5話 好みの基準
土曜日の学校が終わり。昼ご飯を家で食べた里咲は、学生服から長袖Tシャツとパンツに着替え。
意気揚揚と自転車で、書店を目指していた。
5月の気温は、里咲にとって心地よいものだった。
「はっはー!」
彼は至って普通の中学2年生だ。
◇◇◇◇◇
書店はいつ来てもわくわくする。里咲は書店の自動ドアを通るとき、いつもそんなことを思う。
入り口そばの目立つ場所に、売れ筋の新刊本が置かれていた。
だが、そこには目を向けない。人気の本は、半永久的に書店に置かれてあることがある。
しかし、余り売り上げが乏しくない書籍は、書店から退場させられることを知らない里咲ではない。
書店に並べられても返品される書籍は、結構存在している。
本の世界は、はまればはまるほどに底がない。壮大な世界だ、里咲もそれに落ちた1人。
最初にマンガ本、次にライトノベルコーナー。
一般文芸文庫。
最後に文庫以外の一般文芸書へと周回するのが、書店にきたときの動きだ。
今日は、参考書コーナーへと里咲は向かった。
少女マンガの場所にいた彼女たちが、声量を少し上げ話す。
「テロメヤって何、うち。初めて聞いたけど」
「これ、わたしも詳しくは知らないんだよね。
内容が高校大学レベルの話になるからなー。
確か、染色体の末端部を守るみたいな。勉強不足でごめんね」
里咲は直ぐに気づく。物理生物系の話を優しくも、大人びた声でできるのは彼女しかいない。
佐枝瑠菜だ。ともう1人は、枕木恋奈だった。
「真核生物と原核生物の違いだったら。説明出来るんだけどね」
「もう、ついて行けない。瑠奈、なんか頭がクラクラしてきたんだけど」
クスっと佐枝は、口を右手で押さえて笑った。
左手に3冊の少し大人向け少女マンガを持っていた佐枝は、参考書コーナーへと近づく。
最初に気づいたのは、佐枝だったが。
「同じクラスの、誰だっけ」
(同じ班の里咲だっての、絶対わぞとだな。枕木ー昔の俺と今を一緒にするな!)
心の中で里咲は、毒を吐く。
肘の当たりまでしかない袖のボウタイブラウスには、襟にボウタイがついている。
袖から、枕木は少し日焼けした健康的な肌を露出。
下には、タータンチェック柄のパンツを穿いていた。
「恋奈ちゃん、それはちょっとひどいよ。彼は里咲くん」
里咲へ向け右腕を伸ばして、示した佐枝の服装は勿忘草色のシフォンブラウス。すっきりとした印象。
穿いているフレアスカートは、薄橙色だ。
「少女マンガ」
「そうだね」
マンガ本を持っていても絵になるな。そんなことを想った里咲は、私服姿も可愛いなと彼氏気取りの様相をていしてきていた。
「名前は覚えたから、じゃあね。瑠菜いこ」
「俺も会計しようかな」
気にはなっていたが、購入するかは決めかねていた。理科の参考書を掴んだ、里咲は2人と一緒にレジへと向かう。
枕木は一瞬余り苦くない、苦虫を噛みつぶしたような表情をした。
◇◇◇◇◇
書籍を購入した彼女らは、自動ドアを通って直ぐ話し始める。
近くに駐輪場があり、見るからに競技用な自転車が駐輪されてあった。普通の自転車より細いタイヤ。
カラフルな塗装。独特のフレームとハンドグリップ、それらがただならぬ風格を誇示していた。
自転車の鍵を解除した枕木。
「いいなー、あの。ロードバイク(ファーナか、いいなー)」
最後にぽつりと聞こえない声量で枕木は呟いた。3人ともその場所へ顔を向ける。
「え? ロードバイク。あ、ほんとだ。そうそうこれから、ファミレス行くんだけど。一緒にどう」
なんで言っちゃうの。
とそんな表情で枕木は、佐枝の自転車のグリップを握っていた方の右腕を左手で掴む。
「瑠菜ー」
少しの間が空く。
「枕木さん、若し競技用自転車を題材にした話が好きなら。小説の『絶輪』がお勧めで」
「なにそれ」
思わず零れた。言葉を止めようとするが、佐枝の右腕から手を離すだけでやめた。
「小説では、珍しい。ロードレースを題材にした作品で、息遣いと今までに観たことがない情景描写。
スポーツ物小説では、かなりの完成度だと個人的に思ってる」
「え、なに? ロードバイクとか好きなの」
先ほどとは打って変わり、表情が柔らかくなった。
「そこまで詳しいわけではないけど、興味はあります。
差別とかではないんですが、紳士のスポーツと言えば。
ゴルフ、テニス、ロードレース、サッカーだと俺は思ってます」
明らかに、枕木の表情が柔らかくなったことに里咲は気づく。
「ロードレースについて、少しだけなら俺。知ってます」
大義名分を得た里咲は、自転車でファミリーレストランへ彼女らと向かった。
◇◇◇◇◇
店内に入って直ぐ、女性店員から声を掛けられた。
照明の光を受け続けるテーブル。ランチタイムを少し過ぎた、ファミリーレストラン。
『ロッセアス』の店内に、お客はほとんど居なかった。
3人が案内された席は、ソファータイプで。明らかにどちらかの隣に里咲が座らなければならない席だ。
「お冷やをお持ちします」そい言い残した女性店員は、キッチンへと向かった。
「先に座って」
里咲の右隣にいる佐枝は、ベージュのソファーを指差す。
誰にも聞こえない声量で返事をし、ソファーの奥に座る。
中腰でテーブルとソファーの間を移動した枕木は、里咲から右側の位置で腰を下ろす。
最後。佐枝は、里咲の右隣に座った。早くも里咲はメニューを開く。
いつもとは違う環境で。いつも以上に心の鼓動を感じて。
「――ごゆっくりどうぞ」
女性店員は、営業スマイルを浮かべ、離れた。
里咲が最初にお冷やを飲む。
佐枝と枕木は、お絞りをビニールから取り出し両手を拭いた。
1人ずつメニューを持ち何を頼むのか3人で話し始める。
「う~ん、これもいいな。あっ! こっちもいいかも」
佐枝は、メニューを何度も指差し視線を忙しく動かす。
「ミルフィーユ」
「早くない? 恋奈」
「シフォンケーキで」
「2人とも早い」
枕木と里咲は、即決だった。テーブルに注文予定の品が載ったページを開いたまま。
メニューを置いた。
2人の顔を見比べた佐枝は、テーブルにそっとメニューを置く。
「私も決まりました。恋奈ちゃん、飛び出しボタン押してくれる」
無言で枕木はボタンを押す。同時に店員を呼び出す音が、3人の耳に届くのだった。
運ばれてきたデザートを平らげた3人は、話し合っていた。
最初は自転車競技を題材にした小説について。
その話題は、佳境を過ぎ始めていた。
「『絶輪』。図書室にあったんだ。今度借りよ」
「自転車競技の奥深さを知ることができた本で。お気に入りの一冊」
「カーボンフレーム、カーボン……(炭素繊維、カーボンナノチューブ。語りたいー)」
「なにか最後にゆわなかった。瑠菜?」
「なんにも。それにしてもさ、私たちの好きなことって。一般の人からすると、興味なかったり。
理解できないような、好みだよね」
右手で掴んでいたガラス製のコップから手を離した枕木は、テーブルの下に両手を隠す。
「それを好きって気持ちに、偽りはないから。認められなくても、うちの好きは変わらない」
「そうだよね」
一呼吸を佐枝は置いた。
「皆、それでいいんだと思うな」
左腕をテーブルにぶつけ、里咲は驚く。
「えっ? 俺も入っていたりする……」
「もちろん。入ってる、里咲くんも」
お冷やを飲み干した里咲は、意を決する。
「このコップに注がれた液体は、なんだい?」
左手掴んでいたコップを持ち上げ。
「右手には何もなーい。左手には、テロメアジュースさ。はっはー」
「どんな効果があるんだい、曾曾お祖父ちゃん」
「そうさ、なんでもない」
里咲はコップをテーブルに置く。
「断然、駄目じゃん」
佐枝と枕木はわずかに笑みを浮かべた。
自分でも呆れるほどに無駄なことを記憶しているものだと里咲は、しみじみと思った。
「お会計は1390円になります」
全員分をまとめて持っていた佐枝が、支払う。
外に3人が出た瞬間。
「マニュアル通りの対応だったよね。あの店員」
「恋奈ちゃん。そんなこと言わない~、あの人も頑張ってるよきっと」
自転車の鍵を解除した里咲は、薄っすらと聞こえていた炭素繊維とカーボンナノチューブについて思いを巡らせていた。
チェーンの擦れる音が、佐枝の自転車から聴こえた。
「それ、油差した方がいいよ。瑠菜」
「うん」
佐枝は、ゆっくりと頷く。
「そろそろ帰ろ、里咲くん?」
里咲は見上げていた。
淡い白色の夕月を。
夜の月とは、違った存在のように彼には見えた。
「夕月」
「へー、夕方の月にも。夕月って名前があったんだ」
「ちゃんとした呼び名が、この月にもある」
佐枝は自転車を押し、里咲のそばに近づく。
「行こ」
最後に向けられた佐枝の笑顔を里咲は、絶対に忘れないと心に強く編みこんだ。