特別ストーリー よく晴れた日に
私が生まれたのは戦後間もない頃だった。
母は若く、私が物心着いた時にはまだ二十代半ば。父親は外国人だが、どこの国のなんという名前かは知らない。敗戦した日本の戦後処理に当たる駐留軍、あるいはその関係者だったことは間違いない。母はその外国人相手に身体を売る、いわゆる売春婦だった。
別になりたくてなったわけではないだろう。空襲で家族が死に、一人焼け出されてどうしようもなく、生きていくためにそうするしかなかった。そんな、行き場のない人たちの一人だったのだろう。
商売を始めてしばらくし、母には固定客がついた。その内の一人がおそらく父親だ。客を金ヅルと割り切ることができるほど母は人として、女として経験がなかったのだと思う。肌を求めたのは、自分を慰めてくれる温もりを求めていたのかもしれない。やがて一人の男と関係が深くなった母は子供を身ごもる。すなわち、私だ。
誰もが苦しい時代、赤ん坊を育てるのは至難の技である。病気になっても薬はなく、それ以前に栄養失調で倒れることも珍しくはない。だが私は生きた……生かされた。私は大切に育てられたのだ。なぜなら、私こそが父と母を結ぶ絆の明かしだったからだ。
しかしそれは所詮、母の一人よがりであった。軍人が永遠に同じ場所にいられるわけではないし、退役して母と暮らすはずもない。駐留軍は多くの人間にとって仇なのだ。戦争の爪跡が残り、憎しみと虚しさにあふれる敗戦国の中で、どうして元・敵性国の人間が大手を振って馴染めるだろうか。そんなことには思い至らず、愛に夢を見ていたほど母は若く、幼かったのである。
やがて父だったはずの男は母とのことなどなかったように本国へ帰り、母はただただ呆然とした。その時私はまだ四つだったから物事を理解していなかった。はっきりと覚えているのは落胆した母。焦燥に駆られた母。豹変した母……。父と結婚するきっかけになるはずだった娘の私は意味を成さず、敵兵に身を売ったコブ付きの女である自分が残っただけと知ったとき、母は狂った。あの人が私を見捨てたのはお前が可愛くないからだ、お前を産まなければ一緒に国外へ出ることもできた、その青い瞳でこっちを見るな―――あらん限りの怒りを私にぶつけた。まだ言葉を正しくつなげることもできなかった幼い私は、怒りが過ぎるのを待つだけだった。
そして、私は母に捨てられた。五歳の時だった。
母以外に身寄りのない私は、母の姿を求めて彷徨った。しかし私はそもそも外に出たことがなかった。髪と瞳の色の目立つ私が人目に晒されることを母が嫌っていたからだ。誰にも頼れず、それどころか理由もなく蔑まれ、時に子供から石を投げられ、時に大人から唾を吐きかけられ、それでも母を探した。見つかるはずもなかった……なぜなら、穏やかだった母の顔は、もう思い出せなくなっていたのだから……。
人里離れた山奥に行き着いた私は力尽き、動くことができなくなっていた。苦しみ、悲しみ……それらが自覚できる具体的な感情にならないほど、幼かった。ただ仰向けになったまま雲一つない青空を見上げ、浮遊感にも似た、上下不覚になっていく感覚に本能で抗うだけだ。だがそれも、時間の問題だ……。
そんな時だった。何もなかったはずの空に赤い光が瞬き、そこから何本か銀色の光の筋が、流れ星のように走ったのを見た。そしてその一つはまっすぐと自分に向かって落ちてきて――――胸に刺さった。
息が、できない……胸が熱いのに、手が、冷たい……死にゆく感覚を、今も覚えている…。薄れゆく意識の中で、私は子供ながらに思っていた。どうして父は母を助けてやれなかったのか。母はどうして愛してくれなかったのか。何がいけなかったのだろう、と―――。
そのとき……自分の中で、新たな鼓動を感じた。力強い脈動、そして溢れてくる、意思を…!
大きく息を吸い、吐き出したとき、血は止まり、何かが変わってることがはっきりと知覚出来た。まるで生まれ変わったように力が漲り、頭がクリアになり、そしてなにより生きる意志に溢れている。胸から流れ出た血が、まるでこれまで自分を蝕んできた毒素のようにすら思えてくる―――……そんな考え方ができるようになっていたのだ。
誰に教わるわけでもないまま、自分でできることを理解した私は、まず自分の髪と目の色を変えた。この国で目立たず、溶け込むためだ。続いてありとあらゆるものを観察し、学んだ。今思えばこれはシステムの欲求だったのかもしれないが、それでも私たちは目的も手段も完全に同化していた。文化を、社会を学ぶことは、生きていくために必要だったからだ。子供にしては異常なスピードで学習していく私は、多少物を食べられない日が続いても体内の代謝を調整すればしばらく平気だと学び、それを応用すれば肉体の成長を操作できることを理解した。十年後には、不老不死の術をほぼ会得していたのである。
そうして私が練り上げた若さと美貌を存分に発揮するようになると、愛を語り、言い寄ってくる輩が後を耐えなくなっていた。ある者は言葉で――ある者は金で――ある者は権力で、私の気を惹こうと迫ってきた。
そうか―――母はこれが嬉しかったのか。ふとそう思い至ったとき、初めて胸に埋め込まれた石が訴えてきた。
何を望むのか。何を欲するのか、と。
私に近づく男達は、皆くだらなかった。自分と結婚すれば欲しいものが手に入る、望みのままの幸せが手に入ると訴えてくる。しかしそれは男が私を手に入れる延長線にあるもので、私自身はその恩恵に与るだけ。要するに男達の飾りの一つに過ぎないのである。そのことを知るたびに、胸が、痛む。
愛とはなんなのか。男女の間に愛は存在するのか。今なら一笑に付してしまう青春の悩みに、私は囚われた。
男女の愛の結晶―――それが子供だと、一般的には言うのだろう。だが私はそれを認めることができない。私は手段の一つとして価値を見出され、不要になって捨てられた存在だ。私は欲望の末に生まれ落ちたに過ぎない。だから男女の愛を、親子の愛を、あらゆる愛を否定する――――。
…いや? 何一つ利益を得られない状態で生まれる愛ならばどうだろうか? 欲望とは無縁の愛。無償の愛。それならば―――。
今ではそんなものは有り得ないと知っている……なぜなら、私自身が愛を求めているからだとわかっているからだ。しかし当時の私は理想を追い求めて実験を試みようとした。これもシステムの影響があったのだろう。
私は、私に迫った男の中から、特に金と権力を持った政治家を選んだ。その男は戦後の開発、そしてやがて訪れる高度成長期の波を感じ取り、いち早く利潤を得る椅子を勝ち取っていた。そして男にはすでに妻がいた。まだ二十を過ぎたばかり、美しく、男には不釣り合いなほど凛とした女性。かつての華族の血を引く、男のステータスとして買われた女性だった。夫からは半ば物のように扱われ、欲望のはけ口にされても、彼女は不遇な運命と捉えず、ただひたむきに妻であろうとしていた。
だから、彼女を選んだ。
男の屋敷に愛人として入り込んだ私は、すぐに男を支配下に置いた。自分の身体が人を操る薬を生成できること―――すなわちバイオセルが存在することは、この時すでに知っていた。そうして屋敷中の人間を操り人形にした私は、男の妻に迫り、誘惑した。
もちろん彼女にバイオセルは使っていない。だから当然彼女は跳ね除けた。彼女にしてみれば私は憎き愛人なのだから当然だ。私も口説くのは初めての経験だったから上手くいかなかったが、時間をかけて、根気強く彼女にアプローチをかける。そのうちに手段を選ばなくなっていたことに気づきながらも、止められなくなっている自分……今思えば、初恋だったのかもしれない。時に語り合い、時に強引に迫る私に、ついに彼女は心を開いてくれた。
そして結ばれた夜、私は知った。肉体の交わりは、間違いなく愛の形の一つだと。女同士では何も生まれない、いや、それ以前に私と関わっても何も得るものがない、むしろ正妻と愛人の交わりなど、道徳的には畜生に貶められる行為のはずなのに……私は興味本位で彼女に近づいたことを後悔した。だが同時に、願った――――彼女との愛の証……子供が、欲しいと…。
胸に収まった石の力では、自分の身体は操作できても、改造はできない。もちろん他人の肉体を変質させることもできない。それが科学的な問題なのか自分の知識の問題なのかはわからなかったが、悩みながらも彼女と何度も愛を重ねた。
しかし―――そうした日々は永遠には続かなかった。出会って二十年が過ぎようとした頃、ふと彼女が気づいてしまったのである。私が老いないことに。
二十年経っても彼女は美しかった。私の贔屓目だけでなく、他人から見ても間違いない。ただし、年相応にだ。二十年変わらない、まるで少女の面影を残した私は、彼女と同世代の人間の娘と同じ年頃に映ったらしい。そして、それは間違いではない……。
不信感が募りながらも問いかけてこない彼女に、私のほうが折れた。こんなことで彼女との関係が終わってしまうのか……これも報いなのかもしれない。切っ掛けは純粋だったのかもしれないが、途中からは己の欲望にすり替わっていたことに薄々気づいていた。その罰が、訪れたのだと―――。
私は懺悔するように、彼女に全てを告白した。意図的にこの家に入り込んだこと、彼女を選んだのは偶々だったこと、もはや自分が普通の人間ではないこと……秘密を明かす程、彼女の心から私が消えていく……その恐怖が私を苛んだ。
だが、そうはならなかった。本当の私を知った彼女は思いもよらない行動に出る。突然、人体と医療を研究する財団を立ち上げたのだ。この時、当主であった夫はすでに病死しており、未亡人となった彼女が財産を引き継いでた。とはいえ、清廉な彼女は今までその金にほとんど手をつけていなかったのである。どうしてそんなことを始めたのかと聞いたら、私のためだと言う。人体の仕組みを理解すれば、私が自分のことをもっと知ることができるだろうと、そう言う。冗談じゃない、そんな度を過ぎた好意は受けられないと拒むと、彼女は言った。
「あなたが私との子供が欲しいと思っていたと聞いたとき……私には想像もつかないことだったわ。でも……だからこそ、嬉しかった。それができるかもしれないあなたが、真剣に思い悩んでくれていたことが、とても嬉しかったのよ。あなたがこの先も、私たちとは比べられないほど長い人生を送るのなら、同じことを考えるときがくるかもしれない。そのときこの財団での研究が役に立って、ちゃんと子供が授かれたのなら、その子は私の子供にもなるわ。私とあなたが、愛し合った証になるのよ」
拒めるはずがなかった……。もう私は、彼女の人生を巻き込んでいるのだ。私に出来ることは、一生を捧げてくれる彼女に応えることしかなかった。
そして私は彼女の勧めで偽りの戸籍を手に入れることにした。戦後直後の混乱期ならいざしらず、もはや偽装するための身分を作るのは難しいが、そこは彼女がなんとかしてくれた。かつて深窓の令嬢として育ったとは思えない行動力である。
「新しい名前はどんなのがいいかしらね…」
「……サツキハツミ」
「え?」
「今日は五月二十三日だから、五月二十美でいい」
目線はカレンダーではなく、窓の向こうの澄み切った青空。奇しくも今日は、石が自分に落ちてきたのと同じ日……かつて生まれ変わったあの日と同じ日だ。
「あなたらしいわね…わかったわ、今日からあなたは五月二十美よ。二十美……今日までありがとう。私は幸せよ。この先もずっと。さようなら…」
「……さようなら」
別れを切り出したのは彼女からだった。おそらく自分ではこの先私との子供を作ることはできない、だから恋人関係を解消して別の相手を見つけたほうがいいというのが、彼女の提案だった。だけど本当は……私とこれ以上時間がずれていくことが辛く、怖かったのだと思う。私も同じ気持ちだったから……。
私は彼女と別れた心の隙間を埋めるように何人もの女性を篭絡し、女だけの世界を築くために、文化的にも社会的にも働きかけるコミュニティーを築いていく。愛し、愛され……そして別れていった。
彼女が亡くなったと知ったのは、しょう子と出会う三年前だった。ついに死に目まで会うことはできず―――それが彼女が貫いた、愛の形だった。
まだもう一話……明日に上げられるかな?