生と死の狭間で
ネーミングセンスのなさよ…
トイレの個室に飛び込むや、私は慌てて、鍵に右の手指を掛ける。
手の震えが止まらなくて、単純なスライド錠なのに、中々ロックが掛からない。
この震えは、恐怖に起因するのか、さっき噛まれた事に起因するのか。
出来れば前者であって欲しい。
でも、「それは違うぞ」と、私の腕が告げている。
恐怖も多少あるだろうが、間違いなくそれだけではない。
その証拠に、噛まれた右の上腕は、鬱血した様に変色している。明らかに、人の本来の肌色ではない。
更に、変色して赤紫になった箇所は、時間が経つ毎に広がっている気がする。腐った生肉ような、それでいて、鮮やかな花のようでもある。人皮に広がる、毒々しい花園。嫌なものを見ている。
ああ、傷口が、どす黒く汚れた傷口が、熱くて仕方ない。
肌に焼けた鉄を押し付けられているみたいだ。ジュウジュウと、肉が焼ける音さえ聞こえる気がする。
血液が沸騰しているみたいだ。沸いた水の、粟立ちすら感じられる程だ。
幻覚だろうか。そうであって欲しい。
痛い。熱い。神経が、かつてない程過敏になっている。
それなのに、肘から下は凍えそうに寒くて、手が悴む。まるで、氷漬けにされたようである。
感覚が麻痺している。抓ってもよく分からない。痛覚が鈍い。力が上手く入らない。
私の一部でありながら、それはいう事を聞かない。
右の肩口から下が、硬い木のような、ブヨブヨとしたゴムのような、そんな、使い道のないガラクタでできたお飾りになってしまったみたいだ。
鍵に掛けた指が、思う様動かなくて。どうしようもなくて。
私はそれを、何度もスライド錠に叩きつける。
意固地になって。誰でもない、自分自身に、右腕の有用性を証明するために。
そうして、四苦八苦して、やっと鍵が掛かる。
それからふと、我に返って、考える。
「でも、折角鍵を掛けたけども、もうこうやって閉じ篭る意味はないよね」と。
多分、私は助からない。
近い内に、あのゾンビ軍団の仲間入りをするだろう。そう、まるで映画の世界のお決まりの通りに。
何となく、本能で分かる。
根拠はそれだけだが、その一つで十分だった。というより、他の根拠を挙げろと言われても、無理だ。
もう既に、頭が熱に浮かされていて、ぼーっとするのだ。
全然、まともに考えられない。思考が纏まらない。こんな状態は普通じゃない。
脳内にかかる靄の中、大事なものがどんどん抜け落ちていく感覚。
理性が、個性が、溶けていく実感。
急速に、「私」という個が終わりへと向かっていく。終わりのその先はきっと、無個性で野蛮な、あの集団の一個体。
「もう、止血も意味ないね?」
……?あたまのなかでこえがする
…わたし、なにをしようとしてたのだろう、こんなにせまいとこで
それよりも、もっと、なにかやらなきゃいけないことが
分からない。思い出せない。どうでもいい。何もかも。熱く、溶け出す。流れて、中空に溶けていく。
そうして私は、殆ど意識のないまま、左手で扉を開け、惨憺たる外の世界へと足を踏み出したのだった。
*
ノックの音に、伏せていた顔を上げる。
「ヴ、ヴ、ぅアぁ……」
…あぁ、これは、ノック何かじゃあなかったか。
ただ、そう、言うなれば死神が、残りの生存者を迎えに来ただけだ。
教室の扉に嵌ったガラスの外に見える、死体、死体、死体の集団。
皆一様に、私を彼方へ引きずり込もうと、躍起になってドアを引っ掻いている。
ガリガリ、ドンドンと、音がする度に、扉が軋む。
徐々に、扉の軋みが大きくなっていく。
軋み、撓み、歪み。
死の足音が、迫ってくる。
さっきの今で、心身共に疲れ果てていた私には、もう、それに抵抗する気力さえ残っていなかった。
*
廊下へと彷徨い出た私は、グロテスクな姿のゾンビ達に混じって、当て所もなく校内を徘徊していた。
別に、彼らに攻撃される事もなかった。
恐らく、私も、本来なら体内に収まっているべき内容物をぶち撒け進む彼らも、本質的には同じという事だろう。
私が回った中では、どの教室も、例外なく破壊し尽くされ、荒れ果てていた。
ぼんやり、無秩序に、階段を上ったり降りたり。
なーんにも考えず、いや、考えられず。
灼けつく右腕と、強い飢餓感。
ただそれだけに従って。
あっちに行ったり、こっちに行ったり。適当に振る舞う。
見慣れた筈の校舎は、グニャリと形が歪んで見える。視界はぼやけ、見てるつもりで、全然見えていない。
そんな風にして、私は、自分が何処に居るのかも意識していなかった。
しかし、ある教室の前まで来た時、はっ、と突然我に返る。
その教室の扉にだけ、無数のアンデッドが集っていたのだ。
あの中には、生きている人間がいる。
私はそう直感した。
途端、驚く事に、体中に血と活力が充ち満ちてきた。今なら、何でも出来るような気がする、そう思った。
世界の歪みが、突然にして正される。まるで、夢から醒めたかのように。
禄に誰かを助けた試しもないし、万年文化部で体力もない。しかも、どうしようもない位ヘタレで、取り返しのつかないミスまでしてしまった。
でもまだ、此処には、ちゃんと生きている人がいる。
その人には、きっともう後なんて無くて、多分、私が唯一力になってあげられる。
そうだ、私が、私だけが……
その事実は、何故か私を、こんな私を、これ以上ない程に奮い立たせた。
*
私を守る教室の扉の窓に、亀裂が入る。
一つ、罅が入ってしまえば、後は脆いものである。
あっという間にガラス板は砕け、扉も強引に外されてしまった。
「あぁ」
「ここまでか」
もう私も喰われるのみ…と思ったが。
次の瞬間、白い粉塵が辺りを巻いた。
私に向けて手を伸ばしたゾンビの頭が叩き潰れた。
私の足を掴んだゾンビの腕が千切れ飛んだ。
何者かが、ゾンビ達に攻撃している。
鮮度を失った血を一身に浴び、我武者羅に消火器を振り回す影は……
私の幼馴染だった。