66 おてんば令嬢の敗北
ウルグレン侯爵の屋敷にて――侯爵の一人娘であるレーナは、己の家にもかかわらず、こそこそと移動していた。
二階にある自室のバルコニーから、カーテンをロープ代わりにするという古典的な手法を用い、庭に降りて、全力で気配と音を抑えながら敷地内を走る。
向かう先は裏門だ。門番がいるので正門からは出られない。
こうして抜け出すことには慣れている。いままでさんざんやってきたことだ。そうして下町へと降り、散策したり友人と遊んだりしていた。
今回もそれと同じだ。しかしまったく同じと言えないのは、自分がつい先日、大きな問題を起こしたこと。
それがあって、屋敷の警備も普段以上に厳重になっている。外からの襲撃などを警戒するのではなく、レーナを外に出さないための警備だ。
(でも、私は行かなきゃいけないのよ!)
思い浮かべるのは、ストロベリーブロンドの髪を流す美しい少女の姿。
自分よりもいくらか年上で、ちょっと気だるげな感じの不思議な人で、けれどとってもとっても強い、命の恩人。
あの日、闇オークションの会場から、気づけば姿を消していた。
そのあとで施設内や周囲を捜してもらったが、ついぞ見つからなかった。
(まだ、なんのお礼もしてないのにっ!)
あの悪魔から守ってもらったのだ。命を救ってもらったのだ。
騎士による救出と制圧は予定どおりだったけれど、デーモンや悪魔の出現など想定の埒外もいいところ。
騎士たちは会場内に入ってこれず、もしあの場にトアがいなければ、レーナも友人も、ほかの子たちも、間違いなく死んでいた。
命の恩人に対してちゃんとした礼の一つもできないなど、人としても貴族としても、ましてや領地を治める領主の娘としても失格だ。
だから、行くのだ。トアのもとへ。
場所はたぶん、獣人たちの集落。この辺りでは一か所しか確認されていない。
あの犯罪者集団が活動していた範囲からして、獣人の集落なら、そこ以外にないだろう。
確証はないが、トアはきっとそこにいる。一緒に消えていた獣人の少女たちを、彼女はきっと送り届けているはずだから。
従者であるシウカのことはとっくに撒いた。いまは『影の契約』も使えない。
あの術は、契約対象が主体なのだ。つまりはこの場合、契約者であるレーナの意思こそが優先される。
レーナが強く拒絶すれば、影のつながりは一時的に弱まり、影を渡ることもできないし、状況を把握することも居場所を捉えることもできなくなる。
屋敷を抜け出す際には、レーナは必ず、強い拒絶の意思で術を無効化していた。
やがて、ようやくと裏門が見えてくる。
(……やっぱり、いるわよね)
だがそこには、普段はいない警備が立っていた。
あれをどうこうすることは、レーナには不可能だ。
(でも問題ないわ。出入りできるのが門からだけだと思ったら大間違いよ!)
誰にともなく胸中でそううそぶいて、レーナはもっとも近い脱出ポイントを目指す。――が、ふいに肩を誰かに掴まれた。
振り解けないほどの力ではないが、不思議と抗えず、レーナは足を止める。
彼女の顔は、一瞬にして血の気を失っていた。
「レーナ? どこへ行くんだい?」
よく聞き知った、これ以上なく聞き慣れた声だ。
振り返らずとも、それが誰であるかは明々白々。
油を差し忘れた機械みたいにレーナが振り返れば、そこには父の、穏やかに見える笑顔があった。
「あ、あら、お父さま、ごきげんよう」
「うん。あいさつは貴族の淑女として、とても大事なことだね。けれど僕は君に、どこに行くのかと、そう聞いたのだけれどね?」
「え、えーっと……少々、お散歩に」
肩に置かれた父の指先に、ほんのわずかに力がこもる。
依然として、父は笑顔だ。瞳だって、ちゃんと笑っている。それなのに、言い知れぬ恐怖を感じて、ぶるりと背筋が震えた。
「僕はね、反省をしたんだよ」
唐突に、父は話題を変える。
声音と口調だけは穏やかに、言葉を紡ぐ。
「な、何を、ですか……?」
「少し、君を自由にさせすぎたかもしれない、とね」
「そ、そのようなこと、ないと思いますけれど……?」
「どうかな? 僕は君のことが、自分の命よりも大切だ。大切だからこそ、君の意思や考えを最大限、尊重していきたい……いきたかったんだよ」
「そのままでいいと思います。嬉しいです」
父の笑みがいっそう深まって、本能が警鐘を鳴らす。
「でもね、これ以上、自分の命を軽んじるような無茶を重ねるのであれば、僕は君を、厳重に閉じ込めておかなくてはいけなくなる」
「ひっ……」
柔らかく弓なりになった瞳が暗い光を帯びて、レーナは小さく悲鳴を上げた。
父は本気だ。本気で自分を閉じ込めるつもりだ。それこそ、窓も扉も厳重に封鎖して。謹慎なんて生ぬるいものではなく。
「それで、君はいったい、どこへ行こうとしていたのかな?」
「……いえ、どこにも。自室に戻ります」
それしか、レーナに選択肢はなかった。
すると父は雰囲気を和らげ、小さな苦笑をこぼす。
「礼をしたい気持ちは僕も同じさ。だから、この件は僕に任せて、君は部屋で大人しくしていなさい」
「……はい」
あからさまに肩を落とし、淑女にあるまじき丸まった背中で、とぼとぼと屋敷のほうへ戻っていく娘を見送りながら、ウルグレン侯爵――エドヴァルドは片目をつむる。
「礼をすべきあの子の恩人が、獣人の集落にいる可能性が高い、というのは朗報ではあるのだけど……いかんせん、場所が場所だからねぇ」
強力な魔物のはびこる、樹海めいて広大な森林の奥地だ。
娘を行かせるのはもってのほかだが、当然ながらエドヴァルド自身が行くわけにもいかない。
仮にも領主とその娘。騎士を付けるにしたって限界があり、二人を守っての行軍はあまりにも負担が大きい。
たまに魔物が出ることもある街道を行くのとはわけが違うのだ。
ゆえに、先方を屋敷へ招待する予定で、使者として騎士を派遣するつもりだ。
しかし正直なところ、こちらが貴族とはいえ、娘の恩人を呼びつけるのは気が引ける。いくら招待とはいってもだ。人として許容はしがたい。
「まぁ、そこは仕方ないにしても……」
相手方が応じてくれるとはかぎらない。その場合は、相応以上の金銭や、相手が女性なので宝石や装飾品などを騎士に運ばせるしかないが――できれば応じてほしいものだと、エドヴァルドは心底から思う。
「本気とはいえ、僕に、愛娘を監禁して喜ぶ趣味はないからねぇ」
そんな脅しで諦めて引き下がるような娘なら、お父さんも苦労はしないのだ。




