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朝色小夜曲  作者: 芦野
22/28

Another chapter9

この章はAnotherchapter1〜8の続きとなっています。未読の方はぜひそちらからどうぞ

1

「……」

想像通りというか、なんというか。

家というよりも邸宅って言った方が良さそうな建物が目の前に現れてから、わたしは車の中からただぼんやりと眺めていた。

「立派な家だね」

「それほどでもないですよ」

正直な感想を言ったつもりだったけど、椿原はこの手の言葉は言われ慣れているんだろう。

「お嬢様、ここでよろしいですか」

「ええ」

椿原が車から降りようとするのを見て、わたしも降りようとしたら、それよりも先に、助手席に乗っていたメイド服を着た人にドアを開けられた。

「あっ、ありがとうございます」

こくり、とその人は無表情のまま小さく頷いて再び車に乗り込んだ。


「前にも思ったんだけど、あの人たちはどうしてメイド服着てるの?」

学校の階段と同じぐらい横に広い階段を上りながら椿原に尋ねると、椿原は笑ってこう答えた。

「あれは、わたくし付きのメイドの制服なんです。出来るだけ可愛らしいものがいいかと思って選んだんです」

「そ、そうなんだ」

確かに可愛いデザインだとは思うんだけど、まさか指定しているとは思わなかった。

「百合さんも試しに着てみますか?」

「わたしは別に……」

「うふふ、いいんですよ遠慮されなくても。百合さんは絶対似合いますから」

椿原の後をついて歩いているだけで、この家がやっぱり相当な資産家らしいということがわたしにも分かった。

いわゆる普通の家にはなさそうな絵画や、置かれているものがなんというか、きっとそれなりに価値がありそうなものばかりで、ちょっとした美術館に入ったみたいな気分になっていた。

三階まで階段を上ったところで、階段から部屋が並ぶ廊下へと、向かう方向が変わった。

「ここがわたくしの部屋です。どうぞ入ってください」

「お邪魔します……」

椿原に促されて中に入ってみると、中は思っていたより意外に普通の部屋だった。

テーブルやパソコンが置かれたデスク。クローゼットや本棚と、観葉植物といった感じで、特に珍しいものがあるわけではなさそうだった。

全体的にシックな雰囲気で、大人っぽい感じだなあと、わたしは思った。

もうひとつ奥に部屋があるみたいで、そっちは寝室なのかな、となんとなくわたしは想像しながらもう一度部屋を見渡す。

「どうぞ座ってください」

「あ、うん」

小さなテーブルを挟んで椿原と向かいあって座った。


「早速ですが、百合さんに見て貰いたかったものはこれなんです」

そう言いながら椿原がテーブルの下から、桜の花が描かれた装丁が印象的なアルバムを取り出して上に置いた。

「この卒業アルバムの中に、百合さんによく似た人を見つけたので確かめてみてもらいたいんです」

そう言いながら椿原はアルバムをわたしに見えやすいように向きを変えた。

「これ、どこで?」

「生徒会準備室に歴代の卒業アルバムがあるんです。実は最近たまたま見る機会があって……確かこのページだったはずです」

そう言いながら開かれたアルバムのページに、見間違えるはずのない人の姿があった。

「もしかしたら、この方百合さんのお母さんじゃないかと思ったんです」

「……そうだよ」

三間桜の卒業生なのは知っていたけど、アルバムどころか、学生のときの写真を見せてもらったこともなかったはずだ。

周りを多くの生徒に囲まれて、笑顔を浮かべているお母さんの姿が今の自分とはあまりにもかけ離れていて、わたしはどうしようもなく情けない気持ちになってしまった。

「百合さんはお母さん似なんですね」

「……どうだろうね」

お母さんに似てるって言われて、もちろん悪い気はしないけど自分ではあまり似てるとは思えない。


「この前百合さんが、わたくしにお母さんはどんな人かと質問されたこと、覚えていますか?」

椿原はメイドさんが運んできた紅茶を一口、ゆっくりと味わってから尋ねてきた。

「覚えてるけど」

それがどうしたんだろう。

「不思議に思ったんです、どうしてそんなことを聞くんだろうと。それに、明日葉にも同じことを聞いたって言っていましたよね」

椿原はそこで言葉を切って、わたしの方をじっと見つめてくる。

「百合さんにとって、お母様というのはどういう存在なんですか?」

「……」

わたしの反応を伺うように間を置いてから、椿原はこう言葉を続けた。

「質問を変えましょう。……百合さんはお母様のこと好きですか?」

「お母様って……わたしの?」

「はい、そうです」

「どういう意味で聞いてるの? それ」

意図をはかりかねる質問に、ついきつい口調になってしまった。

「言葉通りの意味ですよ」

顔色を変えることなく答えてくる椿原の真意が、わたしには分からなかった。

「好きだよ。……だってわたしのお母さんだから」

それでも、ためらうことなくわたしはこう答えていた。

「良かったです、わたくしと同じで」

椿原はもう一口紅茶を飲んで、ふっと表情を崩した。


2

「百合さんは本当に、肌が透き通るような感じで憧れてしまいます。お手入れとか、どうされているんですか」

憧れるはどう考えても褒めすぎだ。正直わたしより何倍も椿原の方が、女性として綺麗だと思う。

「わたしは特には何もしてないよ、すぐ日焼けするから日焼け止めくらい」

「本当ですか?」

椿原は怪訝そうな顔をする。

「本当だよ、真央に前同じようなこと言われたときもそうやって答えたし」

「……羨ましいです」

ため息を吐くように椿原はそう呟いた。

「でも、わたし椿原さんみたいに身長高くてスタイル良くないし、羨ましいと思うけど」

まじまじと見てみると、椿原は本当に容姿端麗という表現がしっくりくる。

もちろん、素材がいいのは間違いないないだろうけど、それ以上に、自分自身をちゃんと律して管理してそうなところが、わたしはすごいと思った。

正直彼女に言い寄られたら、だいたいの人が簡単にその気になってしまうだろう。それぐらい椿原は同性のわたしでも正直魅力的に感じる。


「百合さんは、自分が魅力的だということをもっと自覚されるべきですよ」

そう言いながら椿原はわたしの横に来る。

「……大げさだって」

「大げさではなく、本心からそう思うんです。そう思ってなければ、わざわざ家まで招いたりしないですよ」

そう言いながら椿原は、わたしの方に顔を寄せてきた。

「今、百合さんは誰かお付き合いされている方とかいるんですか?」

「い、いないけど」

どうしてそんなこと聞いてくるんだろう。

「百合さんは、今まで誰かのこと好きになったことありますか?」

言いながら椿原はどんどん体をわたしの方に寄せてくる。

「……それは……あるけど」

眉の少し下で真っ直ぐ切りそろえられた前髪が揺れて、わたしに覆い被さるようにぐっと、顔が近づいてきた。

「……今までなかったんです。生身の人にそういう感情を持つことは。もしかしたら、自分には誰かを好きになるような感情がないのかもしれないって、思い始めてしまうぐらいには」

椿原に見つめられているだけで、まるで金縛りにあったみたいにわたしは動くことも、重なりあっている視線をそらすことも出来なくなってしまった。

「もし、百合さんが受け入れてくれるのなら……この思いを遂げてもいいですか?」

うっとりとわたしを見つめていた眼差しが、いつの間にか獲物を捉えたような熱を帯びていて……今になってようやくこれまでの質問の意味が分かった。

「……ちょ、ちょっと待って! そういう気持ちをわたしに持ってくれてることは別に、その……嫌って訳じゃないけど、わたし椿原さんのこと、まだそこまでよく分かってないから」

椿原から向けられた思いに、どう応えたらいいのかわたしには分からなかった。

「──そうですね、ごめんなさい。いきなりこんなことしてしまって」

ふっと気が抜けたように椿原が体を離す。吐息がかかるほどの距離から、ようやく開放された。

「……百合さんにとってはきっと迷惑でしょうけど、もっと貴女のことを知りたいし、近づきたい。わたくしがこう思っているということは覚えていてもらえますか?」

一瞬躊躇するような表情をしてからこう言って、椿原はいつものようにふっと微笑んだ。

「……分からないよ。どうしてわたしなんかをそんな……」

大きく息を吸って、吐いてもまだわたしの心臓は強く脈を打ち続けていた。

「どうしてか、ということは取るに足らないことで、それよりも今、自分がこう思っているという事実が、一番大事だと思うんです」

椿原はわたしの右腕を握って、優しく自分の左胸まで導いた。

「きっと伝わると思います。これが嘘偽りのないわたくしの気持ちですから」

どくん、どくんと一定のリズムで、鼓動がわたしに伝わってくる。今まで自分以外の誰かのものを、こうやって直接感じたことはなかった。

さっきまでと違って、なんだか落ち着くような感覚が不思議だった。

「わたし、そろそろ……」

そろそろ夜になるし、帰らないといけない。

「最後にこんなことをお願いするのは、わがままなんですが……これからはわたくしのこと、苗字ではなくて名前で呼んでもらえませんか?」

「……いきなりは難しいけど」

「ありがとうございます。それでは名残惜しいですが行きましょうか」


送ってもらっている時間のほとんどで、椿原はかかってきた電話の応対に追われていた。

「ふぅ……」

電話を終えた椿原は短く息を吐いて、それからしばらく目を閉じていた。

聞き耳をたてていた訳じゃなかったから、詳しくは分からなかったけど、どうやら彼女は普段から忙しいみたいだ。


そうこうしているうちに家の近所まで車はたどり着いていた。

「……本当は百合さんともっとお話をしたかったのに、上手くいかないですね」

「わたしには詳しく分からないけど、なんだか大変そうだね」

「大丈夫ですよ。もう慣れましたから」

「……あ、このあたりでもう大丈夫です。ありがとうございました」

運転席に声をかけるとすぐに、車が路肩へと停められた。

「わざわざ送って来てくれてありがとう」

「いいんですよ。わたくしが無理にお誘いしたんですから、これぐらいさせてください。それではまた」

「うん」

手を振ってくる椿原にぎこちなくそう返して、わたしは車から降りた。

「……疲れた」

着替えてシャワーを浴びてから、ソファーに倒れ込んだ。

そのまま目を閉じるとすぐに、わたしは眠りに落ちていった。


3

「……やっと着いた」

教室に着くまでの間に、何回太陽に殺意を持ったのか分からない。

まあ、時期が時期だから暑いのは当たり前なんだけど、さすがにもうちょっと加減してくれないと。

「今日も本当暑いよね」

真央はそう言って、水筒を取り出して中身をゴクゴクと飲み始めた。

その横顔を見て思い出した。

「……飲み物買ってくる」

そう言ってわたしは教室を出た。

「ふぅ」

自販機で買った水を飲むと、なんだか体温が下がったような気がする。そのまま、わたしは急いで校舎の中に戻った。

「……」

あれから真央としばらくケンカしたままだったけど、ようやく昨日、わたしから電話で謝って仲直りすることができてよかった。

なかなかどう謝ったらいいものか分からなくて、時間がかかってしまったけど、一安心といったところだ。

真央と話すこと以外で、学校でほとんど言葉を発することすらないから。

「おはようございます。百合さん」

教室に戻ろうと階段を上っている途中で、椿原から声をかけられる。

「おはよう」

椿原とはなんだか最近距離が縮まったような気がする。この前のことがきっかけになったのか、メールや電話で話すことが増えたし、それによって彼女から受ける印象が変わったのは確かだと思う。

今まで思っていたよりも、話してみると思っていたより堅苦しい人じゃなかったし。やっぱりわたしと同じ年の女の子なんだなって。

言葉を選ばずに言うのなら、何故か自分に構ってくる変わった人から、ある程度近しい友人の一人になった。とでも言うのが正解なんだと思う。

……まあほとんどは彼女の方から話を振ってくれたり、わたしの趣味に合わせてくれているんだと思う。


何気ない会話をしながら、いつの間にかわたしたちは渡り廊下の方にきていた。

「今日学校が終わった後、お時間ありますか?」

「まあ、あるけど」

「どうぞ」

そう言いながら椿原は、ブレザーの胸ポケットからチケットを取り出して、わたしに差し出してきた。

「へえ、こんなのやってたんだ」

このチケットは、世紀末ウイーンがテーマの美術展のものらしい。そういえば最近美術館とか行ってないしなあ。

ちょっと興味が湧いてきた。

「期末テストも近いですし、本当はテスト勉強しなければいけないところなんですが……実は、終わるまでに行けそうな日が今日ぐらいしかないんです」

チケットを見てみると、確かにもうすぐ期間が終わるみたいだ。

「ちょうどチケットがもう一枚あるので、百合さんに余裕があるならせっかくですので一緒に行きませんか?」

「……いいの?」

「もちろんです。それにこれは貰い物なので気にされることはないですよ」

「じゃあ、遠慮なく」

「よかったです。では授業が終わったら裏門の方に来てくださいね」

「うん」

「それでは、また後で」

わたしが頷くと椿原はにっこりと笑って、自分の教室へと戻っていった。

「……」

『……百合さんにとってはきっと迷惑でしょうけど、もっと貴女のことを知りたいし、近づきたい。わたくしがこう思っているということは覚えていてもらえますか?』

あのときの言葉が何度も頭の中で響く。

「わたしは……」

どうしたらいいんだろう。

それから結論がでないまま、チャイムが鳴るまでぼんやりと校庭を眺めていた。


わたしが裏門についてすぐ、この前の高級車が横付けされた。と、思ったら中からこの前は多分いなかったメイドさんが降りてきて、こっちに近づいてきた。

「貴女が朝倉百合さんですか?」

「あ、はい」

「お嬢様から伺っております。もしよろしければ、車の中でお待ちください」

「分かりました」

なんだか、他のメイドさんと比べてなんだか風格がある印象を受けた。もしかしたらこの人がいわゆるメイドさん達の()()なのかもしれない。

「すみません、お待たせしました。……それでは行きましょうか」

それから少し経ってから椿原が車に乗り込んできた。それを合図にしたように、車はゆっくりと走り始める。


「百合さんは美術館にはよく行くんですか?」

「前はたまに行ってたかな、最近はなかなかそういう機会もなかったし」

「美術品を見るのはお好きなんですか」

「まあ、好きかな。別にそこまで詳しいわけじゃないんだけどね」

そんな話をしているうちに、車は目的地の近くに着いた。

「ここでよろしいですか?」

「ええ」

駅前のロータリーに車が停められる。ここからだと美術館はすぐ近くだ。

「どうぞ」

先に降りた椿原が笑顔で手を差し伸べてきた。

「あ、えっとありがとう」

こういうことを顔色ひとつ変えずに、さらっとやってくるところがすごい。

つい誰かに教わったんだろうか、と思ってしまう。


「どうでしたか?」

美術館を出たところで、椿原がわたしに質問してきた。

「なんだろう、久々に色々見たけどすごくよかった」

絵や美術品を見るのはやっぱり好きだ。それと、美術館という場所の落ち着いた雰囲気。

学校や街中と違って誰に急かされることもないし。

「そう言ってもらえると嬉しいです」

椿原はにっこりと笑ってこう続けてきた。

「誤解されてしまいがちですが、あれらの絵は官能的な表現が全てではないと、わたくしは思うんです」


ロータリーの方に戻りながら、椿原はわたしに語りかけてくる。

「百合さんは自分が何才まで生きられると思いますか?」

真剣な口調で聞いてきたわりには、漠然とした質問だ。

「……どうなんだろ。分からないけど、わたしあんまり丈夫な方じゃないから、多分長生きは出来ないんじゃないかな」

「……怖くないですか? いつか自分が死んでしまうと思ったら」

「怖くないってわけじゃないけど、どうしようもないことないんじゃない?」

椿原はわたしに何が言いたいんだろう。そう思いながらわたしは答えた。

「百合さんは」

椿原はそこで足を止めて、わたしの方に向き直った。

「……強いんですね。わたくしはふとそういうことを考えてしまって、どうしようもなく怖くなることがあるんです」

「強くなんかない。……ただ、諦めてるだけ」

そう、諦めるしかない。

人間である限りはどんな人にだって、最期の瞬間は必ずやってくる。

どんなにその人のことを誰かが思っていても、それは当たり前のことなんだ。

たとえ前の日に元気そうにしていても、その次の日に突然いなくなってしまう人だっているんだから。

「ごめんなさい。急にこんな暗い話をしてしまって」

「ううん。別に大丈夫」

それにしてもちょっと意外だった。彼女はもっとこういうことには、なんていうか達観している感じだと思っていたけれど、どうやらそうじゃない部分もあるらしい。

「百合さんはお時間まだ大丈夫ですか?」

「大丈夫だけど」

「もしよろしければまた、わたくしの家に来ませんか?」

「……うーん。でも何度も行くのも悪いし」

「大丈夫ですよ、百合さんは何も心配する必要はありませんから」

この前のこともあるし、迷ったけどせっかく誘ってくれたしまあいいか。

「……じゃあ、行こうかな」

わたしがそう言うと、椿原はにっこりと笑った。


4

この前と同じようにわたしは椿原の部屋に通されて、テーブルを挟んで向かいあっていた。

「百合さんは時間があるときはどういうことをされているんですか?」

「うーん。別に何かしてるってわけじゃないかな。椿原さんは……」

「椿原さんではなくて、名前で」

そこまで言ったところで、たしなめるように椿原は言葉を挟んできた。そういえば、名前で呼んでくださいと頼まれたんだった。

「……えっと、花恋さんはどうなの?」

今まで椿原さんと呼んでいたわけだし、口に出して呼んでみるとどうもしっくりこないというかなんというか。

「わたくしは最近ではよく、百合さんのことを考えていますよ」

そう言って椿原は目を細める。

「そ、そうなの」

「はい」

笑顔で頷かれても、それにどう返したらいいか分からない。

「特に夜空が綺麗な日は、百合さんもこうして空を眺めていたりしたらいいのに……なんてことをふと思ってしまったりします」

椿原は紅茶を一口飲んで、わたしの目を真っ直ぐ見てきた。

「もっと多くの時間を貴女(あなた)と過ごせたらいいのに。なんて心から思うんです」

「……ありがとう」

誰かにこんなふうに明確な好意を向けられたときって、どうしたらいいんだろう。

なんとか言葉にしようと思ったけど、ありがとうというありきたりな言葉しか、わたしは返すことしか出来なかった。

砂糖をスプーンひとさじ入れてから、わたしは出された紅茶を一口飲んだ。

すごい、こういう紅茶とかには全く詳しくないわたしでも分かるぐらいのいい香りが広がってくる。

「失礼します。よろしければこちらもどうぞ」

そう言いながら、この前のボスっぽいメイドさんがショートケーキを運んできた。

「あ、ありがとうございます」

「どうぞごゆっくり」

そう言って丁寧にお辞儀をしてから、メイドさんは部屋を出ていった。

「百合さん、クリームが口についてますよ」

「えっどこ?」

「ふふっ、ここですよ」

あまりにも自然に指で唇に触れられて、わたしは一瞬何が起こったのか分からなかった。

「え……あ」

そのままクリームのついた指を、椿原はぺろりと舌で舐め取ってふっと微笑んだ。

「……どうかされました?」

椿原に視線を返されて、わたしはようやく我に帰った。

「百合さんは本当に可愛いですね」

ニコニコしながら椿原はケーキを一口食べた。

「や、やめてよ……本当に恥ずかしいから」

「どうして恥ずかしがる必要があるんです?」

「……からかってるでしょ」

わたしとは違ってきっと今まで浴びるほど、他人(ひと)から褒められたり羨ましがられたりしてきただろうから、こうやってなんでもないようなことみたいに、平気な顔をして言えるんだろうな。

「桜井さんにはこういうこと、言われたことないんですか?」

「え?」

どうして突然真央がそこで出て来るんだ。

「答えてください」

黙っていたわたしを急かすように、冷たい口調で椿原は聞いてくる。

「真央とわたしは……別に普通の友だちだし」

可愛いって多分言われたことはあるような気がするけど、多分椿原が求めている可愛いとは違う気がする。

「そう、ですか」

「そうだよ。うん」

真央はわたしに色々世話を焼いてくれるけど、それは優しいからだと思う。

彼女はわたしみたいにダメな人間をみると、放っておけないタイプなんだろうから、きっとわたしがわたしじゃない誰かに変わっても、同じようにするだろうし。

「なんだか、ほっとしてしまいました」

そう言って微笑みながら、椿原は残っていた紅茶を飲み干した。


「百合さんは、三間桜を卒業したあとはどうされるつもりなんですか?」

「……どうなんだろう、そもそも卒業出来ないかもしれないし」

冗談めかして言ったけど、そもそも3年生になるまで、学校にあんまりちゃんと行ってない時期があったうえに、ここ最近も学校を長く休んだから、もしかしたら危ないのかもしれない。

「先生から、呼び出しとかされなかったんですか」

「なんか色々言われたけど、忘れちゃった。正直それどころじゃなかったし。椿原さんは目指す大学決まったの?」

「はい、推薦でN大を受ける予定です」

「そうなんだ」

「わたくしのことはいいんです。それより百合さんは進学されるんですか?」

「どうなんだろ、何も考えてないから分からない」

自分の進路とか、正直それどころじゃなかったし。わたしは本当に何も考えていなかった。

「まだ時間はありますから、ちゃんとお母様とも話し合われてくださいね」

「……うん」

頷いたけど、わたしがお母さんとちゃんと話すことができるのはいつになるのだろうか。思わずため息をつきそうになる。

「開けるわよ」

わたしがまた紅茶が入ったカップに手を伸ばしたとき、ドアがノックされて女性の声がした。

「どうぞ」

「あら、お客さん? なら後でまた来るわ」

入ってきた女性は、ハリウッドの女優のような見事なブロンドの美人だった。

「ええ、そうしてください」

わたしの方をちらりと見てから、その女性は去っていった。

「……今の人って?」

「お母様ですよ」

椿原は微笑みながらそう答えた。

「そうなんだ」

なんか、目の前の椿原から想像してたイメージとは違っていたような気もしたけど、蓮佳(おねえ)さんもそうだったし、そういうもんなんだろう。


「そろそろ、わたし帰ろうかな。もう夜になっちゃうし」

「そう、ですか。分かりました、お家までお送りします」

少し残念そうな顔をした後、椿原は立ち上がった。


「申し訳ないですが、わたくしはここで」

「うん。じゃあ、またね」

この前とは違って、椿原は車に乗り込まずにわたしを見送った。

「……ふぅ」

帰りの車の中はずっと無言で、なんだか疲れた。シャワーも浴びたし、そろそろ寝よう。

そう思いながらグラスを取り出そうとしたときだった。

「あっ」

それは一瞬のことだったはずなのに、いつもの何十倍もゆっくりに感じた。

手にとったグラスではない、普段は使わない青い切子のグラスが、床に向かって滑り落ちていった。

危ない、このままだと確実に割れる。

とっさにそう感じて手を伸ばした。

──けど。間に合わなかった。

「……」

立ち尽くすわたしの目の前に広がったのは、割れたガラスの残骸だった。


悲しいとか、めんどくさいという感情すら湧かずに、わたしはただただ後始末をしていた。

破片を集めて紙で包んで、掃除機をかけようと電源を入れる。

ちょうどそのとき携帯電話が鳴り始めた。



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