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9話 五つの約束

 特に何事もなく帰宅した里咲は、脱衣所の床に通学鞄を置き。蛇口の水栓を捻り、両手と顔を洗った。

 顔を軟らかいタオルで拭く。

 通学鞄を掴み上げ。薄い小麦色の床を歩き、キッチンへと向かう。


「ただいま」


 チェック柄の長袖ブラウスに地味な色のパンツ。

 里咲の母親。里咲美由紀(さとざきみゆき)はコーヒーを飲み干し空になったカップをお皿に載せ答える。


「さっきも聞いたけど、お帰り」

 見目形は良く整っていた。

 容姿は全体的にすっきりとした印象で40代とは、思えないほど肌に潤いがあり皺やシミは皆無であった。

 

「そういえば、7月5日から7月7日まで。林間学校、終業式は7月19日だから」

 通学鞄を床に置いた。

「前に聞いた」

「あれ? 言ってたっけ」

 服の袖をまくった里咲の母親は、炊事場へとカップとお皿を持って向かう。

 水音の中、会話が始まる。


「――今度の日曜日は、友達と遊んできたら」

「そう……」

 間を置かずに水の放出が止まった。

 軽く拭いただけで、水切りバットにカップとお皿を置いた。

「言葉を詰まらせてるみたいだけど。なにかあった?」


「特には、なくも無いような」

 まくっていた袖を里咲美由紀は元に戻す。

「なにか、あるんでしょ」

「……どうだろ」

 部屋を見渡した。そこまで広い部屋ではなかったが、コンパクトキッチン。

 最新の冷蔵庫。洒落た食器棚。

 机と4脚の椅子。掃除が行き届いた綺麗な部屋であった。

 壁に貼られたカレンダーをチラッと里咲は見た。


「今度の日曜日は、友達との付き合いを予定するから。変更は無理だからな」


「友達と……、付き合い?」

「違っ、間違えただけだっての」


 まっそういうことにしておきますか。と呟いた自分の母親に対して、里咲が反応する。


「そういうこと考えてたから。間違っただけだ」

「そういうことかー、やっぱり。好きな子できたんでしょ」

「っ……あぁ、そうだよ」

 背もたれに右手を置いていた椅子に里咲美由紀が座った。


「普通に男の子していることは、一旦置いといて」

 里咲が普通に男の子ってなんだよ、と心の中で愚痴る。

「親なら、不躾(ぶしつけ)な言葉を言ってもいいけどね。親友、友達、同級生には言わないようにね」

「不躾って」

「好きな子には、普通に接すること。晟冬(せいと)の性格だと好きな子を傷つけそうなんだもん」

「そんなことしません」

 里咲の代わりに、母親が溜め息をついた。

「そういう臆病さの殻に、籠もり過ぎないようにね」

「えっ?」

 里咲には、少し意味が分からなかった。敬語を使うことが臆病さなのだろうか。

 違うだろと、里咲は決め付け。話を頭から追い出した。


「さっ、晩ご飯の支度しなくちゃ」

 母親の言葉で、床に置いていた通学鞄を掴み上げ、自分の部屋へと向かう。

 理科の勉強のため――ただ、勉強をする理由が佐枝に関係しているとしても。

 役に立つ立たない関係なく。里咲は、勉強がしたかった。

 それだけだ。



 ◇◇◇◇◇


 

 里咲が机の上で広げたレターには、



 [大切な約束]


 [この付き合いを誰にもばれないように、努力する(私たちの両親は、除きます)]


 [月に1回は、勉強会をします]


 [どちらかが、デートのお誘いを出したら、出来るだけ答える(強制力はありません)]


 [学校では、今まで通りに過ごす]


 [中学校の卒業前に親友になること]



 ◇◇◇◇◇



 最後に佐枝瑠菜(さえだるな)の電話番号、メールアドレスと名前が記されていた。

 ここに書かれてある文字も丁寧だった。

 丁寧な文字であっても、里咲には今ひとつ飲み込めず。

 レターの最初から、読み返した。


 [中学校の卒業前に親友になること]


 一文に込められた意味が、里咲はまだ正確に理解できなかった。


 レターを両手で持ったまま、立ち上がる。椅子が音を立て後退した。

「親友?」

 誰に向けての質問だったのだろうか。

 明るい部屋に、独りでいる里咲。不意に手の力が抜け、レターが机の上に落ちた。


 『学生で異性と付き合うときに、相手とずっと居たいと思って付き合うのかな』

 『結婚の方。ただ、彼氏や彼女が欲しい気持ちだけで。人は付き合うんじゃないかなって』


 頭の中に浮かび上がった佐枝の言葉で、一瞬にして氷解する。

 

 この付き合いには期限があり。

 全て受け入れるしか方法が無い。

 と、彼の小説によって鍛えられた脳が答えを導き出した。


 机の上に置かれたレターを右端に置き直す。

 今の感情を抑えるつもりも高ぶらせるつ気も里咲には、存在しなかった。

 本棚のそばに立て掛けられたネイビーブルー。ヴァイオリンケースの取っ手を掴み。

 机に載せ、鍵を解除しケースを開いた。

 長方形のケースには上段に弓。下段にヴァイオリンの本体。

 4本の弦上に白い布が掛けられてあった。

 フルサイズの4/4ヴァイオリンから、布を取り払い。

 小物入れからフルサイズ用の肩当てを取り出す。小さく『MADE IN CANADA』と刻まれていた。

 弓の張りぐわいを回して調節する。

 小さなケースから松脂を取り出し、弓に擦りつけ馴染ませる。

 肩当てを取り付けたヴァイオリンを左肩と顎で、確りと固定した。

 右手に持った弓を1弦に易しく載せる。


「ミ~」

「ミ~ラ~レ~ソ~」「ソ~レ~ラ~ミ~」


「3弦が少し狂ってるな」

 照明の光を浴びたヴァイオリンのニスが塗られた。表面が微かに輝く。

 大きなコンサートホールで弾かれるのを待つかのように。

 里咲がヴァイオリンを先生から習っていたころは、できるだけ毎日3時間程度は練習していた。

 要領も悪い訳ではなかった。

 彼も出場したコンクールで里咲が聴いた演奏は、彼を一回りも二回りも上回るものであったため。

 自信を根こそぎ刈り取られた。

 壁の圧倒的高さに挑むことは止めたが。下手な訳では無い。

 同年代に比べるとそこそこ上手い。

 そこそこの部分が、里咲にとって嫌だった。

 黒っぽい左側の糸巻きを少しずつ回しつつ。弓を動かし、調弦する。

 里咲は譜面台を準備する必要はなかった。

 楽譜の内容は、体が覚えていて。耳が記憶しているからだ。

 

 そこそこ、音楽の世界を知っているからこそ。

 夢を見ることができなくなった。

 自分の練習時間の2倍練習する人が、コンクールで上位入賞する。

 だからこそ、里咲は伊藤志帆心を尊敬している。

 離していた弓をそっと弦に載せた。

 頭の中にある楽譜を開く。

 薬指を2弦のレに合わせ軽く押さえつける。


「レードッシラッソ――」


 演奏を楽しんでいた。

 色んなこと全て含めて人生。そんなことを頭に浮かべ。

 里咲はヴァイオリンを引き続けた、想いを込めて――。

 



 ◇◇◇◇◇ 



 

 里咲は豚の生姜焼きを噛み切り、咀嚼する。

 ――生姜独特の香りと辛みが口の中で拡大し国産の豚と良く合う。

美味(うま)っ」

 お茶碗に残っていた白米を全てお箸で掴み取り、放り込んだ。

「お代わりぃ」

 左手で掴んだお茶碗を母親へ渡し、噛み続ける。

 父親の里咲修司さとざきしゅうじがスマートフォンでニュースを観始めた。


『東京株式市場は、件並み上昇し日経平均株価は1万9043円高値を付けました――』


「食べるときは、スマホしない。はい、お代わり」

「ありがとう」

 部屋着の父親が名残惜しそうに、スマートフォンの電源を切り。テーブルの上に置いた。

「あぁ、分かっているんだが」

 関係無いとばかりに、食事を再開した里咲は生姜焼きの美味しさに悶える。

 ――肉の臭みを生姜で取ることで、豚肉が一段と美味くなっている。

 今度はゆっくりと味を噛み締め、里咲は思い浮かべた。

 ――その内、生姜焼きの作り方教えて貰おうかな。

 ヘタが取られた。真っ赤なミニトマトをお箸で掴み、口の中へ運んだ。

 噛んだ瞬間、里咲の口内にほんのりと甘い果肉が広がった。

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