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一日間思考一周

作者: 明夜

 突然だが皆さんにはこだわりを持っているものがあるだろうか? 小説や漫画は原作しか認めない、映画は邦画しか見ない、身長は低いほうがいい。私にはある。しかしそれは小説や映画などの即物的なものではない。もっと主観が入り混じった定義が難しいものだ。明かしてしまうとそれは極々一般的な言葉、友人である。


 最初に言っておきたいのだが私はこれから話す意見を通して誰かの考えを変えようと思っているわけではない。だからこれを聞いた後下らないと忘れるために三歩あるくのも、この考えは間違っていると意気軒昂するのも、これこそ自分の至言だと感動し世界一長い座右の銘にするのも自由である。無論最も望ましいのは最後であるが。私が願うのはただ一つ。最後までこの話を聞いてもらうことだ。

 

 大学に向かうため私は今電車に揺られている。一限に間に合うように電車に乗ると小学生から社会人まで様々な人に出会う。


「そのポケモンは使わないでよ!」

「じゃあお前もそいつ外せよな」


 私の左隣の席では低学年程の小学生が携帯ゲーム機を使って対戦をしている。これくらいの年齢の時は周囲が言う友達と私の考える友人にそれほどの隔たりはなかった。教師の『二列になり隣のお友達と手を繋いでね』という言葉の友達とも左程違いはなかった。しかし次第に歳をとるにつれてその二つは隔っていく。


「あいつ本当にウザいよね」

「そうだねー」


 正面には同じ学校のセーラー服を着た二人の少女。誰かの悪口を言う少女に対してそれを聞いてる少女は表情が冴えない。もしかしたら悪口を言われている人物は友達なのかもしれない。もしくは単純に他人の悪口が嫌ないい子なのかも。どちらにせよ不幸なことである。

 

 私が友人という言葉をわざと簡単には使わないようにし始めたのは中学生頃からであろう。そこで終わっていればただの中二病で済んだのだがそうはならなかった。当時はあやふやだった、なんとなく簡単に友人と言いたくないという感情は学年が上がるにつれ強くなり高校になるころには一応の理由が話せる程度までにはなっていた。


 確かあの時私が考えていた理由は相手が自分を友人と考えているわからないから、というものだったはずだ。今考えると受け身な理由である。私にはまだ隣の列の友達がいたのだろう。寧ろ気恥ずかしさが立っての友人言わずであったのかもしれない。


「今日の一限テストあったっけ?」

「いやなにもないはず」

 

 右隣は大学生らしき二人の男性。二人は先ほどから事実の確認のような会話を続けている。出会って一日でも出来そうな会話である。しかしこの二人はよく一緒にいるのを電車で見るのでそんなことはなく、友達なのだろう。


 大学生になる頃には隣の列の友達は一人二人になっていた。中高のような受け身な理由ではなくもっと積極的かつ具体的な言葉で友人とはなんぞやという質問に答えることができるようになった。しかし当時の私と現在の私では違う点がある。最もそれは大学という新たな環境に入るせいだったかもしれない。


 言うならば、当時、私はぴかぴかの一回生であった。すっかり花の散りきった桜の葉が青々として、すがすがしかったことを思い出す。大学に入った私が一番に求めた物はサークルのチラシ、ではなく友人であった。今考えれば失笑をダース単位で買えるようなことだが当時の私にとってはそれこそが買ってでも欲しいものであった。結論から言うと私に友人は出来なかった。無論隣の列の友達ではなく私の友人である。


「おはよー。なんでスーツなの?」

「今日動物園の飼育員のバイトだから」

「飼育員?」

「塾の教師とも言うね」


 だが大事な出会いがなかったかというとそうでもない。私の友人とはなんぞやという考えに最後のピースを嵌める手助けをしてくれる七人の素晴らしい人物と知り合ったのだ。最も彼らは私の最後の隣の席の友達を殺した殺人者とも言える。


 彼らとはあるイベントにおいて同じ班の仲間として出会った。ごく普通に自己紹介を行い幾ばくかの談笑をした後に課題へと取りかかる。私の友達はこの時点から徐々に真綿を締めるように殺され始めた。メンバーの中にAという男がいた。彼は少々変わっていた。


 具体的に言うと食堂で食事中に急に黙って髭を剃りに行ったと思っていたらそのまま勝手に広場に戻っていたりなどである。そんな彼は課題中も素っ頓狂な言動をした。しかしそれは少し周りからずれているというだけのものであり本来なら特に問題になるようなものではない。その男がいなければ。


 その男の名前はBと言った。彼はそこそこ男前な顔をしている。残念ながら中身は伴わなかったようだが。BはAがおかしなことを言うと素早くそれをあげつらい笑いを取ったのである。それはただのいじりと言うには少々行き過ぎていたように私は感じた。


 しかしほかのメンバーはそうは思わなかったのか全員が笑いそれを楽しんでいるように見えた。私は人の表情を見極めるのは非常に苦手なので本当のところはわからないが。中学生の時に相手が自分を友人と思っているかわからないと考えたのもここからきているだろう。


 閑話休題――班が解散後グループラインにてAは『みんなみたいないい友達が出来てよかった!』と言った。しかしあんなものを友達だと私は絶対に認めはしない。すくなくとも私にとっての友人とはまったく別のものだ。そこで私の隣の席の友達は死んだ。代わりに友人という概念が生を得た。


「おはよう」

「おはよう。お腹空いたんだけどなんか持ってない?」


 私が席に座りスマホを弄りながら一息ついていると隣にある男性が腰かけてきた。彼とは取る授業の多くが被っているので特に約束しなくても今日の様に一緒に受けることが多い。私の友達になっていたかもしれない人物だ。


 そして恐らく彼は大学の中で最も友人に近い位置にいるだろう。ほかの人間が遠すぎるだけなのだが。実際私は彼と深い話はしない。誰かの悪口を言うこともないし、愚痴でさえ口にはしない。その位の関係だ。しかし私が彼を嫌いかというとそんなことはない。むしろ真面目なところなどは好感を抱いている。物事に対するスタンスが私と近いのだろう。一緒にいて苦を感じることは少ない。


「お昼食べいくけどどうする?」

「俺は図書館で寝てるよ」


 私は大抵お昼を次の教室でとる。そのような時彼はお昼を取ることが少ないので別れることが多い。この別れる際何も思わないのがまたいい。相手に悪いと思うことも、相手は自分を嫌っているんじゃないかと思い悩むこともない。今は無関心からくるものだが友人とはこういうものだろう。


 いい加減勿体ぶっても仕方がない、正体を明かそうでないか。私曰く友人とは自らの多くを許容してくれる存在である。これだけ言ってもどういうことかわからないだろう。例えば私が誰かを誤って殺してしまった。多くの人間は仕方がない状況でだ。そんなとき私が友人に掛けてほしい言葉はなんなのか。『大丈夫。お前は悪くない。あれは事故だ』、ではない。『お前が犯罪者になっても俺は友人だ』、これである。


 私は友人に犯罪者になった自分でも許容してもらいたいのだ。これが大変な我儘かつ身勝手な発言であることは承知している。しかし私はこの我儘が通じる友人を少なくとも一人は持っているのだ。この捻くれた私でさえもそう言えることから私が本気で言っていることが分かって頂けるだろう。


「俺今度海外に留学するんだ」

「突然どうした」

「いや自分の知らない世界を知りたくてさ」


 私の前の席で急に留学話を打ち明けられて困惑している彼の様に犯罪者などスケールが大きすぎて理解が追い付かないだろう。だからここはもっとスケールダウンして日常の話から入ろう。そもそも犯罪者という大きさから入らなくてももっと小さな例で目的は果たせたのだから少々自分の考えに酔っていたようである。


 私がお年寄りに電車で席を譲ったとする。何故譲ったのか? その動機を説明したとしても友人には引いてほしくはない。そうなんだの一言で流される、同意される、反対されるどれでもいいがそれを私として見てほしいのだ。何故私がその行動を取ったのか。それを知った上でなお変わらない目で私を見てほしい。それこそが私にとっての友人である。先ほど話に出した友人は私の行動原理の七割ほどを理解しているだろう。残りの三割は誰も知らない非常に深い中、もしくは厚い壁の奥である。


「あ、髪切ったんだ」

「うん。似合う?」

「大人っぽくていいんじゃないかな?」


 嬉しそうに髪の毛を弄りながら入って来た二人組の男女。彼らの関係を私は知らない。友達ではあるのだろう。それ以上はわからない。

 しかしこうしてごく普通に生活している人を見るだけで私がどれだけ我儘なのかわかる。例えばついさっきの男女のような場面でも私の我儘はでる。嘘を言いたくないのだ。気を使いたくない。誰かに手料理を食べさせてもらったとき、絵でも小説でも作品を見せてもらったとき、もしくは先ほどのように髪型に関しての意見を求められたとき。最初に一言ありがとう、美味しいね、上手いよ、似合ってるというのは構わない。むしろ礼儀として言うべきだと思っている。


 しかしその後なにか直すべき点があると思ったならそれをはっきり言いたいのだ。顕著なのが髪型だろう。前のほうがよかったと思うならばそれをはっきりと告げたい。それで相手を変えたいわけではないのだ。相手がそれを受け流しても、参考にしてもどちらでもいい。ただそういったところで気を使って嘘をつきたくない。私が考える友人とはそういうものだ。


「聞いてくれ。彼女に振られてしまった」

「なんで? こないだ凄い仲良さそうだったじゃん。浮気でもしたか」

「いや趣味がバレてな」


 彼女と言えば私には恋人がいるのか。ここまで話を聞けば大抵の人間は言われるでもなく理解するだろう。こんな奴に恋人はいないと。こんな鍵穴のようにぐにゃぐにゃと複雑なやつに出来るはずがないと。反論を一つするならば鍵穴には専用の鍵がある。


 だから私は残念ながら鍵穴ではない。少なくとも現時点では鍵がない欠陥品である。こんな鍵穴だれが欲しがるのか。こんなものを作ったのは何者だ。責任者を問いただす必要がある。責任者はどこか。おそらく私であろう。親はおろか他人のせいにはできまい。


「それでは授業を始めます。やる気がないもの、私の授業に興味がないものは出ていくように。私はやる気がない多数の生徒よりもやる気のある少数の生徒が大事です。なので私語などには厳しく対処するつもりです」


 話を戻そう私は友達が少ない。しかしその代わり可愛いヒロインが周囲に何にもいる……ということは当然ない。むしろこんな私にこれから恋人ができるのかも疑問である。

 

 さて友人に並みならぬこだわりを持つ私だがそれでは恋人はどうなのか。当然恋人にもそれ以上のこだわりがある。増えたのはこだわりではなく求める許容量ではあるが。先ほど私の友人は私の行動原理の七割を知っていると言った。当然恋人にはそれ以上を求めてしまう。具体的に言うと十割である。私は恋人には本当の意味で私を知ってほしいのだ。私がどんな趣味をしていてどんな考えをもっているのか。それらを全て受け止めた上で恋人になって頂きたいのである。

 

 しかしそれはかなり、いっそ不可能と言っていいほど難しいだろう。何故なら私は今厚い外壁を纏っている。仮にこの状態で告白するなりされるなりして恋人が出来たとしてもその彼女は私の立派な外壁を見て(もしかしたら他人からみたらまったく立派ではないかもしれないしその可能性が高いが今はそんなことは問題ではないので置いておく!!)中にある街を想像するのだ。そして私との交際を求める、許可する。壁の中にあるのがとんだ寒村だとも知らずに。


 この場合解決策は付徐々に壁を低くすることで中の様子を見せていくということになるだろう。しかし当然だがこれには時間がかかる。果たしてそれだけの長い期間人間関係的な意味で付き合ってくれる人が何人いることか。また私の拘りとして恋人の状態の時にはすでに十割とは言わないまでも殆どを理解してほしいというのがある。つまり恋人関係になる前から徐々に低くした上で恋人関係になるのが個人的に一番なのだ。結局のところ私に恋人ができるかどうかは中々絶望的である。


「よっし僕は今日の授業終わり」

「俺はまだ四限が控えてるよ」

「僕には面倒なバイトがあるんだよ」


 多くの人間の人生とは嫌なことが多い。私は良いこととは大きな枠組みの嫌なことの中から探すものが多いと考えている。授業は嫌だが友達とコソコソ話すのは楽しい、バイトは嫌だが客がいない時に同僚とサボって会話するのが楽しいといった具合だ。だが一緒にいてそういった思いをしないのが友人と言えよう。友人とは嫌なことをしてこないのではなく嫌なことをされてもそう感じないのである。


 無論限界はあるだろうが他人にやられたらば腹が立つ、気まずいというようなことでも友人ならばまったくしない。沈黙が苦ではない関係というのがいい例だろう。お互いに黙ってスマホを弄っていてもそれに気まずさを感じない。用が出来たら話しかける。人生では珍しく大きな枠組みの良いことである。


「ただいま」


 家に着いた私を出迎える存在はいない。田舎から上京してきて一人暮らしだからだ。今現在この空間こそが私が一切の壁を無くしても誰にも何も言われない場所である。私としては恋人を除いたとしても半分でも壁をなくすことができる場所が欲しいところである。今の様な状態ではなかなか、ストレスとも呼べないストレスのようなものが溜まる。


 そういった物は酒を飲み酔うことで発散することができる。最も私は深酒をし過ぎて全てを晒すことを恐れているのであまり飲まない。しかし自分からでは恐れるあまり、なくなることがない壁を酒が破城槌のように粉々にしてくれないか期待もしている。その結果周りがその私を受け入れてくれまいか、そう考えてしまうとついつい飲み過ぎてしまう時もあるのである。


 なんということか。今まで長々と友人について語ってきたが結局のところ私は素の自分を認めてもらいだけなのである。偉そうなことをのたまっといて結論はこんなものである。そもそもこの結論にはもう何回となくたどり着いたのだ。その事実に目をつむり毎回毎回新発見の如く言えれば一番なのであるが流石にそれは滑稽が過ぎる。故に私は断固として目をつぶらぬ所存である。しかし些か、見るに堪えない。


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