兄貴の彼女が! 酔った勢いで! 俺を誘惑してくる!
兄貴が彼女を連れてきた。
隣の部屋からは賑わう声が聞こえ始め、乾杯の音頭がしたと思ったら、すぐにそれは静まった。
「そー、ちゃん……♪」
よからぬ声が聞こえたと思いドアを見る。
甘い声を出した女性が、俺の部屋のドアを少し開けてこちらを覗いていた。
「……兄貴に怒られますよ」
「克己クンならビール一口でダウンしたよ~」
酒飲めないくせにすぐ飲みたがるのは、兄貴の悪いクセだと思う。
おかげで暇した彼女さんが、こうやって俺の部屋にやって来るんだから……。
たまにやって来てはからかい笑う彼女さんに、俺はほとほと手を焼いていた。
「お姉さんと飲まない?」
「ダメです」
「え~?」
と、言いつつドアを開いて中へやって来る彼女さんに、俺は「お帰り下さい」と兄貴の部屋を指差した。
「ほらほら、お姉さんが誘ってるんだぞ? ぞぞ?」
「ダメです」
「ん~? これでもぉ?」
お姉さんが四つん這いになった。
「ほらほら、女豹のポーズ♡」
「今時女豹のポーズなんて誰も知りませんよ……」
兄貴のブカブカシャツを着ている彼女さんの胸元が際どい事になっている。見てはいけない。危険だ。
「何で目を閉じてるのかなぁ~?」
「お帰り下さいお帰り下さい」
「私はこっくりさんかい」
渓谷、そしてモッツァレラチーズ。
パンを挟んでチーズフォンデュ。
目を開けたらお終いだ。
「ふぅん」
パサッと床から音がした。
「ねぇ?」
吐息が顔にかかった。甘いお酒の香りがする。
「な、何をしてるんですか……!?」
「目を開けて確かみてみてら?」
「だから今時誰も『確かみてみろ』なんて知りませんよ!」
「知ってるじゃん……」
「グッ……!」
目を閉じて悪魔がお帰り下さるのをひたすらに待ち続ける。
在学中、授業中に腹が痛くなったときを思い出す。あの時と同じ構えだ。
スルリと床から音がした。すぐそばでだ。
「た、頼みますから止めて下さい……!!」
「どうして?」
「兄貴が可哀想だ……!」
「……案外真面目なんだ。ちょっと意外」
「今なら何も無かった事にしますから……だから服を着て下さい……!」
ポン、と俺の頭に手が乗せられた。
「私、脱いでないよ?」
「──?」
恐る恐る目を開ける。すると彼女さんはしっかりと服を着ていた。
「えっ? さっきのは?」
「──これ」
床に落ちていたのは、兄貴の服だった。
シャツ、ズボン、何故かパンツも落ちていた。
「えっ? 兄貴は?」
「階段で寝てる。全裸で」
「何故!?」
「酔って寝ると裸族るの、知らない?」
「知らない知らない知りたくない」
俺の知らない兄貴がいる。階段降りないとトイレ行けないんだけど……全裸の兄貴見るの、嫌だなぁ。
「しかもいい感じに酔うと、見境無く女の子触りまくって口説きまくって色欲堕ちするの、知らない?」
「知りたくなかったなぁ……」
「ビール5ccくらいでなるよ」
「兄貴最悪だな」
俺の中の兄貴像が崩れてゆく。
仕事が出来て滅茶苦茶格好いい兄貴が、今階段で「ねーちゃん俺とこっそりホテル行かない?」と、寝言を言っている。クズだ。
「克己クン、可哀想?」
「う、う~ん……」
頭を傾げてしまった。
しかし、これとそれとは話が別だ。
「ね? お姉さんと、しよ?」
「な、何を…………」
「ツイスター」
「今時の若者はツイスターなんて知りませんって!!」
「やらないの?」
「や、や、やぁぁぁぁ…………」
やりたいがやったらやりたくなる。いかんぞそれは!
「やりま~……すん」
「はい?」
「やりません!!」
「チェッ」
危うくやりそうになったが、ギリギリセーフ!
「じゃあ、このツイスターは克己クンの傍に広げておこう」
何処から持ってきたのか、彼女さんがツイスターを広げて階段の傍に置いた。
これじゃあ兄貴が全裸でツイスターをやったみたいじゃないか……!?
「克己クンは裸で女の子とツイスターしようとしてたのかな? フフ」
もしかして、彼女さん何気に兄貴の酒癖に怒ってるのか?
「ほら、こんなモノもあるんだぞぉ?」
「──ゲッ!」
お姉さんがポケットから手錠を取り出し、俺の目の前でゆらゆらと光らせた。
流石に本物ではないと思うが、それなりの物っぽい造りだ。
「こうして~」
またもや階段へ向かい、兄貴を後ろ手で施錠する彼女さん。
「フフフフ、アホだなぁ」
手錠されて全裸でツイスターとか、兄貴がヤバいことになってきている。
「あ、あのー……そろそろ止めておいた方が……」
部屋から頭を出し、俺はお姉さんに止めるよう訴える。
「ま、そろそろ良いかな……」
彼女さんが俺の部屋にやって来て、ベッドに座り酎ハイの缶を開けた。
「あのね、実は私、克己クンの元カノの親友なんだ」
お姉さんの表情が突然変わった。
トーンが下がり、暗い影が差したように、嫌な感じが滲み出てきた。
確かに兄貴が今の彼女さんと付き合い始めたのは、二月前の話だ。
「けどね、克己クンは浮気を繰り返して、最終的には親友を捨てた。私はそれが許せなかった」
俺は恐ろしくて彼女さんと目が合わせられなかった。
兄貴がそんな事をしていただなんて……ショックだ。
「私はあの男と付き合ってはいるけど、キスも何もしていない。手すら繋いでないんだ。全ては復讐の為。でも、それも今日で終わり」
憑きものが取れたかのように、冷たい顔が元の明るさを取り戻した。
「じゃあね」
「……え、あ、はい……」
彼女さんが外へ出て行った。
もう戻らないのだろう。
明日になれば兄貴は、とんでもない状況で起きる。
起きるが…………何故なのか気が付くのだろうか?
それだけが心配だった。
──翌日、兄貴は泣きながら電話をしていた。
「真由美! 俺が悪かったぁ! あの子と手錠ツイスターした事を深く反省している……!」
どうやら、全てを悟った兄貴は、前カノに電話をしてお詫びをしたようだ。
「ゴメン! 許してくれるか!? ほ、ホントか!? バッグ!? 買うよ買うよ!!」
何だかよく分からないが、当人同士が良ければ別にいいや。
「おう! 兄ちゃんはこれから大事なデートだ! 暫く帰らないからヨロシク!」
「くたばれ兄貴」
俺の返事も聞かず、兄貴は家を出ていった。見栄で買った高い車が、爆音を立てて走り出す。
「よ」
「──えっ!?」
兄貴の車の音が遠離ると、彼女さんがひょっこりと家の扉を開けて現れた。
「ど、どうしたんですか!? 兄貴なら車で出掛けましたけど……」
「ああ、親友から聞いたよ。アイツも甘々だなぁ……結局二人は元サヤってわけだ。何だかアホ臭くてしゃあないよ」
彼女さんが靴を脱いだ。
手には重そうな手提げ袋があった。
「あ、あのー……何用でしょうか?」
「ん? ああ、お姉さんと一杯やらないか?」
手提げ袋からワインが。
朝から飲むだなんて、とんでもない人だなぁ……。
「ね? いいよね?」
「え、えー……?」
気にせず上がり込む元彼女さん。俺の部屋に入るなり、タンスを開けてシャツを取り出した。
「何するんですか!?」
「アッチ向いててよ。走ってきたから汗かいちゃった」
咄嗟に目をつむる。布が落ちる音がした。
「いいよ」
元彼女さんが俺のシャツを着ている。ブカブカでモッツァレラがチョモランマだ。
「はい」
手提げ袋からツイスターが出て来た。
俺の部屋にツイスターを広げ満足そうな顔をした。
「ほい」
手提げ袋から手錠が出て来た。
「そい」
元彼女さんが、自分に手錠をした。
「さあどうする?」
ワインボトルを机に置き、お姉さんがツイスターの上にスタンバイする。
「え!? え? えぇ……っと」
ワインボトルのコルクを抜いた。
よく分からないけれど、コルクの匂いを嗅ぐ。
「赤ワイン、頂きます」
口を開けてワインを流し込む。
フランス人が見たら『ファンタスティック!』と言いそうだ。
「する? 致す?」
元彼女さんが手招きをした。
酒が回り、世界が幸せに向かい始めた。
普段はそんなに飲まないが、今日は特別飲みたい気分だ。
「朝から飲むなんて、悪い子♡ おしおきかな?」
『1R』の看板を持ったラウンドガールがタイヤを引きながらグラウンドを周回している。
もう潮干狩りでクジラが炎上する事もないだろう。気兼ねなく良い子は飛行機雲にオシッコをするがいいさ。
「……おにゃまえは?」
「むつみ。平仮名でむつみ」
モッツァレラチーズの渓谷にダイブした辺りで、俺は意識を失った。