117 それぞれの帰る場所 最終回
鬼子母神の言葉が落ちたあと、
重く澱んでいた空気が、わずかに揺らいだ。
部屋の隅で怯えていた二つの影のうち、
小さな方――少年の影が、恐る恐る一歩前に出た。
「……お母さん」
か細い声だった。
今にも消えてしまいそうな、けれど確かに“想い”を持った声。
黒い影は、その声にびくりと肩を震わせる。
「ぼく……たのしかった」
少年の影は、ぎゅっと胸の前で手を握りしめながら続けた。
「シュウお兄ちゃんと遊んだの、ほんとうに楽しかったんだ。
お菓子もね、笑ってくれたのも……夢みたいだった」
その言葉に、黒い影の輪郭が崩れ始める。
怒りでも、憎しみでもない――
抑え込んでいた感情が、静かに溢れ出していた。
「ぼく、ずっと誰かと一緒にいたかっただけなんだ」
少年の影は、そう言って振り返り、黒い影を見上げる。
「怖かったよね。
ひとりになるの」
その一言が、決定的だった。
黒い影は、がくりと膝をつく。
闇の中から、すすり泣くような音が漏れる。
「……私は……」
声は震え、もはや凶暴さの欠片もなかった。
「守っているつもりだった……
奪われるくらいなら、縛ってでも……」
鬼子母神は、静かに首を振る。
「愛は、縛るものではない。
寄り添い、信じ、手放すことも含めて愛なのだ」
ひなの体から放たれる気配が、さらに澄んでいく。
七色の光は、眩しさを失い、柔らかな光へと変わっていった。
「もう、行く時だ」
鬼子母神の声は、厳しくも優しかった。
「お前たちが帰るべき場所へ。
憎しみではなく、想いを抱いたまま」
少年の影は、にっこりと笑った。
「シュウお兄ちゃんにね、伝えて」
その声は、風に溶けるように軽かった。
「ありがとう。
一緒にいてくれて、ほんとうに楽しかったって」
黒い影は、少年をそっと抱き寄せる。
その姿は、もはや“不浄”ではなかった。
「……すまなかったね…」
それは誰に向けた言葉なのか、もう分からない。
だが確かに、後悔と解放が混じった、最後の言葉だった。
次の瞬間、
二つの影は淡い光に包まれ、
静かに、静かに、溶けるように消えていった。
嵐のようだった気配は跡形もなく消え、
店内には、深い静寂だけが残された。
ひなの体が、ゆっくりと力を失い、その場に崩れ落ちる。
「……ひなちゃん」
美歌が駆け寄り、そっと抱き留める。
額の目は閉じ、
ひなはただ、安らかな寝息を立てていた。
鬼子母神の気配は、もうそこにはなかった。
ただ一つ――
人を信じ、守ろうとした想いだけを残して。
薄く差し込む照明の光が、床に長い影を落としていた。
先ほどまで渦巻いていた重苦しい気配は嘘のように消え、
店内には、深い静寂と、かすかな埃の匂いだけが残っている。
「……ん……」
微かな声が、空気を揺らした。
美歌の腕の中で、ひなが小さく身じろぎをする。
長いまつ毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
「……あれ……?」
焦点の合わない目で天井を見つめ、
ひなはしばらく、状況を理解できずに瞬きを繰り返す。
「……み、か……さん……?」
掠れた声だった。
長い夢から覚めたばかりのような、現実と非現実の境目の声。
「大丈夫よ」
美歌は、いつもと変わらない穏やかな声で答えながら、
そっとひなの背中に手を回した。
「もう終わった。全部」
その言葉を聞いた瞬間、
ひなの胸に、説明のつかない温かさが広がった。
怖かった記憶は、はっきりとは残っていない。
ただ、胸の奥に、強く抱きしめられたような感覚だけが残っている。
「……なんか……」
ひなは自分の胸元に手を当て、首を傾げる。
「すごく……懐かしい夢を見てた気がする……」
美歌は、その言葉に小さく目を伏せた。
「そう」
それ以上は語らない。
語る必要も、今はなかった。
ひなはゆっくりと上体を起こし、周囲を見回す。
荒れていたはずの空間は、不思議なほど整っている。
「……ここ……静かだね」
「ええ」
美歌は微笑む。
「ちゃんと、帰る人は帰ったから」
その言葉の意味を、ひなはまだ理解できない。
けれど、不思議と不安はなかった。
「……私……誰かに……」
言いかけて、ひなは言葉を止める。
頭の奥で、何かがひっかかったような感覚。
名前も、顔も思い出せないのに、
“確かに誰かがいた”という確信だけが残っている。
「……守られてた……?」
ぽつりと漏れた言葉に、
美歌は一瞬だけ目を見開き、すぐに優しく笑った。
「ええ」
その笑顔は、誇らしげで、どこか切なかった。
「あなたは、ちゃんと人を信じられる子だから」
ひなは照れたように笑い、
少しだけ困った顔をする。
「……なんだか、すごく疲れたけど……」
そう言って、ふっと息を吐いた。
「でも……怖くない」
その一言が、この夜のすべてだった。
美歌は、ひなの額にそっと手を当てる。
もう、あの目が開くことはない。
「今日はもう、休みなさい」
「……うん」
ひなは小さく頷き、再び美歌の肩にもたれた。
その表情は、
まるで長い夜を越えた子どものように、安らかだった。
――こうして、
一つの怨念は終わりを迎え、
誰かの想いは、確かに救われた。
夜は、まだ深い。
けれどもう、闇はここには残っていなかった。
潮の香りが、ゆるやかな風に乗って運ばれてくる。
青く澄んだ空の下、江ノ島へと続く橋の上を、ひなとシュウは並んで歩いていた。
「……なんかさ」
ひなが手すり越しに海を見下ろしながら、ぽつりと口を開く。
「この前のこと、夢だったみたいだよね」
「うん」
シュウはそう答えつつ、少しだけ表情を曇らせた。
「でも……夢じゃないんだろうな」
波が岩に当たって砕ける音が、ザァン、と低く響く。
それを聞きながら、ひなは小さく頷いた。
「私ね……全部は覚えてないんだけど」
そう前置きしてから、胸に手を当てる。
「誰かが……すごく必死に、でも優しく……
“楽しかった”って言ってた気がするの」
シュウは足を止め、ひなを見る。
「……少年?」
ひなは驚いたように目を見開き、すぐに微笑んだ。
「やっぱり、シュウも感じてたんだ」
二人は顔を見合わせ、少し照れたように笑う。
言葉にしなくても、同じ記憶の欠片を持っていることが分かった。
「きっとさ」
シュウは海の方を見ながら続ける。
「ちゃんと、伝えてほしいんだと思う」
「……美歌さんに?」
「うん」
ひなはゆっくり頷いた。
「私も……そう思う」
江ノ島の階段を上り、神社の境内に差し込む木漏れ日が、
二人の足元にまだらな光を落とす。
「“怖かった”じゃなくてさ」
ひなは、少し言葉を探しながら話す。
「一瞬でも……一緒に笑えたことが、
あの子にとっては、救いだったんじゃないかなって」
シュウは小さく息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「それ、ちゃんと伝えよう」
「うん」
しばらく沈黙が続き、
遠くで観光客の笑い声と、風鈴の音が混ざり合う。
「……ねえ、シュウ」
「なに?」
「美歌さんさ……」
ひなは少しだけ声を落とす。
「全部分かってたんだよね。
あの子が、悪いだけじゃなかったって」
シュウは即答しなかった。
代わりに、ゆっくりと空を見上げる。
「……だから、あの人は怖くなかったんだと思う」
「うん……」
ひなは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
帰り道、ソフトクリームを半分こしながら、
他愛ない話をして笑う二人。
でも、笑顔の奥で、確かに共有していた。
――あの夜、
“楽しかった”と伝えきれなかった想いが、
今も、どこかで見守っていることを。
潮風が、二人の背中を優しく押していた。
ひなは、思わず足を止めていた。
江ノ島の高台から見下ろす海は、夕陽を抱き込むように静かに揺れている。
昼の喧騒はいつの間にか遠のき、潮の音と、風が運ぶかすかな人声だけが残っていた。
空は、橙から朱へ、朱から紫へとゆっくり色を溶かしながら移ろっていく。
その境目がわからなくなるほど、なめらかで、やさしい。
「……こんなに、綺麗なんだ」
ひなの声は、驚きと感動が混じって、少し震えていた。
ずっと憧れていた景色。
写真や動画では何度も見てきたはずなのに、実際に立つと、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「来てよかったな」
隣でシュウが、海を見つめたまま言う。
その声は穏やかで、以前のやつれた影はもうどこにもなかった。
ひなは小さく頷き、もう一度夕陽へ視線を戻した――その時。
すうっと、空気が変わった。
潮風とは違う、懐かしいような、胸の奥を撫でる気配。
ひなはゆっくり振り向く。
そこに、いた。
夕陽を背にして立つ、小さな少年。
影のように黒くはなく、けれど生きている人間ほど確かでもない。
光を透かした輪郭は淡く、今にも消えてしまいそうだった。
「……あ」
ひなが息を呑む。
少年は、あの時と同じように、少し照れた笑顔を浮かべていた。
怖さは、もうどこにもない。
ただ、無邪気で、どこか安心したような表情だった。
「ねえ」
少年が口を開く。
声は驚くほど穏やかで、波音に溶けるようにやさしい。
「すごく、楽しかった」
それだけだった。
「お兄ちゃんと遊んだことも……おやつも……
それから……守ってくれたことも」
言葉を探すように、一瞬だけ視線を落とし、
それから、まっすぐにひなとシュウを見る。
「ありがとう」
夕陽が、海へと半分沈む。
その光が強くなった一瞬、少年の身体は、
橙色の粒子のようにほどけていった。
風が吹く。
髪を揺らし、服の裾をなで、
まるで「もう大丈夫だよ」と告げるように。
次の瞬間、そこにはもう、誰もいなかった。
ひなは、しばらくその場から動けなかった。
胸の奥が、じんわりと温かい。
悲しいはずなのに、涙は出なかった。
「……行ったね」
シュウの声に、ひなは静かに頷く。
「うん。ちゃんと……行けた」
空はすでに藍色へと変わり、
最初の星が、ひとつ瞬いていた。
怖かった夜も、痛かった記憶も、
すべてはこの夕暮れに辿り着くための道だったのだと、
ひなは初めて、そう思えた。
二人は並んで、夜へと向かう江ノ島を歩き出す。
背後で、波が静かに砕ける音がした。
それは、終わりではなく――
確かに“救われた”ことを告げる、穏やかな音だった。
終わり
君と最後に出会った夏
(でも、その君はもう……)
このたび、無事に最終回を迎えることができました。
ここまで読み進めてくださった皆さま、本当にありがとうございます。
当初は短編として書き始めた物語でした。
けれど、物語を書く癖というものはなかなか抜けないもので……
気がつけば、ズルズル、ズルズルと筆が止まらなくなり、
いつの間にか長編のような形になってしまいました。
「短編じゃなかったの?」
そう思われた方も、きっといらっしゃったのではないでしょうか。
それが良かったのか、あるいは少し長すぎたのか――
その答えは、すべて読んでくださった皆さまの中にあると思っています。
もしよければ、感じたことを教えていただけたら、とても嬉しいです。
この物語は、怖さだけで終わる話ではなく、
誰かを想う気持ちや、信じること、守ることの強さを
最後に少しでも感じてもらえたら、という思いで書き続けてきました。
この物語を書くきっかけは、ある人との出会いでした。
たまたまその方は、少し不思議な力を持っている方で、
好奇心旺盛な私は、つい素朴な質問をしてしまったんです。
「もし憑依されたら、どうすればいいんですか?」
すると、その方はとても穏やかに、こんなふうに教えてくれました。
「大切なのは、自分の信念をしっかり持って貫くこと。
テレビで見るような、激しくて恐ろしい出来事は、実はほとんどないの。
多くは“無浄霊”と呼ばれる存在で、
なぜそこに留まっているのか、未練は何なのか――
それを優しく諭してあげることが、成仏につながるのよ」
壮絶な戦いを繰り広げるエクソシストのようなものではなく、
無浄霊に寄り添い、話を聞き、その想いを受け止めてあげる。
それだけで、静かに救われていく魂もあるのだと教わりました。
この考え方が、今回の物語の根っこにあります。
恐怖で打ち負かすのではなく、
理解し、受け入れ、想いに耳を傾けること。
そんな“優しい結末”もあるのだと、
この物語を通して感じてもらえたら嬉しいです。
この物語は、怖い話でありながら、
本当は「誰かを想うこと」「信じること」「寄り添うこと」を描いた物語でした。
ひなやシュウ、そして美歌さんが選んだのは、
恐れに立ち向かう強さではなく、
相手を想い、守ろうとする優しさだったのだと思います。
もしこの物語を読み終えたあと、
少しだけ人に優しくなれたり、
見えないものにも理由や想いがあるのかもしれないと感じてもらえたなら、
それ以上に嬉しいことはありません。
ここまで長い物語にお付き合いいただき、
本当にありがとうございました。
また、どこかの物語でお会いできる日を楽しみにしています。
――君と最後に出会った夏
その記憶が、あなたの心にそっと残りますように。
茅ヶ崎渚




