それでも人間でいたいですか
作者は交番を探索した事がないので、多少リアリティに欠けるところがあっても目を瞑って頂けると有難いです。
引き戸を開ける。
中は大分荒れており、時が止まったかのように静かだった。
割れたガラスの破片が朝日を浴びて煌めき、剥がれ落ちたポスターや散らばった書類が、昨日以前の記憶として沈殿している。事件によって攪拌され、今現在と分離された記憶達だ。
いかにも、そこは不思議と静謐で、何処か荘厳で、愚かしい程得るものがないように思えた。
そんな中、以前交番で道を尋ねた時の記憶を手繰りながら地図を探す。
大きさは、高校の地図帳と同程度。表紙は白だった筈だ。
「あの時のお巡りさん、何処から地図出したっけ」
職員室にあるような灰色のデスク、それとも備え付けの棚だったか。
「多分、この部屋のどっかだよな?」
「だと思う」
よく憶えてないが、此処には誰もいない、多少気が咎める以外に、私達を妨げるものは何もない。手分けしてしっかり探す事にした。
散乱したガラス片を払い除け、床に落ちた書類の端を摘まんで掬い上げる。
デスクの中身を全て取り出し、棚に残っている物も片っ端から確認する。
「これも違うか」
「うん」
目的の物は中々見つからない。
「すぐ見つかると思ったんだけどなー」
「見つかるさ」
そうして少しの間探索していると、何処からともなく微かな呻き声が聞こえてきた。
最初は空耳か、遥か遠方でゾンビが発する呻きや唸りかと思った。それ程不確かで、気を抜くと耳をすり抜けてしまいそうな音だった。
しかし、よく耳を澄ましてみれば、声は痛みに喘ぐかのように苦しげで、そして朧ながらも、奥の部屋から聞こえてくるように思えた。
「………。」
「ちょっと奥の部屋も見てくる」
「あぁ、気をつけろよ」
誰も居ないのだとばかり思っていた分、声の発生源の意外な近さに驚いたが、誰か居る可能性があるのなら、確かめない訳にはいかない。まあ、気の所為ならばそれでいいのだ。
さきに声を掛け、私は奥の部屋を覗く。
「あ…」
其処には、力なく壁に凭れる人間の姿があった。服装からして警察官、恐らくこの交番の巡査だろう。
瞼が痙攣している。目の焦点は合っていない。胸は薄く上下し、何とか呼吸している事が分かる。しかし、上手く酸素を取り込めないのか、常に口の端からヒューヒューと空気を洩らしており、その表情は苦悶に満ちている。肌は色が抜けたかのように白く、とてもその下に血が巡っているとは思えない。
警官は、辛うじて生きていた。
それもそうだろう。
彼には腕がなかった。更に言えば、肩など、体の至る所の肉が失われていた。恐らく、ゾンビに食い荒らされたのだ。
ゾンビに食われたという事は、この警官もその内ゾンビになるという事である。
私が言えた事ではないが、苦しみの果ての彼の末路を思えば、憐れとしか言いようがなかった。そんな感慨と共に、警官の顔を眺める。私が憶えていられる内は、憶えていてあげようと思ったのだ。
暫くの間そうしていると、不意に後方から声が聞こえた。
「たま、地図見つかったよ!」
喜びの滲む、さきの声だ。
「今行く!」
そう返事をして、最後に、と警官を見つめる。その時、青紫に変色した彼の唇が、何かを伝えようとするかのように震えた。私はほんの一瞬立ち尽くす。
「あ…ヴぁ……き、み」
「…。さき、ちょっと待ってて!」
ただ苦しみ悶える喘ぎかとも思ったが、Kという子音を認識した瞬間、私は殆ど無意識の内に彼の側に駆け寄っていた。
何でそんな事をしたのかは分からない。この行為に意味はなかった。彼がどんなに苦しもうがゾンビになろうが、直ぐに此処を出て行く私達には関係ないのだから。
それでも私は死にかけの警官の側に屈み、彼の口元に注目した。
警官は、暫し浅く早い呼吸を繰り返していたが、ふと決心したかのように息を吸い込むと、最期の気力を振り絞って言った。
「殺してくれ、弾は一発残ってる」
そう言う一瞬の間だけ彼の目の焦点は私に結ばれ、そして、直ぐに解けた。濁った眼球が忙しなく動いている。そろそろ人としての死が近いのだろう。
私は少し躊躇いながらも、床に転がっている拳銃に手を伸ばした。拳銃に手が触れる。ゆっくりと持ち上げる。思っていたよりも重い。
両手でそれを構える。銃の構え方なんて知らなかったが、それでも弾を外す事がないよう、しっかりとグリップを握り締める。
最後に、警官に対して何か言おうかと思って、しかし何も思い浮かばなかったので、黙ってトリガーを引いた。
幸いにも、弾はぶれたり外れたりせず、きちんと彼の頭を撃ち抜いた。反動は、思っていたよりも軽かった。
私は拳銃をそっと床に置き直すと、警官に背を向けて歩き出した。
「お待たせ、さき、行こっか」
「……。そうだな」