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朝色小夜曲  作者: 芦野
7/28

chapter7

このchapterはchapter1~6の続きです。未読の方はぜひそちらを先に読んでいただくよう、お願いします。

1

夏休みが終わり、校内は目前に迫った文化祭に向けて色めき立っている。

わたしのクラスでもそれは例外ではなく、始業式があった日から毎日のように遅くまで、多くの生徒が学校に残って準備に勤しんでいるらしい。まあ、わたしはその多くの生徒の中には入っていないのだけど。


今日は文化祭本番がいよいよ3日後に迫った金曜日。だけど今日もわたしは、授業が終わるといつも通りさっさと教室を出た。

「疲れた……」

朝起きて授業を受けた。ただそれだけなのに、体が重い。

9月になっても照りつける日差しと、まだ体が朝起きるリズムになっていないのが、原因だろう。

朝の番組で気象予報士が言うには、まだ一週間はこの暑さが続くらしい。


「あっつ……」

汗で身体中ベトベトで気持ち悪くて、帰るなりわたしはすぐにシャワーを浴びた。

「ん?」

髪を乾かし終わってリビングに戻ると、携帯がテーブルの上で鳴っていた。

「何?」

「あっ、やっと出た。これから家に行っていい?」

電話をかけてきたのは真央だった。

これからアイスでも食べて、ゆっくりしようと思ってたのに面倒くさい。

「どうしたの急に」

「もうすぐ文化祭も本番だし、セリフ完璧にしたいなあって思って……練習、付き合ってくれない?」

「それって、わたしじゃなきゃダメなの?」

どうして劇に出る人じゃなくて、わたしに頼んでくるんだろう。

「うん。百合じゃないとだめ」

「……どうして?」

「どうしてってそれは……」

真央がそう言ったのと同時にインターホンが鳴った。

「百合の家の前に来ちゃったからかな」


「ごめんねー急に押しかけて」

「まあ、とりあえず入ったら」

まさか、家の前まで来ているとは……まあ、家自体は隣とはいえ、わざわざ来られると無下にするのは心苦しいというか。

「お邪魔しまーす」

ソファーに座りながら、真央は背負っていたリュックから冊子を取り出して差し出してきた。

「……これって台本?」

緑の冊子の表紙には『眠り姫は眠り続けたかった』とタイトルが書かれている。

「うん。じゃあ早速練習始めよ?」

「ええ……」

どんだけやる気なんだ……なんというか、真央の生真面目さには本当に驚かされる。

たかが文化祭のクラスの発表に、ここまで真剣になれるのはすごいと思う。


「……分かったよ」

今さら嫌だって言ってもしょうがないし、何よりこの前看病してもらった恩がある。

「本当?」

「そこまで言うなら付き合う」

「ふふっ、ありがと」

「いいよ別に」

嬉しそうに笑う真央の顔に、思わず胸がときめいてしまった。本番の相手役が誰かは知らないけど、ほんのちょっとだけ羨ましい。


「それでね、私はここから後のシーンをやることになったの」

「後半担当ってこと?」

「うん、そうだよ」

中を読んでみると、前半部分と後半部分がきっちりと分けられていた。真央が言うにはセリフを覚える負担の軽減と、多く人に出番を与えるために、こういう構成になったらしい。

「で、練習相手ってわたしは何をしたらいいの?」

「百合は私が読むのに合わせて、王子様役のセリフを読んで欲しいの」

「はいはい」

「じゃあ、このページの最初からいくね」

「ちょっ、ちょっと待って本当に読むのこれ」

中を確認していくうちに、とんでもないことに気づいた。

これ、恋愛ものじゃん。

「もう、さっきそこまで言うなら付き合うって言ったじゃん」

「……分かったって」

結局根負けしたわたしは、冊子を持ってソファーから立ち上がった。


「うーんやっぱり私、演技とかダメだなあ」

一通り最後まで練習した後、真央はため息をついた。

「そう?」

真央はわたしの棒読みと違って、ちゃんと演技になっていたと思う。

「椎名さんと橘さんが、お姫様はこんなこと考えてるんだよーとか、こんな気持ちでこんなセリフ言ってるんだよーって言ってたことを上手くできないし……どうしたらいいのかなあ」

まあ、クラス発表の演劇にしてはずいぶん本格的だな、とは思ったけど、まさか演技指導までしていたとは……。

もしかしてわたしが思っているよりもずっと、クラス全体が文化祭に向かって、本気で取り組んでいるのかもしれない。


「……そういえば、本番王子役って誰がやるの? やっぱりどうせだったら、その人と話してみたほうがいいんじゃない?」

悩んでいる様子の真央に、わたしはこう聞いてみた。

「王子様役やるのは晴海さんだよ」

「……へえ」

意外、と思ったけど、晴海なら男装似合いそうだし、一応女子だし男子がやるよりもちょうどよさそう。

「でも、私は相手が晴海さんより百合の方が……その気持ちが入るかなって思ったから」

そう言いながら、真央はわたしのことをちらりと見てきた。

「え、どうしてわたしの方が気持ちが入るの?」

「もう、本当百合って……はぁ」

疑問に思ったことをそのまま聞いただけなのに、なぜか真央は呆れた顔をする。

「もう、いいよ。もう一回最初からいくよ」

「はいはい」


「……そろそろ疲れた」

「あっ、もうこんな時間」

「そろそろ帰るの?」

もう19時過ぎだし、そろそろ真央は家に戻るのだろうか。

「百合がよかったら、今日泊めて?」

「え」

「お願い、まだ練習したりないし……ママに許可とってるから」

「まあ、別にいいけど」

「やった! ありがと、実は着替えも持ってきてるんだよね〜」

そう言うと真央はリュックの中から、パジャマとか身の回りのものを取り出し始めた。

……なるほど、やけに大きいリュックはそのためだったのか。

真央の意外とこういうしたたかなところ、正直羨ましい。

わたしと違って誰とでも仲良く出来る秘訣は、案外優しいからだけじゃないこういうところにあるかもしれない。

そんなことを思いながら、その後もしばらくああでもない、こうでもないと思案する真央に付き合った。


「そろそろ終わりにしよ、もう疲れた」

「ごめんね、付き合ってくれてありがとう」

「この前看病してもらったし、今日はそのお礼だから。じゃ、わたしシャワー浴びてくる」

そう言ってわたしはお風呂場に向かった。


「どうしよ」

シャワーを止めて短く息を吐く。一人になった途端に、ずっと抑えこんでいた不安が込み上げてきた。

お母さんとのこと、いい加減結論を出さないといけない。

「……やっぱり諦めるしかないのかな」

かなりぬるめのお湯をまた浴びながら、またため息が出る。

お母さんの元に戻らないということは、お母さんと縁を切るということ。

それはつまり、わたしはお母さんの娘でなくなるということで。

想像しただけで吐き気がする。そんなの絶対に嫌だ。

どちらも選べないのだったらどうするべきか、よく考えろって恭子さんに言われたけど、だったらどうしたらいいんだろう。

「……」

沈んだ気持ちのまま、わたしは髪と身体を乾かしてリビングに戻った。


「お待たせ、真央も入ったら」

「うん、じゃあお風呂借りるね」

わたしと入れ替わりで真央はリビングから出ていく。

「あっつ……」

冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、一気に飲む。

「……ふぅ」

一人でいると、扇風機の音しか聞こえてこない。

いつもだったらこのまま寝てしまうけど、真央が来ているから流石に勝手に寝てしまうのは悪い。

「あ」

そうだ、アイスでも食べよう。この陰鬱な気分も少しは変わるかもしれない。


「ふー」

ソーダ味の棒アイスを食べていると、真央がお風呂から出てきた。

「あーいいなー」

「真央も、食べてもいいよ。何本か買ってあるし」

「え、いいの?」

「いいよ別に」

「じゃ、お言葉に甘えて」

スキップをするような軽い足取りで真央は、アイスを持って戻ってきた。

「よっと」

他に場所もあるのに、真央はなぜかわたしの隣に座ってきた。

「……暑いんだけど」

「もう、いいじゃん。ここがいいの」

真央は少し拗ねたような顔で棒アイスを食べ始める。

「真央は暑くないの?」

「暑いよ。でもアイス食べたらきっと涼しくなるよ」

「……」

そういう問題じゃない気がする。


「そういえば進路指導の紙ってどうするの? まだ出してないの百合だけだって、先生愚痴ってたよ」

そういえばそんなものもあった気がする。

「今、進路とか、それどころじゃない」

「……そっか、そうだよね」

真央はしまったといった顔をする。

「まあ、どうしようもないけど、どうにかする。だから真央は心配しなくていいよ」

「あんまり思い詰めちゃダメだよ。いつでも私とママを頼ってね」

「……何かあったらね」

うなずいてみせると、真央は少しほっとした表情(かお)になった。


2

「ふわぁ……なんだか眠たくなってきちゃった」

そう言いながら、真央はあくびをしている。

「そろそろ寝る?」

「うん」

「上のベッド使っていいよ。わたしここで寝るから」

そう言うと、真央は目をぱちくりさせた。

「ダメだよそんなの、ちゃんとしたところで寝ないと」

「でも、真央が寝る場所ないし」

他に選択肢なんてないと思うんだけど。

「上のベッドで一緒に寝ればいいじゃん」

「……いやいやそれは」

真央にソファーで寝ろって言ってるわけじゃないのに、どうしてそこまで食い下がるのか。

「そもそも上のベッドシングルだし、2人で寝たら狭いし」

「……嫌なの?」

「狭いのがね」

「……」

ムスッとした顔で真央はわたしを見つめてくる。

「……分かったから、その顔やめて」

「ふふっ、やった」

今日はなぜだか真央に、乗せられっぱなしな気がする。


「そういえば、百合」

「何?」

二階に着いたところで、真央が突き当たりの部屋を指差して聞いてきた。

「あの部屋って使ってないの? ……もしかしたら寝具とか置いてない?」

真央は気をつかってくれているらしい。だけど、あの部屋にそういうものは置いてない。

「見てみる? ないと思うけど」

「……いいの?」

「別に見られて困るものないし」

それにどうしてだろう、真央が急に不安そうにしてるのが気になってしまった。


「ただの物置部屋だよ、ここ」

「本当だ、ダンボール箱がいっぱいあるね」

狭い部屋だし、これで十分だろうと思って真央のほうに向き直ると、わたしのほうを見ずに、真央は窓際の棚にゆっくり近づいていった。

「これって」

「ああ、それはプレゼント」

真央はどうやら、この前買ったプレゼントの袋が気になったらしい。

「……誰への?」

冗談めかした風じゃなくて、わたしの反応をじっと確かめているように真央は尋ねてきた。

「気になる?」

「……聞かない方がよかった……よね」

わたしの反応から、あまり触れない方がいいと悟ったのだろう。真央はそそくさと袋を置いてあったところに戻した。

「真央の知らない人のだし、聞いたってしょうがないと思う」

さっきから真央は少し変だ。まるで何かに怯えているように、声がかすれたり震えたりしている。

「しょうがないっていうのは、百合がそう思ってるだけだよ」

「……」


「ねぇ、百合って写真嫌いじゃなかった?」

真央は伏せてある写真立てに気づいたようで、確かめるように尋ねてくる。

「嫌いだよ。でもこの写真を撮ったときは嫌いじゃなかった、それだけのこと。見たいなら別に見てもいいよ」

この写真を撮っていなければ、わたしは写真嫌いになることもなかっただろう。

それぐらい、この写真を撮った後に起きたことは、わたしにとって大きくて、文字通り大きく価値観が変わってしまった。

「……本当に?」

「いいよ。でも、わたしには見せないで」

わたしは目を閉じて深呼吸をする。もしも見てしまったら、わたしはきっと、真央の前で平静を保てなくなってしまう。

「綺麗な人だね。それにとっても大人な人」

呟くように言う真央に、わたしは背を向けた。

「その人へのプレゼントだよそこにあるの。……渡すことはもう出来ないけど」

わざと能天気なぐらい明るい声を出したけど、顔は自分でも全然上手く笑えていないのが分かる。

「自己満足で買ってるだけ。それ以上でもそれ以下でもないし」

目を開いて真央を見る。どうして真央の方が今にも泣きそうな顔をしてるんだろう。

なんだか少しいじわるしたくなって、わたしは真央の頬を両手で引っ張った。

「ひ、ひひゃいよ、どうしたの急に」

「そんな顔よりはこういう顔の方が似合うよ」

頬から手を離して、わたしは笑ってみせる。

「……ねえ」

「いいからほら、行くよ」

まだ何か言いたげな真央を遮って、部屋を出るように促す。

「……うん」

真央にバレないように短く息を吐いて、わたしはゆっくりドアを閉めた。


「……やっぱり一緒に寝るには狭いって」

「大丈夫だよ、詰めればスペースあるって」

「はいはい」

寝れないことはないけど、かなり圧迫感を感じる。真央の家のベッドと比べると、ここはものすごく狭い。

「じゃあ、電気消すよ」

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

電気を消して目を閉じるとすぐ、眠気に体が飲み込まれそうになる。

真央の練習に付き合ったのもあるけど、さっきのことでどっと疲れてしまったんだろう。


「……ん」

まどろみの中にいたわたしを、何か暖かくて柔らかい感覚が引き戻した。

「……何してるの」

「さっきのおかえし」

「なんか暑苦しいと思ったら……」

何かと思ったら、真央に背後から抱きしめられていた。

「いいじゃん。この前百合だって私のこと随分堪能してたもん」

「……あれは楽しんでたというか、休憩してただけ」

背中に押しつけられている柔らかいものが、気になって仕方ないし、こんなに密着されると暑苦しい。

「だったら私にだって、こうする権利あるでしょ?」

「……もうちょっと他の方法にしてよ」

「……」

黙ったまま真央はわたしのお腹に手を回してきた。

「ちょっと」

「ねえ、百合」

真央が耳元で囁いてきた。

「何?」

「ごめんね、さっきは」

「どうして謝るの」

真央は謝るようなこと、していないのに。

「……だって百合怒ったでしょ? 聞かれたくないだろうなってこと、私聞いちゃったし」

「怒ってないよ。聞かれて怒るようなことがあるんだったら、そもそも部屋の中に入れないし」

「本当に?」

「うん」

「……そっか」

真央は安心したのか、さっきよりわたしを抱きしめる力が少し強くなった。


「私ね、すっごく辛いことがあったんだ」

そうして抱きしめられたまましばらくした後で、真央はぽつりとこう言った。

「ふとしたときに思い出して、こんなんじゃダメだって忘れようと努力してたの」

「……」

どうしたの? って聞いてしまうのは簡単だけど、どこか思い詰めたような声に、わたしはそうする気になれなかった。

「でもね、私思ったんだ。どうしようもなく悲しくて辛いことだったら、乗り越えなくてもいいって。無理に乗り越えようとしなくてもいつかきっと時間が解決してくれるって」

無理に乗り越えなくていい、時間が解決してくれる、か。

「……いいこと言うね」

「そう?」

「うん、本当に。ありがとう楽になった」

なんだろう、急に気が抜けたというか、張り詰めていたものが、やっと緩まったというか。ほっとしたら急に眠気が襲ってきた。

「ねえ、百合。朝までこうしてていい?」

「……いいよ」

「離れちゃダメだからね」

「うん」

背中に真央を感じる。やっぱり少し暑苦しいけど、それ以上に心地よくて、小さいころお母さんに抱っこされていたときのこと思い出して、なんだか安らぐというか。

目を閉じるとすぐに、わたしは眠りに落ちていった。


「ん……」

「あっ、おはよ」

「……なんでニヤニヤしてるの」

「百合の寝顔を、ずっと眺めてた」

「なにそれ」

笑う真央につられて、わたしも思わず笑ってしまった。

「私、やっぱり百合の寝顔が一番好き。毎日見てたいな、これからもずっと」

「はいはい」

冗談めかした真央の言葉に苦笑を返して、わたしは下に降りていった。


「ねえ百合、ご飯とかパンってないの?」

「ないよ、料理しないし。炊飯器とかそもそも買ってない」

「え〜」

真央は信じられないといった顔をする。

「冷蔵庫の中にも材料になるようなものないよ」

「……本当だ」

中を見た真央は呆然としていた。

「言ったでしょ。ふわぁ……」

ソファーの上で背伸びをしていると、真央が隣に座ってきた。

「じゃあ、うちで朝ごはん食べる?」

「……うーん」

そういえば今日は土曜日だし、恭子さんが授業に来るんだった。

「何か予定あるの?」

「まあ、朝食べるぐらいの時間はあると思うし、いいけど」

「そっか、じゃあ早く作らなきゃね、いこ?」

「うん」

身支度を整えてから、わたし達は二人で真央の家に向かった。


「パンとご飯どっちがいい?」

「どっちでもいいよ」

「あっ、じゃああれ作ろっかな」

何か思いついたようで、真央は急に上機嫌になる。

することもないのでソファーの背に顎を乗せて、わたしは真央の様子を眺めていた。

料理をしているときの真央はいつも楽しそうで、なんだか輝いて見える。

やっぱりわたしには、料理楽しさを見出すことは出来ないけど、真央が料理をしているのを眺めるのは結構いいな、と思った。


「お待たせ、バゲットはなかったけどフレンチトースト作ってみたよ」

「こういうのって、真琴さんから教えてもらってるの?」

食パンで作られたフレンチトーストと、サラダが並べられた皿を、わたしはまじまじと見る。

「一緒に作ってたら自然と覚えるかなー、あとはレシピを見て作ってみてるだけで、結構色々出来るようになるよ」

「そういうものなんだ」

「でも、フレンチトーストは簡単だよ。レシピ知りたい?」

「いや、聞いても自分じゃ作らないだろうし」

やっぱり自分で作るよりは、外で食べるか誰かに作ってもらう。そっちの方が楽だし。


「ふう……じゃあそろそろ帰ろっかな」

食後の紅茶を飲み終えたところで、ちょうどいい時間になった。

「もう帰っちゃうの?」

「サボると後が大変だし」

そんな寂そうな顔をされても、さすがにこれ以上長居はできない。

「じゃあ」

「う……うん。またね」

わざわざ真央は外まで見送りに来てくれた。そこまでされると、こっちまでなんだか少ししんみりしてしまった。


家に戻ってすぐ恭子さんがやってきて、いつものように授業を受けさせられた。

「……やっと終わった」

冷蔵庫から水を取り出して、ほとんど一気に流し込む。

「あら?」

「どうかしたんですか」

リビングで恭子さんが声をあげる。まだ帰ってなかったのか、と思いつつリビングに戻る。

「このシュシュ、誰の?」

「ああ、それ多分真央のです」

シュシュなんてわたしは持ってないから、昨日真央が忘れていったのだろう。

「へえ……なるほど」

「なるほどって何がですか」

「いいえ。何でもないわ」

不敵な笑みを浮かべながら、恭子さんは帰っていった。


3

「……どうしよっかな」

文化祭の当日、いつも通り学校に来たのはいいけど、わたしは時間を持て余していた。

校内はどこも人が多くてうんざりする。

どこか涼しくて時間を潰せる場所はないのか、そう思いながら校内を歩いていた。

「おーい!」

「?」

大声に驚いて振り返ると、晴海が手を振りながらこっちに駆け寄ってくる。

「何か用?」

「いやいやちょうどキミを探しててさ」

「わたしを?」

「そうそう、今日ちゃんと学校来てるかなーって」

「?」

どういうことだろうか。

「じゃ、よろしく」

「何が?」

「えへへっ、後で分かるよ」

ぺろっと舌を出して笑うと、晴海は廊下をすごいスピードで走って行った。

「……どういうことだったんだろ」

何か企んでそうな晴海の態度が気になりながらも、わたしは再び歩き始めた。


「あっつい……」

自販機で買った水を飲みながら日陰のベンチで佇んでいると、正面から目立つ生徒がこっちに近づいてくる。

「あら、奇遇ですね。文化祭楽しんでますか?」

「……生徒会長なら、どこかクーラーが効いた空き教室知りません?」

「どうでしょう、今日はどこも何かしらで使われてると思います」

苦笑しながら椿原はわたしの隣に座ってきた。

「……ちょうどいいし、この前の返事、今していいですか」

椿原がこうしてやってきたし、手間が省けた。

「ええ」

椿原はかすかに目を伏せて頷く。

「なんか、わたしにはメイドとして働いてみるっていうのはイメージ出来なかったかな、ごめんなさい」

椿原から提示された条件は正直、今まで労働というものと、かかわり合いにならずにきたわたしにでも分かるほど、破格なものだった。

だけど、流石に自分が誰かに仕える立場に向いてないことも分かっていたし、それにまだわたしには解決しなければいけないことがある。

「やっぱり、そうですよね」

椿原はそう言うと寂しそうに笑った。


「ふぅ……」

座ったまま軽く体を伸ばす。ちょうどそのとき、椿原がおもむろに立ち上がった。

「百合さん。これから少し付き合って貰えますか? せっかくの文化祭なので、一緒に見て回ってみたいです」

「わたしと?」

「ええ。貴女と一緒に見て回りたいです。……嫌ですか?」

「別に嫌じゃないけど……」

「じゃあ、行きましょう?」

椿原は微笑みを浮かべながらわたしの手を掴んで、腕を組んできた。

「……どうして腕を」

「ふふっ、いいじゃないですか」

困惑しているわたしに構わず、校舎の方に椿原は歩き始めた。


「まずは、一通り見て回りましょう」

「それは別にいいけど……」

さっきから周りの生徒達がジロジロとこっちを見て、何か小声で話している。

「気になりますか?」

「そりゃ……まあ」

これだけ視線を向けられて、気にならない方がどうかと思う。

「まあ、わたくしと貴女がこうやって並んで歩いていると、目立つのも仕方ないでしょうね」

そう言って可笑しそうに椿原は笑った。

「……それは貴女が目立ってるからでしょ」

「ふふっ、そうかもしれませんね」

否定も肯定もせず、椿原は視線を前に戻す。

「今年は教室を使って店や、アトラクションを作るクラスが多いみたいですよ」

「へえ」

「では一年生の方から見ていきましょう」


「今年の一年生はずいぶんと意欲的でしたね。展示制作、そして喫茶店や迷路などありふれたものでしたが、しっかり準備されていて完成度が高かったです」

椿原に連れ回されて、結局一年生の教室を全部回らされて疲れた。

「……まさかこのまま全部回るつもり?」

「ええ、生徒会長として全体を見ることはとても重要なことですから。

といっても、体育館で行われている劇や、外で行われているライブは残念ながら見に行く時間はなさそうですけどね」

「……」

「ふふっ、意外って顔してますね」

「まあ、本当に意外だなーって」

椿原はわたしと同じで、行事とか面倒くさがりそうだと思ってたけど、どうやら違うらしい。

「……わたくしが生徒会長としてかかわる最後の行事ですから、可能な限り見ておきたいんです」

それに、と椿原はわたしの目を見て、こう続ける。

「貴女と一緒にこうしていると、とても楽しいんです」

「……え?」

「冗談で言ってるのではなく、本心ですよ」

そう言うとふっ、と椿原は笑った。

「……それはどうも」

「ふふっ、そんなに照れなくてもいいんですよ」

「別に照れてない。で、二年生の方も行くんでしょ?」

「はい、行きましょう」

椿原の後をついてわたしも二年生の教室に向かった。


「……さて、これで一通り全て見ましたね」

「一年生よりもずいぶん数が少なかった気がする」

「ええ、今年の二年生はクラス全体で何かをすると言うよりも、個人や少人数のグループでそれぞれ活動しているのが多いそうです」

「詳しいんですね」

「そうでもないですよ」


「あっ、生徒会長お疲れ様です」

「キャー! 会長さんだ!」

「皆さん文化祭、楽しんでますか」

「はい! とっても」

「ウチらも楽しんでます」

「それはよかった、皆さんも文化祭楽しんで下さいね」

ときおり声をかけてくる生徒達に、笑顔を振りまいていく椿原を正直すごいと思った。わたしはあんなに愛想よく絶対できない。

「次はどうしましょうか」

「うーん」

どうしようか、と言われても正直どこで何が行われているのか全く知らないし困る。

「別にわたしはどこでもいいですけど……」

「そうですか……でしたら、百合さんのクラスの劇を観に体育館に行きましょう。確かあと30分ほどで始まると思うので」

「まあ、別にいいけど」

劇の内容を知っているから、興味はなかったけど、せっかくだし真央のお姫様姿でも拝みに行こう。

椿原と体育館に向かっている途中で、廊下の向こうから慌てた様子の真央がこっちに走ってきた。


「……はぁ、はぁ……やっと、見つけた」

「どうしたの?」

「百合……ちょっと来て、助けて欲しいの」

真央はただならぬ雰囲気でわたしの手を握ってくる。

「助けるって何を?」

「実はね、さっき急に晴海さんが腹痛で倒れちゃって、誰かに王子様役を頼まなきゃいけなくなっちゃって……」

「は?」

さっきの晴海の顔が頭に浮かんでくるのと同時に、猛烈に嫌な予感がする。

「お願い! 百合にしか頼めないの」

「えぇ……そんなこと言わたって」

「わたくしも、王子様を演じる百合さんが観てみたいです」

「えっ」

何を突然言い出すんだこの生徒会長様は。

「桜井さんがそこまで頼んでいらっしゃるんですから、ここは一肌脱ぎましょう。ね?」

困惑するわたしが面白いのか、くすくす笑いながら椿原はこう言ってきた。

「そんな他人事だからってそんな簡単に」

「だって……他に頼める人いないし」

「ちょっと、やめてよそんな顔」

今にも泣きだしそうな顔をする真央に向かって、わたしは嫌だと言えなくなってしまった。

「…………分かったよもう、やればいいんでしょ」

「本当!? じゃ、急いで!」

「分かったから引っ張らないでよもう」

真央に手を引っ張られながら、わたしは思わずため息をついた。


「あのバスケバカ……絶対許さない」

体育館の裏に連れてこられたわたしは、深いため息をついていた。

多分晴海(アイツ)は真央からわたしが練習相手になったことを聞いて、面白半分で仮病を使ってこの役回りをわたしに押しつけたのだろう。

「あの……本当に出てくれるの?」

椅子に座って台本を読みながら文句を言ってると、橘さんが心配そうな顔をして近づいてきた。

「だって他にいないんでしょ?」

「うん。……ごめんね、急にこんなこと頼んじゃって」

「別に橘さんが悪いわけじゃないし、謝らなくていい」

「百合、衣装に着替えにいこ」

「分かった」

真央に呼ばれて一緒に更衣室に向かう。


「……」

やっぱり、役とはいえ男装するのは抵抗がある。しかも、白のタキシードなんてベタで恥ずかしすぎる。

「百合、着替えた?」

「うん」

わたしが返事するのと同時に真央が中に入ってくる。

「うわぁ……百合、かっこいい!」

「やめてよ恥ずかしい……」

「まあでも、本当すごいよね」

「いやほんと、誰が作ったのそれ」

真央の衣装はまさかのウエディングドレス。

いや、脚本の内容からすると、むしろウエディングドレスを着ているのが自然なんだけど、こんなの一体誰がどこで調達してきたんだろうか。


「あ、あのちょっといいですか」

「どうぞ」

ノックと共に外からした声に真央が返事をする。

「あ、あの、その……朝倉さん、衣装のサイズは大丈夫ですか……?」

入ってきたのは黒縁眼鏡の女子生徒だった。名前は……確か椎名さんだったっけ。

「ちょっと大きいけど、まあ大丈夫」

「あっ……それなら良かったです。あと、ヘアメイクの方も急いでするので、ちょっと鏡の前に座っててもらっていいですか?」

「うん」

「桜井さんは外に準備してあるので、そっちにお願いします」

「うん分かった」


「ふぅ……なんとかなりそう?」

体育館の外に一度出て、わたしは真央とセリフの見直しをしていた。

「多分」

練習に付き合わされたせいか、内容は頭に入ってたし、なんとかなりそうだ。

「ずいぶん余裕だね」

「……そりゃ、あれだけ付き合わされたんだし、でもセリフ飛ばすかもしれないし、助けてよね」

「うーん……私も緊張するとどうなっちゃうか分からないし」

不安そうな真央を見て、わたしもなんだか緊張してきた。

「桜井さん、百合ちゃん。ごめんそろそろ本番始まるから、待機しててー」

「あっそろそろ時間みたい、戻ろ」

「うん」

橘さんが呼びに来たので、わたしと真央は体育館の裏に戻った。

「はーいじゃあ次のクラス準備してー!」

国語を担当している妙齢の女教師の声で、わたしたちは一斉に舞台袖に向かってゆく。


「ふぅ……いよいよ始まるね」

舞台上を忙しなくクラスメイト達が移動しながら、舞台上に大道具を運んでいる。

「そうだね」

「ねえ、百合。本番前に一つだけ聞いていい?」

少し緊張した様子で、真央が話しかけてきた。

「何?」

「どうして突然だったのに引き受けてくれたの?」

「……別にやりたかった訳じゃないよ。ただ、断ったって他に出来る人いないだろうし」

それに、嫌だって言ったら本気で真央、泣きそうだったし。

真央の泣き顔を見せられるよりは、劇に出る方がマシだ。

「そういえば、晴海にわたしと練習したってこと、言ったんでしょ?」

「うん。そうだけど」

「はぁ……やっぱりね」

予想通りの答えに思わずため息が漏れた。

「どうかしたの?」

「ううん、別に」

不思議そうな顔をする真央から視線を外して、わたしは軽く背筋を伸ばす。

「……こんなこと、言ったら晴海さんに悪いと思うんだけど、私、こうやって百合と一緒に高校生最後の文化祭に参加出来て、すっごく今嬉しいよ」

「……え」

真央らしくない言葉に、わたしはびっくりした。

「……ふふっ、なんだか緊張してきちゃった、手握っていい?」

恥ずかしそうに微笑んで、真央はわたしの手を握ってくる。

「……まだ何も言ってないけど」

「いいでしょ?」

「はいはい」

今の真央はきっと嫌だって言っても手を離さない、そんな気がするし。

それに、わたしもなんだか真央とこうしていたい気分だった。


「そろそろ出番だね」

真央の表情がだんだんと緊張でこわばっていく。

「手、震えてるけど大丈夫?」

「大丈夫じゃない……けど、百合と一緒なら乗り越えられると思う」

「大げさ、それにわたしが出るのはほとんどラストのシーンだけでしょ」

「そうだけど、そうじゃなくて。百合がいてくれるってだけで、心強いってこと」

「はいはい。ちゃんと見てるから頑張って」

握っていた手を離して、真央の肩を軽く叩く。

「大丈夫、真央なら絶対大丈夫だよ」

「うん、頑張って来るから。……ちゃんと迎えに来てよね」

わたしが頷くと、真央の表情がようやくほぐれた。

少しは緊張がとけたのかな、そうだといいけど。

そんなことを思っていると、ちょうど劇の前半が終わったようだ。前半のステージが暗転して、場面転換のために幕が一度下ろされる。

「ふぅ……」

頭の中でもう一度セリフを確認して、わたしは大きく息を吐いた。


「はぁ……」

舞台袖で最後のセリフをもう一度頭に入れ直す。なんとかここまでのシーンは大きく失敗することはなかった。

でも、ここから先のシーンは今まで以上に間違いが許されなさそうだし、気を引き締めないといけない。


「こんな国、私出ていく!」

いよいよ劇も佳境に入ってゆく。眠りから覚めたものの、自分を救った王子ではなく、別の国の王子と政略結婚させられそうになるというシーンで。

暗転の後に、わたしの出番だ。

「じゃ、そろそろ出番だよね、頑張って!」

小さくガッツポーズをする橘さんに頷き返して、わたしは指定された場所に移動した。


「い、行きましょう」

「うん」

舞台が暗転したのと同時に、わたしは椎名さんに先導されて舞台の上に出た。そのままダンボールでできた棺の中に寝るように言われる。

「よっと」

「これも忘れないで下さいね」

「ありがと」

棺と同じくダンボールでできた短剣を受け取ると、蓋が閉じられる。

「……」

ここにきて流石にわたしも少し緊張してきた。気持ちを落ち着かせるために、胸に手を当てる。


「ああ、私を助けた愛しき王子はもう、この世にはいないのですね……」

真央のセリフが始まった。

腹心の部下に裏切られ、王子は命を落としたと眠り姫には伝えられている。のだが、実は王子は追っ手から逃れるために仮死状態で棺に納められていた、というのがこの劇のストーリーだ。

「どうして……一体どうしてこんなことに……」

それにしても迫力があるというかなんというか。ずいぶんと真央は気持ちが入っている。

そんなことを思いながら、わたしは自分のセリフを言うタイミングを待っていた。

棺の蓋が開けられ、眠り姫のセリフが続く。

「せめて私も一緒に……」

眠り姫は棺に本当に王子が納められていることを確認して絶望し、自らも王子が手にしていた短剣で命を絶とうとする。

その直前で仮死状態から目覚め、姫をギリギリのところで止めるという流れだったはず。

「すぐそちらに向かいます」

きた、このタイミングだ。

「……姫!」

起き上がりながら腕を掴む。

「お、王子……どうして」

「……危ないところでした。姫、もう僕は大丈夫です」

「ご無事でよかった……でも、もう……」

「いいえ、姫」

姫の不安を振り払うために、精一杯胸を張ってみせる。

「僕はどんなことしても貴方を守ります。そのためなら何をしたって構わない。だから、笑って僕についてきて下さい」

「……はい」

姫をそっと抱きとめ、見つめ合う。

「──これからも二人には様々な困難が降りかかるでしょう。しかし、どんな困難もきっと固く結ばれた愛があれば乗り越えることが出来るでしょう」

ナレーション役のクラスメイトの語りが終わって……。


「……ふぅ」

これであとは幕が降りるのを待てば終わりだ。

安堵のため息をついたところで、ふとわたしは距離の近さが気になった。

「……もうちょっと離れたら?」

小声で真央に離れるように言う。しかし真央は離れるどころかどんどん顔を近づけてきた。

まだ役の気持ちが抜けていないのだろう。それぐらい真央の入り込みはすごかった。だけど、このまま近づいたら本当に観客の目の前でキスをしてしまうことになる。

「ちょっと本当に……近いって」

あと数センチで唇と唇が触れそうになるところで、ようやく舞台の幕が下ろされた。

幕が降りてからすぐに、真央から体を離す。

拍手とざわめきが舞台袖に引っ込んでからも聞こえてくる どうやら劇は上手くいったようだ。

「じゃ、着替えてくる」

「あっ……うん、お疲れ様」

一瞬不満そうな顔をした真央を置いて、わたしは急いで服を着替えに向かった。


「はぁ……疲れた」

制服に戻って、体育館の外で風に当たっていると、椎名さんが小走りでやってきた。

「あ、あのその、特に最後! すっごくよかったです! まるで本物の王子様とお姫様がそこにいるみたいでした!」

「……あ、ありがとう」

というか、どうして椎名さんはそんなに鼻息を荒くしているんだろう。異様なテンションの高さに困惑していた。

「お疲れ様、今日急遽だったのにセリフ完璧で、本当にすごかった。百合ちゃんって本当にすごいんだね」

橘さんも、そう言ってねぎらってくれた。

「真央の練習に付き合わされたし……それにそもそもセリフが少なかったからなんとかなっただけ。じゃ、わたし涼しい場所探してくるから」


体育館の近くは外にいてもどうしてか暑く感じる。ひとまず校舎の方にわたしは戻ることにした。

自動販売機でペットボトルの水と、紙パックのココアを買っていると、携帯が鳴り始める。

「もしもし」

「あ、百合、今日終わったら二人でどこか晩ご飯食べに行こうよ」

「……真央はいいの? クラスの打ち上げとかあるんじゃない」

「ううん。うちのクラス全体ではないよ。それに、わたしは百合と二人で行きたいなあって」

「ふうん」

まあ、別にいいか。

「家から近いとこだったらいいよ」

「本当? じゃあ終わってから急いで帰らずに待っててね」

「はいはい」

電話を切って、日陰で水を飲む。

「ふぅ……」

吹き抜けた風がわたしの髪を揺らした。


4

そのあとわたしは終わりの時間が来るまで、日陰のベンチでぼんやりしていた。

校内放送があってから体育館に集められて、生徒会長からの終わりの挨拶を聞いて解散になった。

片付けは明日の午前中を使ってやることになっているけど、今日中に学校に残って片付けをする生徒も多い。真央も展示制作の方の片付けに行くと、メールで連絡があった。


「お待たせー」

駅の近くのコンビニで一時間ほど待たされて、ようやく片付けを終えた真央とようやく合流できた。

「遅い」

「ごめんごめん。じゃ、帰ろ」

夕方の混む時間帯より遅くなったからか、電車はかなり空いていた。

「それで、どこ行くの?」

「家の近くがいいんだよね」

「……あんまり歩きたくない、疲れたし」

「うーん、じゃあファミレスとかかな、ほらあそこの駅の」

「あーうんいいんじゃない」

家の最寄り駅のファミレスなら近くて都合がいい。


「ねえ、百合」

「ん?」

「さっきの私と今の私の違い、気づかない?」

「違い……?」

急にそんなこと言われても、真央は真央だし。

「もう、これだよこれ」

おさげにしている髪を結んでいるピンクのリボンを真央は指さした。

「ああ、この前の。そういえばたしかに、それじゃなかった気がする」

「気がするじゃなくて、そうなの。こうやって使うの今日が初めてだし」

「そうなんだ」

「百合がに選んでくれたものだから、何だかもったいなくて使えなかったんだけど……今日は気合い入れようと思って」

「ふーん」

そんな会話をしているうちに、わたしたちは目的地に着いた。


「はい」

「ありがと」

注文を終えて落ち着いたところで、真央がドリンクバーから戻ってきた。

「そういえば、百合とここのファミレスに来るの久々な気がする」

「そうだっけ」

「前に来たのは多分去年の冬ぐらいかな、テスト前に勉強会したような気がする」

「ああ」

そういえばそんなこともあった気がする。

「なんかそんなに前のことじゃないのに、ずっと前のことみたいな気がしちゃった」

少し寂しそうな顔で真央は続ける。

「中学校を卒業して、もう半年したら高校も卒業かあって思うとあっという間だったよね」

「うん」

ジュースを飲みながら、相槌をうつ。


「お待たせしました、マルゲリータとミートドリアです」

運ばれてきたピザを切っているときに、わたしは気づいた。

「どうかしたの。手、震えてない?」

スプーンを持つ真央の手が、まるで何かに緊張しているみたいに震えている。

「え? いやなんでもないよ」

「ふーん、ならいいけど」

まさかわたしといて緊張してるわけじゃないだろうし、きっと真央も疲れているんだろう。


「ティラミス頼むけど、真央は?」

わたしはメニューを見ながら、真央に尋ねる。

「今日はいいかな」

「……熱でもあるんじゃないの?」

思わずわたしはメニューから視線を外して真央を見た。

「もう、ないって。……そういう気分じゃないだけ」

「そう」

頷きながらも、わたしは少し心配になっていた。あの真央がデザートを頼まないとは。

「はぁ……」

それどころか、物憂げな顔でため息をついたり、さっきからなぜか落ち着かない様子だ。

「そろそろ帰る?」

ティラミスを食べたあとしばらくしてから、わたしは真央に聞いてみた。

「うん」

そう言って真央は頷いたけど、相変わらず浮かない顔をしていた。


ファミレスを出て、家に帰っている途中も真央は少し変だった。いつもだったらわたしの方を見て、何か話しかけて来るのに、じっと前を見て黙っている。

何か考えごとでもしてるのだろうか。

「あっ……そそそうだ百合、ちょっと公園寄ろうよ」

「どうして?」

なんでまた急に公園なんか。

「えっと、その、ちょっと休憩したいなあって」

「……なんかさっきから変だよ?」

「そそそんなことないって……ははは」

明らかに様子がおかしいし、本当に大丈夫だろうか。

「……まあ、別にいいけど」


公園の入口に近い木陰にあるベンチにわたしたちは座った。もう夜だからか、昼間ほどではないけど、やっぱりまだ暑い。

「どうかした?」

「ううん、なんでもない」

制服のリボンを外して扇子で扇いでいると、視線を感じたから聞いてみても、目を逸らしてくる。

「……」

やっぱり変だ。いつもの真央だったら、もっと肩が触れるぐらいにくっついてくるのに、今日は少し離れたところに座ってるし。

「……んんっ」

しきりに咳払いをしたり、顔を手で扇いだり、顔はなんだか赤くて、熱でもありそうに見える。

「そろそろ帰ろ──」

「ねえ、百合。大事な話があるの。聞いてくれる?」

「?」

ベンチから立ち上がったわたしを制するような強い意志がこもった声で、真央に呼び止められた。


「ちょっと長くなっちゃうかもしれないけど、いい?」

「どうしたの」

わたしが座り直したところで、真央は大きく深呼吸をした。

「何から話せばいいのか分からないくらい、伝えたいことがあるけど、頑張って整理して言うから最後まで聞いてね」

「う、うん」

そんなにかしこまってどうしたんだろう。


「私、小さい頃から憧れてる人がいるの」

真央は目を閉じて、砂浜に流れ着いた貝殻を一つ一つ拾い上げていくように、ゆっくりと語りかけてきた。

「その人はいつもママの後ろに隠れてた私を連れ出してくれて、新しい景色を見せてくれたの。どんなことだって上手で、本当に憧れてたんだ」

わたしは何も言わずに、真央の次の言葉を待っていた。

「小学生になって、周りに今まで知らなかった人が増えても、逃げ出さずに済んだのはきっと、その人がすぐそばにいてくれたからだと思うの。でも、ある日学校に行ったらその人が急に転校したって聞かされて、とってもショックだった」

真央はゆっくりと、閉じていた目を開いてわたしをじっと見つめてきた。

「小さい頃からずっと一緒で、これからもずっとそうだって勝手に思ってたんだけど、そうじゃなかった。どうして突然いなくなっちゃったんだろうって」

瞬きをして、真央は微かに笑う。


「今になってみれば、私が思ってたよりも当たり前で、単純な理由だったって分かったんだけどね。そのときはただただ悲しかったの」

真央は握りしめていた手を開いて、自分の胸元をそっと押さえた。

「でも、中学生になってから、その人は戻ってきてくれた。全然変わってなくて驚いたことと、私のことをちゃんと覚えていてくれたことを昨日のことみたいに覚えてる」

「……」


その人って、もしかして……。そう自覚した瞬間、自分の頬が熱くなるのが分かった。

「それから色々あったけど、高校を選ぶってなったとき、迷わず一緒のところにしようって思った。学校の先生には無理だろう、って言われたけど、何とか同じ高校に入ることが出来てすっごく嬉しかった。私でも頑張れば出来るんだなって」

そう言うと、真央はゆっくりベンチから立ち上がってわたしの正面に立った。

「……最初はただ本当に憧れてただけだった。だけど、一緒にいるうちに、その人への思いが自分でも気がつかないうちに変わってたことに、気づいたの」


風に揺らされて、ざわざわと木が音をたてている。

「もしも、その思いを伝えてしまったら今までみたいに顔を合わせることが出来ないって、考えるとね、どうしようもなく怖かった。だったら今まで通りでいい。心の底から本当にそう思ってたけど、それじゃダメなの」

今にも泣き出しそうな顔で懸命に、絞り出すように、真央はゆっくりと言葉を紡いでいく。


「このまま伝えずにいたらきっとまたその人は、何も言わずに遠くに行っちゃう、そんな気がしちゃうの」

「……真央」

「その人はとっても鈍感だから……ちゃんと言葉にして言うね」



「わがままかもしれないけど、これからもずっと百合の隣にいたい。だから、私を百合の一番大切な人にして下さい」

真央の表情や声、全てからその真剣さが伝わってくる。

一番大切な人、という()()に面と向かって言うにはあまりにも重い言葉だ。

「……そっか、そうだったんだ」

真央が本気だってことは、わざわざ念を押さなくても分かる。

「返事は今じゃなくていいの。ちゃんと考えてから……私待ってる」

わたしの答えを待たずに、真央は走り去っていってしまった。



「……」

ソファーの上で、わたしは色々なことを考えていた。

これまでのこと、これからのこと。

お母さんにわたしの気持ちをどうやって伝えようか、そして真央の思いにどう答えるか。

どっちも、わたしの答えは決まっている。問題はどういう言葉で伝えたらいいのか、だった。

どうしようか考えていると、いつもは長いはずの夜があっという間に過ぎていって、いつの間にか朝になっていた。


「……よし」

空が白みはじめた頃、わたしはソファーから立ち上がった。

ゆっくりシャワーを浴びて、念入りに身支度を整える。

そして、最後にオレンジのヘアピンをつける。そうすると、なぜだか不思議と身が引き締まる感じがした。

「ふぅ……」

携帯を開いて、決して今まで自分からかけることのなかった、お母さんに電話をかける。

「……今、大丈夫ですか」

「ええ」

「今日、私と会って貰えませんか、時間はいつでもいいので」

少し沈黙があってからお母さんはこう答えた。

「……いいでしょう、今から車を迎えに行かせます。乗って来なさい」

「ありがとうございます」

わたしの言葉に返事はなく、そのまま電話は切られた。

「あとは……」

荷物を持って家を出る。そして、そのまま真央の家のインターホンを押した。

「はーい……あれっ百合ちゃんどうしたの?」

「真央を呼んできて貰えますか」

出てきた真琴さんは、わたしの言葉から何かを察したのだろう。

「分かった、すぐ呼んでくる」

そう言って真琴さんの足音が聞こえた後すぐに、真央の声が聞こえてきた。

「……どうしたの?」

「急にごめん。一緒に行って欲しい場所があるの、準備してきてくれる?」

真央はそれ以上何も言わずに、しばらくしてから緊張した面持ちで家から出てきた。

「一緒に来て、お母さんにちゃんと話してきたいから」

真央は戸惑った顔をする。

「えっ? お母さんって百合のお母さん?」

「そう。真央に話したでしょ、お母さんとわたしのこと。そのことについて、今から話すから」

「……いいけど、私も一緒に行っていいの?」

「もちろん。だって真央もいないとダメだから」

「……うん、分かった」

真央はそう言ってからもずっと、落ち着かない様子だった。


ちょうどそのとき、車が家の前に止まった。

「乗るよ」

「……うん」

真央は緊張と不安が混ざった複雑な表情で、わたしのあとに車に乗り込んだ。

「お母さんのところに向かってください」

この前と同じ運転手に、そう伝える。

「かしこまりました」

運転手の返事と同時に、車がゆっくりと走り出す。


「……」

もし、お母さんが許してくれなくても、わたしは真央と一緒にいたい。

改めて決心を固めて、わたしは窓の外を見る。

雲の切れ間から青空と微かに虹が見えていた。


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