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本能寺に開く扉は炎を上げて  作者: 瀬緒 遊
第二部:尾張から駿河へ
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29 離脱

 松平の一隊はその日、十八日の夜に出陣した。


 明けて十九日。この日も朝から蒸し風呂のような暑さだった。


 義元の本陣が沓掛城を出発し、街道沿いにほぼまっすぐ南へ、それからいよいよ西へと廻ったあたりで注進が来た。


「松平党により丸根まるねとりで陥落にございます!敵将佐久間(さくま)大学を討ち取りましたとのこと!」


 勝ち戦の報せにわっと歓声があがる。義元が、ほう……、という顔をする。そしてそれを追うようにしてまた一報が、信長の本陣が善照寺ぜんしょうじ砦に入ったと伝えた。元康が言っていた通り、陥落直後の丸根、鷲津のふたつの砦を奪還だっかんする意図が信長にあるのでは、と諸将が顔を見合わせる。


 義元は考えた。

 松平が全滅するのは別に構わぬ。しかし、わざわざ不要なほど飾り立てて道を来たのも、今川の兵力財力権勢を喧伝するためだった。それを先陣が落とした砦を奪還されて全滅したとあってはその意味が半減してしまう。おや、今川は見掛け倒しか、などと武田や北条に見受けられてはいけない。駿府を守る氏真が頼りないだけに。


 しばらく難しい顔をしていた義元だが、ついに本陣を右に進め、近埼道を少しく上がった地点に陣を張れと下知を出した。


 先発隊が設営に走る。隊長の瀬名氏俊は、倅の菊王丸が誰だかに教えられたと耳に入れてきた、桶狭間というこの土地を検分していてよかったと思った。当初の計画通り、本陣が大高道を回って大高城に入るだけであったら、このあたりには留まる予定ではなかった。


 ちょうどそのあたりは、右手が丘陵に囲まれた狭い盆地、左手は池で、少し離れて北には太子ヶたいしがねの山が見える。


 やがて本隊が陣地に着いたのは昼にはまだ間がある頃だったが、輿こしに乗っている義元までが流れる汗で描いた眉が落ちるほどの暑さだった。暑さも暑さだが、湿度も高かった。近侍は少しでも涼しいようにと風通しの良い日陰を探し、右手の小高い山の頂上のとちの大木の下に急いで幕を張り、義元の床几を据えた。


 そしてそれから一刻ほどして、本陣にまた吉報が入った。前方で織田の二将、佐々政次と千秋季忠が攻撃を仕掛けてきたが返り討ちにし、両将とも討ち取ったとの報告だった。


 そして丸根砦を落とした松平党は、無事に大高城に兵糧を運び入れ、鷲津砦を落とした朝比奈あさひなの一隊とも合流し、守備を固めたという。


 これでもう大高城は、せいぜい二千から三千がやっとの織田勢が総勢で攻めたところで陥落する恐れはなくなった。


 吉報は続けざまに届き、もしやと思った事態は未然、時刻は昼に近く、あとは大高城へ移動するだけである。やれやれと全軍が緊張感をゆるめ、戦勝の祝いにと義元の前でうたいうたわれることになった。幕が張られ、つづみが鳴らされた。食糧と共に酒も出された。


 足軽の末までが携帯の糧を腹に入れ、沸かした湯で喉の渇きをいやした。疲労の上に満腹した兵らがあちこちで眠そうに休んでいる。


 と、遠くから雷鳴が聞こえてきた。風が強くなっている。義元のお傍衆として陣幕の内にいた玄深は、太子ヶ根の山のあたりで、何かがきらりと、二度、三度、光るのを目にした。


「これは雨が来るな」

「真夏みたいな、雷交じりの大雨になるぞ。肌を出して汗を流せばさっぱりするぜ」


 あちこちでよろい具足ぐそくを脱ぎ始める。

 ますます強まる風に、張った幕があおられている。すぐそばにいた菊王丸に、玄深がさりげない口調で言った。


「雨になりますね。お屋形さまに雨具を探して持ってまいります」

「雨具はあちらの兵站へいたんの、いずれかの箱に入れて持ってきているはずです」


 風に吹き飛ばされないよう大きな声で言う菊王丸に、玄深は言った。

「あなたも来ませんか?」


 え?と、菊王丸が一瞬わからぬ顔をした。傘を探しに、一緒に?


 玄深は何か重大な質問をしたような、菊王丸が決断するのを望むような目の色をして菊王丸を見つめたが、それもほんのひと刹那だった。


「いえ……」

 と、玄深は首を振った。たった今の、怖いような、人が違ったような印象を与えた強い目の光が消えて、菊王丸がよく知るあの優しげな笑みを口元に浮かべた。


「いえ、あなたはお屋形様のお傍にいるのですね?」

「はい、もちろんです」


 何を問うのかという顔をしている菊王丸に、一度強く頷いてから玄深は走り出した。そして一度も後ろを振り向かず、見えなくなった。



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