2話 夢に思いを
昼休みに図書室以外へいくのは、久しぶりだ。
階段を上り、2階の廊下を数歩進む。ところどころに、千切られた小さな紙くずが落ちていた。
この音楽室がある空間には余り生徒が集まらないし、いない。廊下の窓ガラスから校庭を見下ろすし、外ではしゃぐ生徒を昔の俺は眺めていた。
俺の中では、青春が始まりそうなのだが。中学2年生のくせに恋愛とか早いと思うし、空想してんじゃねえよとも思っている。
我、早熟なりけり。
ふと、ピアノで奏でる『メヌエット』が聴こえてきた。
聴きなれた懐かしい『メヌエット』とは少し違う。弓で弾きなれたの方が正しいかもな。
良いテンポで、素人目でも熟練度の高さが分かった。
素人って訳でもないけど……。
右に曲がり、音楽室に近づく。
廊下に音楽室を見つめながら『メヌエット』の演奏に聴き惚れている女子に瞠目する。
聴こえてくる音が、少しずつ大きくなる。
佐枝さん。
心の声が聞こえたのか、不意に顔を向けられ体が固まってしまう。
流れてくるクラシックが、わざとらしく続く。
佐枝さんに、手招きされたので足音を出来るだけ立てずに近づいた。
音楽室を覗くと、グランドピアノの鍵盤を指で叩いているのは伊藤志帆心さんだった。
伊藤さんが座っている椅子は新高低椅子というものだ。だけど、ピアノ椅子ともいう。
少し自慢したくなったが、頭から追い出す。
突如、佐枝さんが顔を耳元まで近づけてきて心の中で驚く。
「(志帆。コンクールが近いから、特別に許可貰って練習してるんだって)」
息遣いが聴こえ、鼓動が高くなった気がした。
「(そろそろ、課題曲だと思うから。絶対音をたてないでね)」
頷いて神経を集中させる。
コンクールの言葉に凄いと思う。
演奏が終わった。
外から聴こえてくる喧騒も、段々と薄れていく。
ただ、他の音を排除しようとしたら静寂になったようだった。薄い銀色のガラス戸のフレーム越しに見つめる。
鍵盤にそっと両手を添えた伊藤さんを見ていたら、行き成り演奏が始まった。
先ほどより、テンポが速い。指の動きも、プロみたいだ。
滑らかでありながら力強い演奏。
鍵盤をかなりの速さで両手の指が動くが、耳で覚えていたピアノの『ガボォット』とほぼ同じに聴こえる。そして、ミスが無いのだ。
鍵盤を速く叩ければ凄いのかというとそうでもないのが、音楽の世界。
でも、これは違うと経験が言う。
まさに本物だった。
若しかしたら、凄いものを目撃したのではという気持ちが時間を忘れさせた。
「ガボォット。凄い……」
思わず零れた言葉。佐枝さんから尊敬の眼差しを向けられた気がする。
母親のクラシック好きに感謝を覚えたのは、たぶん今日が初めてだ。
『ガボォット』の演奏が終わって直ぐ、俺は大きな拍手をしていた。
2人で音楽室の中に入ってグランドピアノに近づくとピアノ椅子に座っていた伊藤さんが恥ずかしそうに俯く。
「観てたの」
伊藤さんの問いに2人で頷いた。
「演奏してるときは、大丈夫なんだけど。なんか恥ずかしい……」
演奏していたときとは、真逆の恥ずかしがり方だった。
グランドピアノに備わった譜面台からコピー用紙を数枚、横に張り合わせた。楽譜を右手で重ねていき易しく掴むのと同時にピアノ椅子から立ち上がった。
椅子から立ち上がるだけで、気品を感じる。
「志帆ちゃん、演奏。凄かった」
「嬉しい、さえちゃんにそう言って貰えて」
楽譜をピアノ椅子の上に置き。鍵盤にワインレッドの布を被せ、蓋を下ろした。
「プロみたいで、凄い演奏だった」
「プロかー。夢ではあるんだけどね、でも。あたしより凄い人は一杯いるよ」
自分の能力を過小評価しているように思えた。
両腕の長袖を捲くっていたため見える。か細く透き通った白い腕に力を込めピアノ椅子を持ち上げ、前に動かす。
良く見ると額にうっすら、汗を浮かべていた。
「演奏の前と後は、なんだか。恥ずかしいんだよね」
音楽家にとって大事なのは自信なんだが……。
「ピアノ椅子に座る前から。ずっと、堂々としていればもっと良くなるって。
自分に自信を持つことも立派な演奏技術って聞いたことがある」
右手で楽譜を掴み、そこへ左手を重ねる。
「昔みたいに自慢しないんだね~。ピアノ椅子は新高低椅子だって知ってるのに……」
佐枝さんは、知らないと思ったからな。
何かに納得され、伊藤さんは重ねた手を離す。
優雅な歩き方で、伊藤さんが近づいてくる。
俺の1m先ぐらいで立ち止まった。
「ふっ……」
行き成り、笑みを浮かべたと思ったら左手で口元を押さえる。
笑みを浮かべられたことに少し戸惑う。
そんなことを考えていたら目を合わせられ、言葉が出なくなった。
「里咲くんてさ、変わったね」
変わった。その言葉を投げ掛けられたのは、初めて――。
自分なりに普通の中学生を目指してきたつもりだ。
だから、少し嬉しかった。
「ずいぶん変わった。自慢ばかりしてたころより、今のほうが全然良いと思う」
自慢ばかりの意味に対して、心に刺さるものがあるけど。
あれから、変われたってことか。
その後。俺はひとつの提案をした。
『次の昼休みから、俺たち2人で演奏を観てもいい? 演奏はステージに出た瞬間から始まってる。
だから、ステージに出るなら自信を持っていかないと――』
◇◇◇◇
帰宅後、遅蒔きながら。ずいぶん、大胆な提案をしてしまったと苦悩している俺がいた。
そして、もうひとつ。
家族との晩ご飯中に考え事をしていたら、母親から。
――好きな子でも出来た?
と、ある意味で正解を出されたため。
それに対しての答えで、墓穴を掘ってしった俺は。
お風呂上りの体をベッドにうつ伏せで押し付けていた。
「うぅ~……」
言葉を発したつもりだったが、枕でかき消されてしまった。
壁時計が音を立て、時を刻み続ける。
ベッドの上を転がり、起き上がった俺はベッドに腰を下ろした。
部屋に置かれたふたつの本棚には、多種多様な書籍が隙間なく詰め込まれてあった。
今までに手にしたであろうお金の7割をつぎ込んだ書籍。
本棚に棚差しで並べられた、この光景は壮観だ。
10分以上眺めていられる。
◇◇◇◇
いつも通りの学校生活が始まった。同じ通学路に見知った生徒や親友、友達。
繰り返される出会いを、続ける。それは、学校だから――。
「おはよー」
筆入れで遊んでいたら、伊藤さんの声が聞こえたので顔を持ち上げる。
学生服越しでも分かる華奢な体。
「おはよう、さえちゃん。里咲くん」
佐枝でさえか、女子はそういう風にすることが好きで得意だよな。
「おはよ」
「おはようございます」
班の内1人。池川さんがまだ、学校に登校していなかった。
後ろの薪島俊雄と並土健巧は、向かい合って1枚の紙とシャーペンで遊んでいた。
「心ちゃん遅いね」
通学鞄を机に置いた伊藤さんは、佐枝さんに話しかけた。
「班長としては、もっと確りして欲しいんだけど。家は遠いし朝に弱いからね心実」
班長になりたかったけど、俺は立候補しなかった。
ホームルームまでもう少し時間があったので。机の中からブックカバーが掛かっている文庫本を取り出し開く。
そういえば、明日。眼科検診があったことを思い出す。
そして、5月後半には体育大会。
約2ヵ月後には、夏休みがやってくる。
流し目で佐枝さんを見ると、枕木さんの接近をキャッチした。
視線は本へと向け。耳に意識を集める。
「今度の土曜日。ファミ行こ」
「恋奈~、省略しすぎ。まあ、了解。放課後メールするね」
ファミ。雑誌のことじゃないよな……。
ファ。ドレミファソラシドのファ。
ピアノだとそうなる。
ヴァイオリンだと、ミラレソだ。1弦から4弦がそんな感じだった。
また、独りでに自慢を始めてしまっていた。
頭の中でだったけど。続きを言葉に出したら自慢になるかもな。
4歳から12歳までヴァイオリンを習っていたことを。
みっともないな。自分で決断しておいて、いつまでも引きずってんだ。
下手じゃなかった。練習すれば、そこそこ弾けた。けど特別な才能はなかった。
才能が全てじゃないことは、知っているけど。
音楽の世界には、才能の2文字がこびりついている。
そうだな、趣味でヴァイオリンを弾くなら。人に自慢できる技量は持っている。
結局、1日5時間以上練習を続けるやる気も血豆ができるまで練習し続ける根性もなかった。
体は、あの日々を記憶している。
馬の尻尾を使用した弓にのりの悪い松脂を擦り続けた日々。
左手指に食い込んだ弦の感触。
松脂の粉まみれになった、ヴァイオリンを易しく拭いたあの日を。
「じゃそういうことで」
枕木さんの顔を流し目でみたら、笑顔を浮かべていて。
そのギャップで少しの驚きを芽生えさせるには十分だった。
黒板の端を見る。
白いチョークで書かれた【2016年5月9日】の数字と文字。
先生が教室の中に入ってきたので、そっと文庫本を閉じ。
机の中へと仕舞った。
◇◇◇◇
音楽室の鍵を持った佐枝さんが、階段を駆け上る。その後ろ姿を追いかけながら2人で音楽室へと向っていた。
階段を上りきって廊下に出ると、伊藤さんは音楽室の扉の前にいた。
「お待たせ」
鍵を挿し、扉をスライドして3人で音楽室の中へと入った。