間もなく
今回は、何時もに増して文章が雑です。
異常(少なくとも、地下道の住人にとって)は、思っていたより早く発見された。
私のボディーチェックをしていた女性から、ひっ、と蛙の潰れたような声が出る。
噛み傷は右腕にあったので、そもそも隠し通せるとは考えていなかった。
まぁ、この暗さなので、もう少し時間は掛かるとは思っていたけれども。どうにも見立てが甘かったらしい。
無機質で、真っ白な光が傷口を照らしている。
どす黒く、歯の形に固まった血糊が張り付いた腕。
赤紫に変色した皮膚に、グロテスクな程広がった血管が浮き出ている。今にもぶち切れそうなそれからは、少女らしさの欠片も感じられない。
更に、冷たく、人間味の無い肌の上には、黒っぽい紫色をしたまだら模様が散っている。
表現するならば、正に死体。今にも腐臭を放ちそうな死体。
本来動く筈がなくて、ただ、物として転がっておくべき存在。
でも、私の「これ」は動いている。既成の概念との、強烈なギャップに伴う違和感がある。
全く、気持ち悪い事この上ない。
私ですら気持ち悪いのだから、向こうはもっと酷い気分だろう。
プラットホーム唯一の明かりは、この光景を隠さずに暴きたてる。
チラチラと、スマートフォンの画面が揺れる。明らかに、その持ち手が動揺している証だった。
彼女の顔は見えなかったが、その表情は何となく察しがついた。
多分、怯えと、覚悟を足して2で割ったようなものだろう。
きっと、このまま無事ではいられない。
ああでも、そう簡単には、殺されてあげないつもりだ。さきの為にも。私自身の為にも。
*
決心は出来ているけれど、やっぱり怖くて、動けない。
その場に、釘付けになっている。
…何も、ゾンビが怖い訳じゃない。そんなもの、幾らでも壊してやる。これからも、私が人として生きている限りは。
そうだ、彼らは物なんだ。
私が怖いのは、目の前の彼女が人間であるという事実だ。
彼女も直にゾンビ達の一員となる。そうなったら、最早躊躇はしないだろう。
だって、物なのだから。
でも、今の彼女には、理性がある。記憶がある。
まだ、彼女は人なんだ。
それを手に掛けるのが、怖い。どうしようもなく、恐ろしい。
助からないって、解ってる。
中途半端に情けをかけて、そうして彼女がゾンビ化して、此処に居る人達が、皆死んじゃったら?
それこそ取り返しがつかない。
解ってる、よく解ってる。
そっちの方が、恐ろしいって。
だから、決心はついている。
私達が生きるために、彼女を壊さなきゃ…いや、殺さなきゃいけない。
自己中心的でも、屑でもいい。怨まれてもいい。彼女を逃がしちゃいけない。
そうあるべきだ。数刻前に私の命を救ってくれた彼らの為にも…
私が、行動しなければいけないのだ。そう、私が…
…怖い。どう取り繕ったって。
でも、だけど。
やっぱりまだ怖いけれど、もう、大丈夫だ。私は動ける。声も出せるじゃないか。
彼女を、人間を殺せる。その十字架を背負う覚悟がある。
一つ、深呼吸する。
御免なさい、どうか赦して、お休みなさい。
*
「感染者!感染者です!」
女性のよく通る声が、地下道の湿った空気を切り裂いて木霊する。
「何だと!?」
「ああ、やっぱり!」
「もう、嫌だよぉ…」
ホームに居た人々は、皆それぞれ別の反応を示しつつも、さっ、と身構える。
空気が、一瞬で張り詰める。
パンデミック自体はほんの少し前の出来事なのに、こうも素早く状況に適応出来るものなのか。
それ程、此処での惨劇は酷かったのだろう。
同時に、「もうあんな事は繰り返したくない」という意識も、相当強い筈だ。
逃げなければ。
工事現場から持って来たのであろう、鉄パイプなどの武器を手に、女性の背後に控えていた、男性らがにじり寄る。
誰も彼も、威圧感たっぷりの、むくつけき大男揃いである。流石に、今日を生き残っているだけはある。
ジクジクと、毒の如き恐怖が、体を回る。例の、右腕から石化していくような、重い感触がする。
ともすれば意識を持っていかれそうな重圧の中で、殆ど無理矢理左手を動かし、必死になってさきの手を握る。
そうして、まだ状況を掴み切れていない様子のさきを連れ、私はひらりとホームに降り立つ。
視界の端、最後に見えたのは、私達を捕捉しようと振れ動く、スマートフォンの白い光だけだった。