第1話 婚約破棄一歩手前
レジーナ・フォン・シュルツ・ナイトメアは、辺境地スフェラ領の伯爵令嬢であり悪女である。
序列を弁えず公爵令嬢のシーラを押しのけて、あらゆる手段を使って第三王子ラインハルト・フォン・バイエルン・トイテベックとの婚約者の座を勝ち取り、シーラ令嬢に対して陰湿的な嫌がらせをしている。
さらにレジーナは男遊びと好き放題――それがこのエル・ファベル王国学院での評価だ。
身に覚えが全くないものの、反論しても正義は多数決によって白から黒に変わる。悪女と言う烙印を押されたのが、私の学院生活三年間の成果だった。
学院生活では毅然と立ち振る舞いを徹底し、涙一つ流さなかったが、それは学院内に限ってのことで、特別寮の部屋で待っていた侍女ヨハンナの顔を見た瞬間、涙が決壊した。
「ふぁああああああああん、ヨハンナぁああああああああ!」
「お帰りなさいませ。お嬢様、よく耐えましたね」
乳母であり家族のようにずっと傍で支えてくれたヨハンナの容姿は、幼い頃から変わらない。
彼女の外見は二十代後半で、栗色の長い髪を三つ編みにして凜とした佇まいに、淵のない眼鏡をかけ屋敷で支給されている鉄紺色の侍女服に身を包んでいる。
少し厄介な呪い持ちだが、私にとっては大事な家族の一人だ。
彼女に抱きつき、大粒の涙を零す。
突き刺さる視線、心ない言葉の暴力。
大勢によって無視され、馬鹿にされ、嫌がらせの毎日。
耐えていただけじゃない。反撃してもその倍以上の仕返しが返ってきたことで私の心はポッキリと折れてしまった。
異世界転生を果たし、今度こそは楽しい学園生活が送れると期待していたのもあった。穏便に波風立てずに青春を謳歌しようと意気込んだ結果がこれだ。
これでは屋敷にいる家族たちに合わせる顔がない。
「うぐっ……ひっく……卒業パーティーは明日だけれど不参加して領地に戻っても、お父様は怒らないわよね?」
「んーーー、どうでしょう」
「ヨハンナぁああ……。みんなのいる屋敷に帰りたいっ! クラウスに会いたい!」
「お嬢様。旦那様からの課題とエル・ファベル王国の中央図書館で、私が申し上げた書籍は全てお読みになったのですか?」
「もちろんよぉお、全部頭に入っているわ。それも領地に帰る条件だったでしょう? だから頑張ったのよ!」
ヨハンナは少し驚いてはいたけれど、すぐに私の頭を撫でてくれた。引きこもりで社交性が破滅的かもしれないが、これでも集中力と記憶力はいいほうなのだ。
それでも父には遠く及ばない。あんなにも素晴らしい父と母の娘なのに、私はまったくもって才能が無いのだ。
しかしヨハンナは私の言葉に対して、誇らしげに微笑んでくれた。
「それはご立派です。あと先ほどの言葉はクラウスを喜ばせるだけなので控えましょうね」
「ううっ……でも、どうしようもなく会いたいのだもの」
「まったく、あんな腹黒ヤンデレ執事のどこが良いんだか。それだったら呪いに掛かる前のオレ――げふんっ」
「ヨハンナ?」
時折、ヨハンナが感情的になると口調が荒くなる。小首を傾げて見つめるといつもの優しいヨハンナは額にキスを落とす。
「……今はまだ次期当主争いで領地内もピリピリしている状態ですので、旦那様はエル・ファベル王国の王家とお嬢様を婚姻させることでお守りしているのですよ。そのことはご理解されていますか?」
「……でも、その婚約ももうじき破談になるわ」
消え入りそうな声で呟くと、ヨハンナの笑みが固まった。
「え? あの馬鹿王子が、そう言ったのですか?」
「違うけれど……これを見て、この恋愛小説。まるで私と王子とシーラ嬢のよう……。私が意地悪な悪役令嬢で、ヒロイン役のシーラ嬢だって……。クラスメイトも講師も誰も小説と同じで、私の話なんか聞きもしないわ。何かあると証拠もないのに私のせいにするのよ」
「まあ、ご学友であるレイナ・ド・フルノーはどうされたのです?」
「彼女は一足早く帝国に戻ったわ。来年にはエル・ファベル王国の子爵夫人になるから準備が忙しいそうよ」
数少ない友人たちは、家の都合などで休学やら退学などで姿を消していった。
伯爵当主である父の後継者問題は、幼い頃――母が亡くなった途端、親戚たちは我こそと水面下で火花を散らしてきた。
私が男だったら。
あるいは早々に婿を取ると宣言してしまえば、骨肉の争いがここまで激化しなかっただろう。
(それとも当初は私に継がせるつもりだった? ……無理よ。私は弱虫で泣いてばかりで自堕落な生活がしたいダメな娘だもの。そして大好きなクラウスとは結ばれない……ふぐっ)
こんこん。
「――っ!?」
「お嬢様、しゃんとできますか?」
「う、うん……」
控えめなノックに涙が引っ込んだ。
素早く袖で涙を拭って令嬢としての仮面を被る。そうすればどんなことがあっても平静を保ち、令嬢らしいしゃんとした振る舞いができるからだ。
出来損ないの私が身につけたたった一つの武器であり、盾。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
(え──なんで?)
扉を開いて姿を見せたのは、闇を具現化したかのような男だった。
漆黒の艶やかな黒髪、彫刻のように整った顔立ち、アメジスト色の双眸が怪しく光る。細身だけれど長身で恭しく頭を下げる。執事として完璧な立ち振る舞い。
有能な父の専属執事。彼は――。
「お嬢様、お久しぶりでございます。旦那様の専属執事のクラウスです」
「く、クラウス。どうして、父様の専属執事である貴方が……?」
また会えたのは嬉しいけれど、嫌な予感がした。
部屋に飾ってある時計の針の音が耳障りに聞こえる。
ざああ、と風で木々が揺らぐのが窓の外から見え、不吉に映った。
頭を上げる彼は目を伏せ言葉を続けた。
「旦那様が事故で亡くなりました」
***
――父が亡くなった。
雷雲が立ちこめ稲妻が近くの大樹に堕ちる中、外の轟々とした嵐よりも室内の陰惨かつ醜い言い争いの方が煩く聞こえる。
父が事故死したことで『誰が伯爵当主を継ぐか』という一点において、親族全員が揉めに揉めているのだ。
唯一喪服姿の私は、後ろに控える専属執事と護衛騎士を引き連れて早々に部屋を出た。
これ以上は伯爵令嬢の仮面を被り続けるのは難しい。
あのまま残っていたら淑女の立ち振る舞いも忘れて、人目も憚らず泣き出していただろう。目尻に涙が浮かぶのを必死で堪え、足早に長い廊下を歩く。
細長いアーチ形の廊下は父が気に入っていて、親族の集会場という形の別荘として買い取ったのだ。
伯爵本家のある屋敷は、父が認めた者しか入れない。
それ故、父の葬儀後の話し合いが、この別荘で行われた。
もっとも話し合い――ではなかったが。
(誰も彼も伯爵家の継承と財産と領土のことばかりで、父様の死を嘆こうとしない……)
「お嬢様、馬車の準備は整っております」
私の隣に着きそうクラウスの声は優しかった。
それだけで気が緩みそうになったが、何とか堪える。
「(まだ、泣いたらダメだ)――っ、ありがとう、クラウス」
「とんでもないことでございます」
「お嬢。万が一、お嬢に無礼な真似をしたら問答無用で切り捨ててもいいですか?」
「だ、ダメよ、ロルフ。半殺し程度にしておきなさい」
「承知しました。では骨を百本ほど折ることにします」
「骨を百……」
「脳筋、いやポンコツはこれだから」
「はははっ、陰湿腹黒執事殿ほどではないよ」
(また始まった)
私の両脇を歩くのは漆黒の燕尾服に身を包んだ儚げ美男子執事のクラウスと、白銀の甲冑を身に纏う護衛騎士のロルフだ。二人とも父の専属執事と護衛騎士だった。
ちなみにクラウスとロルフはとても仲が悪い。顔を合わせれば喧嘩腰で、間に挟まれていた父が私に助けを求めてきたものだ。
(懐かしい……)
二人は私が生まれた時から一緒に暮らしているので、主従という関係よりも家族に近い。それでも表面上、人の目がある場合は主従関係を演じてくれている。
(それにしても二人とも本当に十年以上前から、見た目が全然変わらないわね……)
クラウスとロルフの外見が変わらないのは人外の者で、長寿だからだ。
我がナイトメア家を継ぐ者は総じてスフィラ領を統治下に置き、人族、亜人族、魔族の三種族を相手取らなければならない希有な土地でもある。
それ故、ナイトメア家当主に収まり、莫大な地位と名誉を我が物にしたいと親族は血眼になっていると言うわけだ。
『いいかい、私の可愛い娘。レジーナ。もし万が一、私に何かあったならクラウスとロルフを傍に置きなさい。……時期当主争いに巻き込ませないため王族と形だけの婚約を取り決めているが、もしお前が当主になることを望むのなら――』
父が残してくれた私宛の手紙に書いてあった通り、今は静かに『その時』を待つしかない。いずれにしてもこの領地を治める主人は、この土地に住む土地神の審判によって決定する。
長い廊下の出口が見えた頃。
「レジーナ!」と悲鳴にも似た声によって引き留められる。
「――っ!」
第1章までは毎日更新予定ですが、週3~4になるかもです。
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