴衣の袖を揺らしながら、まるで秘密基地を見つけた子供のように夢中で遊んでいた。
だがこの時間、この場所に、子どもが一人でいるはずがない——
そんな違和感が胸の奥をひやりと掠めた。
「ここで何してるの?」と俺が声をかけると、女の子はぱっと顔を上げ、にっこり笑って答えた。
「遊んでるの」
その答えはあまりにも自然で、純粋で、思わずこちらまで笑みがこぼれてしまう。
「お父さんかお母さんは?」
問いかけると、女の子は浴衣の紐を指先でいじりながら、少しだけ首をかしげて言った。
「お仕事だから、ひとりで遊んでるの」
その言葉を聞いて、俺は頭の中で「ああ、そうか」と納得する。きっとこのビルの上の飲み屋で働いている親御さんの子供なのだろう。少し安心して、思わず優しい声色になる。
「でも、夜眠くない?」
「ううん。ずうっと寝てたから元気だよ」
元気いっぱいのその返事に、子どもらしい屈託のない明るさを感じて、思わず頬が緩んだ。
「お兄ちゃんが来て、びっくりしなかった?」
「うん。だって、お兄ちゃん優しいから」
そう無邪気に言われて、俺は思わず吹き出しそうになった。初めて会ったばかりなのに、まるで昔から知っているかのように信じ切った瞳で見つめてくる。そのまっすぐさに、なんだか胸の奥がくすぐったくなる。
「まだお母さん、お仕事終わらないの?」と尋ねると、女の子は小さく肩をすくめて笑った。
「うん、まだまだだと思う」
「じゃあ、お兄ちゃんとジュースでも飲もうか」
「いらない。由貴はここで遊んでるから」
そう言って、女の子は、また浴衣の裾をひらひらさせながら階段の手すりをトントンと叩いて遊び始めた。
「じゃあ、ちょっと待っててね。今ジュース持ってきてあげるから」
俺はそう言い残し、小さな背中をちらりと振り返ってから、再び店の中へと足を向けた。