3話 特別な昼休みに
音楽室に置かれた多数の机と椅子。
その中間にある椅子に2人並んで座った。
ステージ感を大切にしたかったので、伊藤さんには入場から、して貰う。
スライド式の扉が開かれ、顔を上げ。肩をシャキッとさせた……。
「あっ……」
声が零れる。俺たち2人の視線を感じたのか、伊藤さんが流行りのスマホ猫背になってしまった。
「志帆ちゃん」
まあ、直ぐにどうこうなるものではないと思う。
時間がどうにかしてくれると、ヴァイオリンの先生も言っていた。
単独でステージの上に立ったあの時の緊張。
演奏前に浴びせられる視線は、経験者でないと分からないものがある。
心が小さい男ほど、自分を良く見せようとするらしい。
ここからでは、鍵盤を叩く。伊藤さんの両指は見えない。
演奏の本質は、観るものじゃなくて聴くものだから。それでいいと思うね。
演奏が始まる。今日は練習曲からではなく、最初から『ガボォット』だった。
聴き惚れるながら考える。
音楽には色んな効果がある。
リラックス効果だったり、テンポの速い曲や感情を鼓舞するような歌詞だったら高揚感で。
色んなことをひっくるめて、音楽というものは、凄いんだ――。
◇◇◇◇◇
初めて演奏を聴いた日から7日後の13日金曜日。
俺たちの前で、伊藤さんが恥ずかしがることはなくなった。
コンクールで実行できるかは、伊藤さん次第だ。
昼休み終了にチャイムが鳴る前に、集中して1曲を通し演奏したいようなので。
2人で窓ガラス越しに、校庭を眺めていた。
もちろん、ピアノの演奏付きだ。
「5月15日にピアノのコンクールだったよな」
2人の範囲だけで収まる声量で声を出す。
といっても、ちょっとした物音で演奏を中断するようでは駄目だと思うけど。
「うん、そう。羨ましいな」
佐枝さんも、羨ましいって思うんだ。そういうところも女の子っぽい。
「大きいコンクールだと。上位3位までに入賞すると、ドイツに連れて行ってくれるって話もあるな」
でも、これはヴァイオリンでの話だから。ピアノはどうなっているんだろう。
「里咲くんって。音楽のこと詳しくない? ちょっと不思議だな」
「……まあ。まあ、まあ。本当に少しだけなら」
黒髪を揺らして、顔を向けられる。
仕草のひとつひとつが、なんとなく可愛く……。
「まあ、まあね~。一般の人は『ガボォット』なんて知らなくて。
コンサートのことも分からないと思うんだ」
佐枝さんの観察力に脱帽した。
「昔……。ヴァイオリンを習っていました」
「ふ~ん、そっか……羨ましい」
羨ましいか。華やかな世界の裏側にある努力を知ったら。
たぶん出てこない言葉。
音楽の世界でプロになることに憧れた時期もあった。
でも、ある時気づくんだ。
夢が本当に、ただの夢だって。もし、続けていたら、どうだったんだろう。
でも。俺は夢すら持たないより、夢の夢ぐらい持っていたい。
「夢を持つことが大切なのかもって」
「私ね、今……ううん」
首を横に振って何かに対して修正したようだ。
「私には、夢がありました」
「えっ」
言葉は、直ぐに出てくるはずだった。それ、過去形だろ。なんて言葉は浮かぶのに本当に掛けるべき言葉は、頭に浮かばなかった。
演奏の終了で、気持ちが焦り始める。
間髪入れず、昼休みの終わりを告げるチャイム。
一言でもいいから、言葉を発しておきたかった。
待ってくれ。
伊藤さんへと体を向けた佐枝さんは、彼女と話し始めた。
そういう気持ちは知っているから、少しだけ待ってくれ。
「頑張って。今度のコンクール」
「頑張るよ、全力で」
なんでもいい、言葉になれ。
「俺は、夢なんかなくてもいいと思ってる」
ちょっぴり困惑。といった表情を2人にされた。
2人の視線で恥ずかしくなるが、なんとか耐える。
女子に見つめられることには、慣れてないんだよな。今直ぐにでも、視線を逸らしたい気持ちもあるが、佐枝の瞳を見つめる。
「本当に大切なものは、夢を持つことじゃなくて。
そばで、話し合える。親友なんだって思います」
涙腺の緩みは限界だった。
今沸き起こった感情が全ての原因だ。
俯き、左手で顔を隠す。2人に背中を見せ、ゆっくりと2年2組の教室に向かう。
佐枝さんの前で恥ずかしい言葉を声に出したこと。
発した言葉は、自分が一番言われたかったこと。
どこかで、いいこと言ったんじゃないかと思う自分に対して。
それら全てが、涙の訳。
廊下に立って話していた女子生徒の左腕に左肘が軽く擦れる。
「ごめん」
声が潤んでいた。
教室へと急いで向かう。走ったら止まるかと思ったけど、涙は止まらなかった。
色んなことを知った気でいた自分が、馬鹿に見える。
涙目で教室の中に入り、自分の椅子に腰を下ろした。
誰も、俺のことを気にしてはいないようだ。
ポケットから取り出したハンカチで、できるだけ涙を拭く。
両腕を枕代わりに、机に突っ伏す。
本当に怖いのは、誰にも相手にされないこと。
昔の自慢ばかりしていた俺が、出てくること。
そんな思いに対しての涙。
目蓋を開くと、暗闇しかなかった。
「おーい、晟冬大丈夫か?」
翔悟の声だ。俺の中では一番の親友で。
一番涙を見られたくない相手。
でもなんとなく嬉しかった。誰にも相手にされないより、断然嬉しい。
決意し、顔を持ち上げる。
「おっ、晟冬マジ泣きかよ」
翔悟は、顔をまじまじと見られた。
「な、なんとなくな。泣きたい気分なだけだ」
涙をハンカチで拭き取る。
「翔悟。次は、お前の苦手な理科で。細菌の分子遺伝学だ」
「はぁー、中学でそんなんやるわけねぇて。普通の晟冬だわ、じゃあな」
じゃあな。なんていわれても同じクラスだから。
佐枝さんて理科が得意だったよな。
今度の理科テストは最高点目指してみるか――。
◇◇◇◇◇
帰宅路。継ぎ接ぎだらけのアスファルトは、見るまでもなく。記憶に残っていた。
途中まで帰り道が同じ方向だった翔悟と別れ。
俺は蛇川先公園にあるブランコではなく。
滑り台を一度滑り。出口に腰を下ろしていた。
通学鞄は、太ももの上に置き抱きかかえている。
なんとなく、好きな歌を口ずさむ。
テンポだけはいいけど、そんに歌は上手くない。
歌手もまた、特別な存在だと実感する。
目の前にある砂場に光を反射する硬貨風の丸い金属。目を凝らして見るが、ゲームセンターにあるようなメダルゲームのコインだった。
不意に、乾いた金属音。
続く軽い足音。
滑り台から立ち上がろうとしたら、何者かの軟らかい足裏が背中に強く当たる。
衝撃で、鞄が砂場に落下した。
「いっ……。声掛けてくれれば、退きますよ!」
体ごと振り返ると……。
「悩みがあるんじゃないかなって、思うんだ」
そうだな。こういう登場の仕方をしなければ、俺は嬉しかったと思うよ。
佐枝さん。