chapter5
この作品はchapter1-4の続きとなっています。未読の方はぜひchapter1から読んでいただくことおすすめします。
1
8月4日。この日はわたしにとって特別な日だ。
起きてからすぐにシャワーを浴びる。
「ふう」
体を拭いてから髪をしっかりと乾かすと、まだ少しだけ緩んでいた気持ちが、ぎゅっと引きしまった。
最後にもう一度顔を水で洗うと、微かに残っていた眠気もどこかに消えていく。
髪を念入りにとかしたあと、前髪を2本のヘアピンでクロスさせてとめる。そして反対側の耳にかけるようにオレンジのヘアピンをつけた。
「……よし」
化粧ポーチ、を取り出して教えてもらった化粧を施す。
「うん」
久々にやったにしてはいい仕上がり。
今日だけは、一番キレイなわたしでいたいから。
時間を確認してから、財布と携帯だけを持って家を出る。
家から少し離れた、いつもは使わないバス停にわたしは向かった。
「次は神尾浜病院前、神浜尾病院前です。お降りの方はお知らせ下さい」
40分ほど揺られてからバスを降りると、目の前に大きな建物が見える。この辺りでは唯一の総合病院だ。
思い出深いというか、なんというか。ここに来ると色々なことを思い出す。
入口の近くにあるコンビニに入り、メロンパンとココアを買った。
ココアを飲みながらバス停の方向に戻る。わたしはそのままバス停を通り過ぎて、病院とは反対側に歩いて行った。
堤防沿いを一人でゆっくりと歩く。堤防の向こう側の砂浜には何人かの人がいた。
「よっ……と」
しばらく歩いてから堤防に腰かける。
この海を眺めていると色々なことを思い出す。
でも、毎年こうやってここに来るたびに、思い出の中の光景が霞がかってように思い出せなくなっていって。
それがどうしようもなく悲しかった。
もう4年も前になるから、全てのことを思い出せないのは当たり前だと分かってる。分かってるけど、どうしてわたしは忘れていってしまうんだろう。
「人間は忘れるように作られてるから、全てを覚えていたらそれに囚われて、きっと生きていけないよ」
「……そうだね」
記憶の中にある声に言葉を返す。だけど、その続きの言葉は聞こえてこなかった。
波打ち際の砂がさらわれていくように、確かな記憶も過ぎゆく時間に流されていってしまうんだろう。でも、わたしはまだあの時間を覚えていたい。
「ふう……」
目を閉じると風が心地いい。海が運ぶ潮の香りは、どうしてこんなに癒されるのだろう。
大きく息を吸って吐く。
「うん」
ありきたりな言葉だけど、今年もここに来てよかった。
色々抱えていたものも、この場所にいるときだけは忘れることができて、心が軽くなる。
メロンパンを食べながら佇んでいると、突然携帯が鳴り始めた。
「もしもし」
「ねえ百合、今どこにいるの?」
電話をかけてきたのは真央だった。それにしても、どうしてわたしが出かけていることを知ってるんだろう。
「海」
「え? 海って、どうしたの急に」
「そういう気分になったから」
「……そういえば、前もそんなこといってたような」
真央はやっぱり、やけに鋭いところがある。
「この季節になると、海が恋しくなるの」
「もう、だったら誘ってくれたらよかったのに、この前水着選んでくれたじゃん」
「別にわたし泳がないし、それに」
「それに?」
「なんでもない、で用件は何?」
つい、余計なことまで口走りそうになる。
慌てて話題を変えた。
「えっと、今日ママ仕事でいないから、夜どこかご飯でも食べに行かないかなーって思って。さっき百合の家、行ったけど出て来なかったから」
「ふーん」
なるほど、家に来たからわたしがいないことに気づいたんだ。
「もちろん、百合がよかったらでいいけど」
「別にいいよ、夕方には帰るし」
「よかった。じゃあまた連絡するね」
「うん」
真央との電話を終えたわたしは、ゆっくり堤防沿いを歩いていた。
肌を刺すような日差しの中、不思議と不快感よりも心地良さが勝っている。
やがて目的の店が見えてきた。
「いらっしゃいませ〜」
小麦色の肌をした女性が、明るい声で向かい入れてくれた。
海沿いの小さな雑貨屋らしく、貝殻とか海のモノを使ったアクセサリーが、店内に溢れている。
前からここに店があるのは知ってたけど、中に入るのは実は初めてだ。
いつもなぜかタイミング悪く定休日だったり、臨時休業だったから。
どれがいいだろう、やっぱりプレゼントってなると迷ってしまう。
「どういうの、探してるの? よかったら聞かせて」
「えっと、その」
どうしよう、気さくに話しかけてもらえるのは嬉しいけど、どう説明したものか。
「年上の女性へのプレゼントって、どういうのがいいですか?」
おそるおそる聞いてみる。
「うーんそうだなあ、大人の女性にはこの辺りのネックレスとかがいいかも」
案内されて店の奥に入っていく。
「あっこれ」
パールのネックレス。こういうの似合うんじゃないかな。
「いいね、お姉さんお目が高いよ」
ふふん、となぜか自慢げな顔を店員の人はする。
「あ、ありがとうございます」
「それはシェルパールっていって、人口のパールなんだけどすっごく綺麗でしょ。作るのに手間かかってるんだ、それ」
そう言われないと気づかないぐらい、本物と同じぐらいすごく綺麗だ。
「これ、お願いします」
他にも貝殻のアクセサリーや、ガラスのビンに砂が入ったものだったり、色々気になるものがある。
でも結局、さっきのパールのネックレスを買うことにした。
「はいはーい、ありがとうございます。1500円ね」
「はい」
「ん〜やっぱり」
レジでお金を払っているときに、店員の人がわたしをまじまじと見てくる。
「あの、どうかしましたか」
疑問に思って尋ねてみると、思わぬ答えが返ってきた。
「お姉さんにとって、その人ってとっても大切なんでしょ?」
「そう……ですね」
「やっぱり、こっちまで伝わってきたよその想い。きっと喜んでくれるよ」
眩しい笑顔で紙袋を手渡される。
「ありがとうございました」
「また来てね〜」
店員さんの声に見送られて店の外に出ると、いつの間にか空模様が怪しくなっていた。
もう少しのんびりしていこうと思っていたけれど仕方ない。急いで病院の方まで戻ることにした。
「……うわぁ、今出たところだ」
バス停で時間を確認してみると、次のバスまで30分もある。このままだと家に戻る前に先に、雨が降り出しそうだ。
仕方ないのでコンビニで傘を買って、バスの時間まで病院の中で待つことにした。
ときおり呼び出しの声が流れる以外は、かすかな会話の音だけが聞こえてくるだけで、病院の待合室は静かだった。
しかし、退屈だ。家ならソファーに寝そべってればいいけど、外でそんなことするわけにはいかないし。
「あれ、百合ちゃん?」
聞き覚えのある声がして、誰だろうと振り返ると橘さんがそこにいた。
「ど、どどどうしたの? まさかどこか悪いとかきっと」
なぜだか、紙の箱を持つ両手が震えている。
「雨宿りしてるだけ」
「そ、そうなんだ。隣いい?」
「別にいいよ」
「……あのさ、よかったら食べる?」
そう言って橘さんは、わたしに紙箱を差し出してきた。
「フライドポテト?」
「うん、自販機のこれ好きなんだ」
へえ、フライドポテトの自販機なんてあるんだ。せっかくだからひとつもらってみることにした。
「うん、美味しい」
「あはは、病院に来るたびについ買っちゃうんだよね。ダイエットしようと思ってるのに」
ところでさ、と言いながら橘さんはわたしの方に体を向ける。
「そのメイクどうやってるの?」
「どうやってるのっていうほど、変わったことしてないと思うよ」
教えてもらったことを、そのまま真似しただけだから、詳しくは分からない。
「むーやっぱり素材がいいのかなあ、あたしが同じことしてもそんなにかわいくなれないよ」
「……そんなことない」
面と向かってそんなことを言われると、デートでもないのに気合いを入れてきたのが、なんか気恥ずかしくなってきた。
「羨ましいなあ、あたしも百合ちゃんみたいに生まれたかった」
「……そんなにいいもんじゃないよ。それに、わたしは橘さんみたいにパッチリした二重になりたかったな」
一重のわたしからすると、二重の人は本当に羨ましい。
「そんなにじっと見られるとその、恥ずかしいかなって……」
「あっごめん」
つい見つめすぎてしまった。赤面する橘さんを見て申し訳ない気分になる。
「そういえば、橘さんは病院にどうしてきたの?」
どこか悪そうには見えないけど。
「あーえっと、あたしのお母さんここで看護師やってて、忘れもの届けにきたんだよね」
「そうなんだ」
「お母さん、おっちょこちょいなとこあってさ、あたしもだけど」
そう言って橘さんは笑う。
「……いいお母さんなんだね」
「うん」
力強く頷くその横顔がわたしには眩しかった。
「じゃあ、そろそろバス来るから行くね」
携帯を見ながら立ちあがる。橘さんと話していたら、ちょうどいい時間になっていた。
「ねえ、百合ちゃん」
「?」
歩いていこうとしたときに、橘さんに呼び止められる。
「椎名から頼まれたと思うんだけど、あたしからも文芸部員としてお願い。文化祭の劇出てくれない?」
「……考えとく」
背中を向けたまま、そう答えてわたしはバス停に向かっていった。
降りしきる雨の中、バスは走り出す。さっきまでの太陽はもうどこにも見えなかった。
2
「もしもしママ?」
百合と行きたいお店を探していると、突然ママから電話がかかってきた。
「ごめん真央、ママやっぱり今日ちょっと帰れそうになくって、悪いんだけど冷蔵庫に残ってるもの、使っちゃっておいて」
「あ、うん分かった」
「百合ちゃんによろしく言っといてね」
「はーい」
急に仕事が入ったとは聞いていたけれど、ママ、よっぽど忙しいんだろうなあ。
「うーんどうしよう」
冷蔵庫の中身を見て何を作るか考える。
「ミートソースとかハンバーグとかかなあ」
合挽き肉を使わないといけないみたいだし、ぱっといくつかの献立を考える。
「あっそうだ」
百合にどこか食べにいくんじゃなくて、うちで晩ご飯作ることになったって、伝えておかないといけない。
百合に電話をかけてみる。
「もしもし」
「あっ百合、実は……」
私は百合に簡単に事情を説明した。
「でね、私の手料理でよかったら食べにこない?」
「いいの? わたしが行っても」
「もちろん」
よかった。断られるかと思ったけど、来てくれるみたい。
「あと、10分ぐらいでつくと思う。じゃあ」
「待ってるね」
電話を切る。どうしようかな、やっぱり百合が好きなハンバーグにしようかな。
やっぱり、自分以外の誰かに作る料理はいつもよりも気合いが入る。
私はさっそく準備を始めた。
さっきの電話から本当に10分くらいしてから、インターホンが鳴らされた。
「はーい」
「ついたよ」
百合の声が受話器越しに聞こえてくる。
「ちょっと待ってて、今鍵開けるから」
返事をしてから小走りで玄関に向かう。
「おまたせ……え!?」
百合の顔を見て途中で息が止まるほど驚いた。あの百合がメイクをしているなんて……。
いつもふとした瞬間にドキドキさせられるけれど、メイクをしている今日の百合は本当に綺麗だし、それにぐっと大人びていて、思わず見惚れてしまった。
「わたしの顔をじろじろ見てないで、早く中に入れてよ。雨降ってるんだし」
「あっ、ごめん。ちょっとびっくりして……」
言い訳めいたことを言う私の横をすり抜けて、百合は家の中に入ってくる。
「何か手伝おうか?」
「ううん大丈夫。お茶でも飲んで待ってて」
「そう」
百合がソファーに座って、テレビを見始めたことを確かめてから、私もキッチンに戻る。
「はぁ……」
料理をしていても、百合のことが気になってしょうがない。
最近、私は変だ。
知らず知らずのうちに湧いてくるような、嫉妬心だったり、胸の高鳴りだったり。
その理由を自覚してしまってから私は百合のこと、今までのただの仲のいい友達として見れなくなってしまっている。
「ねえ、百合」
「何?」
「ハンバーグ作ってるんだけど、他に何かリクエストある?」
「リクエストって?」
「ソースの味つけとか、つけあわせとか」
「何でもいい」
「……分かった」
何でもいいって言われるのが一番困る。意見を求めてるときはせめて何か言って欲しい。
「はぁ……」
いけないと分かっていても、ため息をつかずにはいれなかった。
私は百合のことが気になってしょうがないのに、百合は私のことを全然気にしていない。
ずっと前からそうだけどやっぱり改めて感じると、私って魅力ないんだって、思わず落ち込んでしまう。
そんなことを考えているうちに、晩ご飯が出来上がった。
「百合、ご飯出来たよ」
「うん」
キッチンから百合を呼んで、手早く配膳をする。やっぱり料理は作りたてじゃないと。
「いただきます」
「ど、どう?」
「うん、美味しいよ。やっぱり真央は料理上手だよね」
「よかった」
そう言ってもらえると、やっぱりほっとする。
「真琴さんと同じぐらいか、それ以上じゃない?」
「できるだけ料理するように心がけてはいるけど、まだまだママにはとてもかなわないよ」
「そう? 謙遜することないと思うよ」
「もう、恥ずかしいから……」
顔が熱くなるのが自分でも分かる。ただのハンバーグを、まさかここまで百合が褒めてくれるとは思わなかった。
「そういえば、どうしたの今日はメイクなんてして」
ご飯を食べ終わってから並んでテレビを見ているときに、さっきから気になっていたことを聞いてみた。
「別に、そういう気分だっただけ」
百合はいつものように、曖昧な返答をしてくる。
「だって、何でもめんどくさいっていう百合が、わざわざそんなバッチリメイクしてるの、って珍しくって」
「……人をめんどくさい星人みたいに言わないで」
百合は少しムッとしたような顔をした。
「だっていっつも、百合はめんどくさいって言うし」
「わたしだって、めんどくさいって思わなかったら、ちゃんとやるし」
「へぇ……」
確かに、百合はそういうところがある。一度こだわり始めると徹底的にやるような感じ。
今までにも、普段の百合から想像出来ないぐらい集中している姿に、何回も驚かされてきた。
「普段しないメイクを、今日はめんどくさいって思わなかったんだ」
私の言葉に百合は目を見開いた。
「……まあね」
「今日って何かあったっけ、百合の誕生日は7日だし」
考え込む私を見て、百合は少し寂しそうな顔をする。
「……もしかして、似合ってないのかな。橘さんも驚いてたし」
「えっ!?」
どうしてその名前がここで出てくるんだろう。
「まさか、綾ちゃんとどこか行ってたの?」
思わず、少し問い詰めるような口調になってしまった。
「いや、たまたま病院で会ったの。お母さんに忘れ物を届けにきたって言ってた」
確かに、お母さんが看護師さんをしてるっていう話、私も聞いたことがあるような気がする。
「じゃあ、どうして百合は病院なんか行ったの? もしかしてどこか悪いとか……」
百合は体が丈夫な方じゃないし、急に心配になってきた。
「いや、診察とかは受けてないよ。ただ行っただけ」
「だったらどうして?」
「……ちょっとね」
百合はそう言って目を伏せる。明らかに何かあるような反応だ。
「そうなんだ」
すごく気になるけど、百合は露骨に聞いて欲しくないという顔をしている。
「ごめん、お風呂先に借りていい?」
「あっ、うん」
そう言って百合は逃げるように、リビングから出ていってしまった。
「はぁ……」
シャワーを浴びてため息が漏れる。百合はお風呂から出てきたあとも、私をどこか避けているようだった。
ママからアドバイスされて、いろいろ考えていたこともあったけど、それを実行できるような雰囲気じゃなかったし。
「……どうしよ」
髪を乾かしながら考えても、どうしたらいいか分からない。
悩みながらリビングに戻ると、百合は扇風機の前で佇んでいた。
「ふーあっつい」
少しわざとらしく、百合の隣に座ってみる。
「……」
「……」
座ったのはいいのだけど、どう話を切り出したらいいか分からない。
「そうだ、お茶飲む?」
「うん」
冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出して、氷を入れたグラスに注ぐ。
「はい」
「ありがと」
百合が扇風機の前からソファーに移動したので、私も隣に座る。
「ねえ、百合」
意を決して話を切り出す。
「百合ってさ、中学のときにどうしてバスケ部に入ったの?」
「……どうしたの急に」
「百合ってもともと、バスケやってたのかなあって思って」
前から聞こうと思っていたことを、思いきって聞いてみる。
「いや、こっちに戻って来てから始めたけど、それがどうしたの」
百合は訝しげな視線を、私に向けてきた。
「うーんと、ずっと気になってたんだけどどうしてバスケだったんだろうって。ほら、百合ってなんでも出来ちゃうじゃん?」
「……肌焼けるの、嫌だったから室内でやるのががよくて」
「え?」
思っていたよりずっとくだらない答えに、拍子抜けしてしまう。
「わたし、肌弱いから基本的に日光に当たりたくないの」
「へぇ……」
確かに百合は色白いけど、そこまで日焼けしないように普段から気を使ってるイメージはないから、ちょっと意外だった。
「……ふわぁ」
雰囲気が一気に和んだら急に眠たくなってくる。時間を見ると、23時を過ぎていた。
「百合、そろそろ寝よ。私眠たくなってきちゃった」
「先に部屋行ってて、少し外の風に当たってたいから」
そう言って百合は窓を開ける。
「でも……」
「すぐいくから安心して」
「うん」
私は百合の真剣な眼差しに、頷くことしか出来なかった。
私は百合に聞きたいことがたくさんある。というより、百合の全部を知りたいという方が正しいかもしれない。
だけど、それが私の自分勝手な思いだということも、よく分かっている。
──私たちが中学2年生のときのこと。
9月3日、夕方の学校であったことを、私は今でもよく覚えている。
夏休み中に突然バスケ部を辞めたということを聞いて、私はあれこれ尋ねていた。だけど、百合は全く答えようとしてくれなくて……。
「いったいどうしちゃったの? 百合ってそんなに冷たいこと言う人じゃなかったでしょ!?」
つい感情的になった私は、百合の肩に掴みかかってしまっていた。
「……やめて」
辛そうな、絞り出すような声。その声を聞いて、私はようやく我に返った。
「ごめんなさい」
「……」
百合は何も言わずに私から視線を外す。
「……でも、何かあったんだったら、話してくれない? 私、百合の力になりたいの」
百合の手を握ろうと、私はゆっくりと手を伸ばす。
「どこまでいったって、結局わたしたちは他人だから。真央に出来ることなんて……ないよ」
ぞっとするほど冷たい声で、百合が呟くように言ったこの言葉を、私は今でもよく覚えている。
「入っていい?」
ノックの音と百合の声で、今の現実に引き戻される。
「うん」
私が返事をすると、百合は隣のベットに一度座ってから、横になった。
話しかけようかと思っているうちに、かすかな寝息が聞こえてくる。
どうやら、あっという間に眠ってしまったようだ。
「……もう」
これじゃあ何のために待っていたのか分からない。だけど、わざわざ起こすのも悪いし、私もこのまま眠ることにした。
「ん……」
ふと、ほっぺを何かに触れられているような感覚がして、目が覚める。
「あ、起きた」
「え、ちょっ……」
すぐ目の前に百合がいた。
近すぎる距離に戸惑っている私に構わず、百合はどんどん近づいてくる。
「ひゃあっ……!?」
そのまま正面から百合に抱きしめられた。百合の温かさが、薄いパジャマを通して伝わってくる。
「嫌かもしれないけど、少しだけこうさせて」
甘えるような、少し鼻にかかった声で囁かれると、それだけで心臓が飛び出そうなほどドキドキする。
いったいどうしたんだろうとか、何で急にこんなことだとか、色んな考えが頭の中を駆け巡った。
「嫌なわけない……むしろ嬉しいぐらい」
だけど、結局口から出たのは素直な今の気持ちだった。
「ありがと」
胸元に顔を埋められる。普段だったら怒るところなのに、百合の体温や感触に支配されて、あっさりと受け入れてしまった。
「……ふう。ありがと、ごめんね」
1分ぐらいのほんの短い時間。だけど、今までのどんな時間よりも強く、百合の香りが私に残っていて胸の高まりが全然収まらなかった。
それに、くっついていた体が離れるのが、ここまで名残惜しくなるなんて、想像できなかった。
「そ……その、私は……いいよ」
恥ずかしくて閉じていた目をゆっくりと開く。
すると百合は何ごともなかったみたいに、気持ちよさそうな顔で眠っていた。
「……もう、期待させておいて寝ちゃうなんて」
思わずため息をつく。私はあんなにドキドキされられたのに、百合は違ったのだろうか。
何だか悲しくなってくる。やっぱり百合は私のこと、意識してくれてないみたい。
だけど、百合の寝顔を眺めているだけで、なんだか温かい気持ちになってくる。
──やっぱり私は百合に勝てないみたいだ。
3
「すぅ……すぅ……」
朝、目が覚めるとすぐ隣で真央が眠っている。
一瞬混乱したけど、すぐに昨日のことを思い出した。
まだ少し寝ぼけている体を無理やり起こして、顔を洗いに下に降りていく。
「ふう……」
冷たい水が気持ちいい。歯を磨いて、寝ぐせを直しているところで、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
「百合、おはよ」
「おはよう」
なぜか真央は、朝からずいぶんと機嫌が良さそうだ。
「朝ごはん何がいい?」
ソファーに座っていると、紅茶とコーヒーを真央が運んで来てくれた。
「普段食べないから、あんまりお腹減ってない」
「もう、朝ご飯食べないのはダメだよ、何か作るから待ってて」
「……はいはい」
どうやら食べないと、帰してもらえないらしい。
「ふわぁ……」
ソファーの上で体を伸ばして、真央の料理を待つ。
「お待たせ〜」
ほどなくして、湯気がたつ器が運ばれてきた。
「これって」
「かきたまうどんだよ、朝ごはんだから軽めの方がいいと思って」
「へぇ……」
朝からうどんを食べるのは、人生初かもしれない。
「麺伸びちゃうから早く食べよ。いただきます」
「いただきます」
念入りに麺を冷ましてから一口食べる。
「美味しい」
「朝からうどんも悪くないでしょ? 冷凍のやつ使えば簡単だし、百合も朝ごはん作ったらいいのに」
「……わたしが朝弱いこと知ってるでしょ」
作るのが簡単でも、そんな余裕あるはずない。
「あ、だったら私が毎朝作りにいこうか?」
「遠慮しとく」
毎朝押しかけられるのはさすがにちょっと……それに、真央にそんなことさせるのは気がひける。
「……別に遠慮しなくてもいいのに」
少し残念そうな顔をしてから、真央は一気にうどんをすすった。
「百合、そういえばどうだった?」
うどんを食べ終えた後、真央が急に真剣な顔をしてこう聞いてきた。
「どうだったって?」
「百合の誕生日のこと」
「ああ……」
自分の誕生日が近いこと、ずっと忘れていたふりをしたけれど、忘れているはずがなかった。
「どう? お祝いされる気分になった?」
自分のことのように嬉しそうな真央を見ていると、なんだか急に心の奥が重たくなってきた。
「百合?」
わたしの顔を見て、明るかった真央の表情がみるみる曇っていく。
「…………」
言葉が出てこない。前と同じ答えを繰り返せば、きっと真央はこれ以上、このことについて聞いてこない。
それは、なんとなく分かっていた。
だったら適当に答えておけばいい。それでいいはずなのに、わたしは何も言葉が出てこなかった。
自分だけだと落ち着くはずの沈黙。なのに、誰かといるときの沈黙は、どうしてこんなに息苦しくなるのだろう。
「百合」
真央に優しく手を握られる。
「話したくないことなんでしょ? 前にもそんな顔してたし」
真央は真琴さんがわたしに語りかけてくるような口調で、こう続けた。
「実は私ね、ママから少しだけ聞いたことあるんだ。百合のお母さんのこと」
「……そうなんだ」
「詳しいところまでは教えてくれなかったんだけどね。私、知らなかったんだ、ママと百合のお母さんが同級生で、私たちみたいにお隣さんだったんだってこと」
そういう話をわたしのお母さんは、一切してくれなかった。
「しかも、誕生日も一緒。出来すぎてるよね」
やけにわたしのことに詳しいことを、不思議に思って、真琴さんに尋ねたことがある。
そのときにわたしも、お母さんと真琴さんの高校時代の話を、少しだけ聞かせてもらったのだ。
「百合のお母さんってとっても綺麗で、優しい人なんでしょ? なのに今まで百合から一回も話を聞いたことないの、不思議だったんだ」
真琴さんにとってのわたしのお母さんも、やっぱりそうだったんだ。だったら、なおさらどうしてと思ってしまう。
「……それは」
突然インターホンが鳴らされたのは、ちょうどそのときだった。
「誰だろ。ちょっと待ってて」
インターホンの方に真央は歩いていく。
「はい。はい、ええと……」
何やらインターホン越しに、話しているようだった。
用件は済んだのだろうか、真央は小走りでこっちに戻ってくる。
「ねえ、百合ちょっときて」
「どうかしたの」
「リンドウさんって知ってる?」
「え?」
意外すぎる名前に、思わず聞き返してしまった。
「家に誰もいないみたいだから、ここじゃないかって訪ねてきたらしいんだけど」
「ちょっといい?」
ソファーから起きて、インターホンの方に向かう。
「……本当じゃん」
細身のスーツを身にまとった妖艶な雰囲気の女性が、モニターに映っている。
その女性は紛れもなく、以前わたしの家庭教師をしてた林堂恭子、その人だった。
「はい百合です。恭子さんどうしたんですか」
「ごめんなさいね、少し伝えておきたいことがあって」
「……何でしょう」
嫌な予感がする。この人が直接ここまで伝えにくるんだからきっとただごとではないはずだ。
「まだ確定してないけど、ある人からまた家庭教師をするように頼まれたの」
「それっていったい……」
「誰が、なんて言わなくても分かるでしょ?」
「……」
「それと伝言があるわ、『貴女の誕生日の朝、迎えに行くから帰ってきなさい』だって。用件はそれだけよ」
そう言うと、恭子さんはさっさと行ってしまった。
「……はぁ」
「さっきの人って?」
「前、わたしの家庭教師をしてた人。挨拶しに来ただけだって」
「挨拶って?」
「……さあ、ね」
きっと恭子さんは、お母さんから言われて来たのだろう。
それに迎えにくるなんて、ここでのんびりしてる場合じゃない。
「わたしそろそろ帰る」
「えっ?」
「ちょっとやることができたから、じゃあ」
「えっ……百合?」
まだ何か言いたげな真央を振り切るようにして、わたしは家に戻った。
「……はぁ」
お母さんと会う日が来る、それだけで頭が痛くなる。どうしよう。
ソファーの上で思い悩んでいるうちに、いつの間にか夜になっていた。
「ああもう……」
全然考えがまとまらない。
こうしてソファーに寝転んでいてもしょうがないから、気分を変えるためにシャワーを浴びることにした。
「はぁ……」
ため息しか出ない。
ここまで何もしてこなかったわたしが悪いのだけど、これまでの日常は、お母さんに許されていたから成り立っていたものだ。
ということを分かっているようで、全然分かっていなかった。
叱られるだけならまだいいけれど、最悪の場合連れ戻されることも考えられる。
いっそこのままどこかへ行ってしまえば、という考えが浮かんでは消えていく。
結局わたしは一人になれた気がしていただけで、お母さんに頼らないとどうすることも出来ない。
当たり前のことを、改めて目の前に突きつけられるだけで、こうも自分の無力さを感じるなんて、思ってもみなかった。
体や髪を乾かしてから、再びソファーに倒れ込んで目を閉じる。
お母さんにわたしの考えをどうやって伝えたらいいだろう。
そもそもわたしの言葉を聞いてくれるのだろうか?
考えれば考えるほど、そんな不安に押しつぶされそうになる。
──結局、それから8月7日の朝まで、わたしはずっと考え続けた。
これだけ考えても、どうすればいいのかは分からなかった。だけど、わたしがどうしたいのか、それだけはなんとか自分の中で、考えをまとめることができた。
家を出ろって言われたときのために、どうしても持っておきたいものだけを、キャリーバックに詰め込む。
やっぱり、覚悟はまだ出来ていないけど、お母さんと会って話すしかない。
念入りに身支度を整えてから、ソファーに座ってじっと待つ。
そして午前9時を少し過ぎたときに、携帯が鳴り始めた。
「もしもし」
「今、家の前についたと連絡があったわ。乗ってきなさい」
「……分かりました」
お母さんの声からは何の感情も感じ取ることができない。
それぐらい無機質で、冷たい声だった。
だけど、ただここで怯えているわけにはいかない。
「ふぅ……」
大きく息を吐いてからわたしは外に出た。
停まっていた車にキャリーバックを持って、乗り込む。
「奥さまから言いつけられている場所に、直接向かってよろしいですか?」
シートベルトをしたところで、どこかで見覚えのある女性の運転手に尋ねられる。
「……はい」
「かしこまりました」
車に乗っている間のことは、全くと言っていいほど記憶に残っていない。気がついたときには目的地らしい場所に着いていた。
三階建ての一軒家。今まで来たことはないけれど、なんとなく、ここをどういう目的で借りているかは察しがつく。
「到着しました」
「ありがとうございます」
お礼を言って車から降りる。
「すぅ……はぁ……」
大きく深呼吸をしてから、インターホンのボタンを押した。
「三階で待っているから上がってきなさい」
「は、はい」
ゆっくりと扉の方に歩いていく。
「お、お邪魔します……」
家の中に入ると、画材特有の鼻につく匂いがする。どうやらわたしの予想は合っていたようだ。
おずおずと螺旋階段を上がっていく、一歩一歩気をつけてないと、転がり落ちてしまいそうで、怖かった。
「あっ……」
リビングらしき空間に出ると、椅子に座っているお母さんと目が合う。
その鋭い眼差しに射すくめられて、声が出ない。
「そこに座りなさい」
「は……はい」
掠れた声で返事をするのがやっとで、考えて来た言葉が全て吹き飛んでしまった。
透明なテーブルを挟んで、お母さんと向き合う。ただそうしているだけなのに汗が止まらない。
「あそこまで言っておいて、あなたをこうして呼びつけるのは本意ではないわ」
お母さんはゆっくりと目を閉じて、わたしに語りかけてくる。
「──好きにしなさいと、言ったけれど、今になって考えてみるとあれは失言だったわ」
運ばれてきた紅茶を一口飲んでから、お母さんはこう続けた。
「貴女を産み落とした母親として、責任を感じている部分もある。……だから、もう一度選択の権利を与えようと思うの」
「それって……」
「その荷物、なんとなく想像ついてるんでしょう? ここに戻ってくるのか、それとも今度こそ本当に、これと引き換えに親子の縁を切るのか、選びなさい」
アタッシュケースを、さっき紅茶を運んできたお手伝いさんがテーブルの上にそっと置いた。
「……」
「それだけあれば、きっと一生今までと同じように、遊んで暮らせるわ」
つまり、再びお母さんの下に戻るか、手切れ金を受け取って縁を切るのか選べということ、みたいだ。
前みたいに駄々をこねて、折衷案を引き出そうとすることは許さない、というようなお母さんの強い決意が伝わってきた。
頬を汗が伝う。自分の気持ちを伝えようと、凍りついたように働かない頭で必死で言葉を紡ごうとした。
「……お母さんお願いします。あと少しだけ、考えさせてください」
お母さんは無言で、わたしをじっと見てくる。
「……わがまま言ってるのは分かってます。だけど今ここでどっちかなんて選べません!」
気がつくと涙で目の前がにじんでいた。
「──いいでしょう。だったら」