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1話 これが恋だとしたら

 洗面台に備え付けられた鏡を、里咲さとざき晟冬せいとは見つめていた。

 過去の過ちをまた、繰り返さないため――。

 彼にとっては、後悔だが。普通の人なら、そこまで悩むこと?

 と、思われる程度の後悔でもあった。

 小学3年生から中学1年生の中盤まで里咲さとざきは天狗だったのだ。自分の知識を他者に押し付け、他者の意見など余り聞こうとはしない。そんな人物だった。

 自分でも、余り良くないとは思っていたようだが。人より優れているという、羨望の眼差しを向けられたかった里咲は天狗を続けるしかなかった。といってもそのような眼差まなざしを向けられてはいなかったようだ。

 そんな彼が、普通の中学生に戻れたのには理由がある。だが、彼にとって小恥ずかしい話なので、余り思い出したくは無いようだ。

 他人の意見を尊重し、自分の意見を無理に通そうとはしなくなった。

 ある意味で、子供っぽさが消えたということだ。


 鏡に映っていたのは、中学の校則にぎりぎりで入る短髪とまだ幼さが残る、中性的な顔立ち。

 ところどころ、水滴が付着した鏡に里咲の顔が映り続ける。背後を数人の生徒が左へと通り過ぎた。

 入り口に扉がない男子トイレに外から、喧騒が流れ込む。

 里咲の右側にやってきた生徒が水栓を反時計回りに回す。

 ステンレス製の蛇口から、水が勢い良く流れ落ちた。

「彼女欲しいよな、晟冬(せいと)。今度の夏休み前までにはなんとか」

「そんな簡単に彼女ができるかっての」

「今時、小学生でも恋愛してっけどな」

翔悟しょうご……マンガの読みすぎ」

 右にいる彼を一瞥した里咲は、少し考え口を開く。

「なぁ、翔悟しょうご。次の授業なんだっけ?」

 知っているのに、わざわざ訊ねる。それは彼流の、弱いところを見せる行為でしかない。

 質問された田先(たさき)翔悟(しょうご)は、最初と同じ強さで時計回りの水栓を締め。水の放出を止める。


「確か……。お前の苦手な国語だろ」

 翔悟はハンカチを左ポケットから取り出し、手を拭きながら答えた。

 言葉の代わりに里咲は、深くゆっくりと、吐息する。

 それは、事実だった。確かに彼は国語が少しだけ苦手だ。

「教室に戻ろうぜ、晟冬(せいと)」翔悟だけ、男子トイレの外に出た。

 里咲にとってこの空間は落ち着ける場所だ。といっても、彼は普通の中学生。

 平凡であるからこそ、早熟であったからこそ。達観しているのかもしれない。


「いつまで、顔見ての。ナルシスト!」

 鏡を見続けていた晟冬の頭を男子生徒が、平手で軽く叩いた。

 間髪入れず、連れの1人が口を開く。

「ナルシスト~里咲~!」

 右手を握り締め、マイクパフォーマンスのように声を伸ばした。

 2人は旋風の如く出現し消えた。

 独り困惑した表情で、青白いタイルの上に立ち尽くす。

 授業の開始時間が迫っていることを思い出した晟冬は、思いついたように教室へ向かって全速力で走る。

 教室のガラス戸に空気が当たり、振動する。

 息切れする前に晟冬は教室の中へと入ることができた。



 

 ◇◇◇◇◇




 教室の中が、少しだけ騒がしくなる。給食の時間だ。

 なんと無く、この時間は子供みたいにわくわくする。授業は無い、それがいいんだ。

 中一のころだったら、給食の時間は俺が天狗になる時間。

 自慢するために得た知識を自慢するのだ、得意げにな。

 若気の至りってやつだ。

 自分の机に左手を付き、もたれ掛かる。

 白色の配膳台。その周りで、制服の上に白いエプロンを着た給食当番のグループが、忙しく動き回っていた。 

 一部の生徒が配膳作業を手伝う。それをただ、見続ける。

 なんで俺は、国語が苦手なんだろう。その答えは別に知りたくもない。

 本を読むのは、どちらかと言うと好きなほうだ。自慢するための知識が必要だったから。

 新聞の漢字や一般文芸書の難解な漢字だって読めた。

 なぜか、テストでいまひとつな点数しか取れない。

 普通に勉強した。だけど、結果は決まって余り良くならない。

 これはたぶん。あれだ、物理的に国語から拒否されているんだと思う。

「じゃま」

 その声は冷たかった。一瞬で体と心が凍てつく。

 白いエプロンとマスク。頭にコックが被るような帽子、それを小さくしたような白い衛生帽子を被っていた。

 枕木まくらぎ恋奈ここなは、右側から給食が載ったプラスチックプレートを机にやさしくとは言い難い音を立てられ、置かれた。  

「ありがとう」

 俺は知っている。『ありがとう』は七色の言葉だって。

 何も言わず、配膳作業に戻る。枕木さんからは結局、返事を貰えなかった。

 昔の俺を同じ班で見られていたから、こういう反応をされても仕方ないな。

 他にも理由はあるんだけど。

 少しバランスの悪い椅子に座る。

 ランチプレートに赤いスープ。トマトスープ風の中に芋やら、豆類が入っていた。

 トムヤンクンだ。

 他には、いろいろ。

 トムヤンクンのネーミングの前では、ライ麦パンすら存在が霞む。

 ひよこ豆が入っているから。余り好きじゃ無いんだよなー、トムヤンクン。

 中世ヨーロッパでは、ほぼ毎日の食事がスープとパンだったらしい。しかも一日2食なんてざら。

 日本人には無理だよ。味気ないスープをほぼ、毎日なんて。

 少年院や刑務所のほうが、もっと美味しい食事を出してくれるってのに。

 

 くっ付けられた6脚の机。目の前には、3人の女子が大人しく座って話していた。


「Nは、何でしょうか?」


 目先に座っている佐枝瑠奈(さえだるな)さんへ。左側に座っている池川心実(いけがわここみ)さんが尋ねた。

「Nは窒素ちっそでOが酸素」

 理科の教科書を観ながら、池川さんは更に問題を出そうとする。

「これは、分かんないでしょ瑠菜るなちゃん。 Wは、なんの元素記号でしょうか?」

「Wは、タングセテン。金に近い密度を持っている希少金属で、割と有名な金属。

 心実(ここみ)、大穴狙いすぎ。実は、さ。元素記号は、ほぼすべて覚えてるんだよね」

「それなら。これ、する意味あったの?」

「予習、予習。ありがとね、心実」

「ほんと、瑠奈は理科が好きだね」

 教科書を机の中に仕舞った池川さんの、左に座っている伊藤いとう志帆心しほこさんが話しに復帰した。

「私は理科が大好きなのだよ。はっはー」

 はっはー。これどこかで聞いたことがあるぞ。

 確か、理科系漫才をしている『テロメアの住人』のネタであった。

 突っ込み担当の真坂・ワトソソンが、

 ――曾曾お祖父ちゃん、そのドリンクカップに注がれた液体はなんだい?

 ボケ担当のパーキング=滝白は、

 ――右手にミドリムシジュース。左手にテロメアジュースさ、はっはー。

 話の最後にはっはーを入れるだけでこんなに面白くなるとは。

 一応言っておくが2人は、日本人だ。

 思い出し笑いをしそうになるが、堪える。

 

 伊藤さんとは同じ小学校出だ。北乃巻小学校の3年生から5年生まで一緒のクラスだった。

 伊藤さんは大人しめの女子で、ピアノを習っている。

 池川さんは活発な女子だ。

 1人称で観たことだから。本当の意味では知らないし、分からない。中学生が、何を考えているかなんて中学生の俺でも良く分からないものだ。

 給食が配膳される。

 佐枝さんの机に給食が配膳されたついでに、視線を強く向けてみる。

 左眼に、艶がある髪の毛が掛かっていた。

 やはり気になっていたのか。左手で髪の毛を流すように左耳に掛ける。

 左手首にはココアブラウンの色をした、ヘアゴムがはめてあった。



 そして、今日も誰かが『いただきます』の合図を行なう。

 皆で手を合わせ、翔悟しょうごは口を開く。

「いただきます」


「「「「いただきます!」」」」


 ステンレス製のスプーンを右手で持ち、トムヤンクンをすくい。口の中へ入れ咀嚼。

 目の前で3人の女子は、美味しそうに給食を食べていた。

 スプーンをプレートに一旦、載せた佐枝さんはライ麦パンを一口サイズに千切って口へ向けて運ぶ。

 小さく開いた唇。リップで手入れされた淡いピンク色の唇が、可愛く動く。

 ふと、自分の口内から食べ物が消失していたことに気づいた。

 視線を下げ、給食を見つめる。

 トムヤンクンを新たに掬い、口内へ。

 何気なく噛んだ一口目。突如、トマトの旨みが口の中に広がった。

 そんな馬鹿な。トムヤンクンを飲み込む。

 更に、一口。

 程好い酸味の中にある甘み。こんなに旨かったのか?

 急いで、もうひと掬い。

 ひよこ豆の食感すら、旨みへと変わっていた。

 なぜか今日の給食は、今までで一番美味しかった。




 ◇◇◇◇◇




 給食の後。校舎や運動場が騒がしくなる時間の昼休みに里咲さとざきは、運動場にはいかず。

 図書室の中にいた。

 長い机が2脚、1脚の机にパイプイスは22脚。合わせて44人が座れる。

 出入り口そばの特設コーナーには、賞を取った一般文芸書が置かれてあった。

 しかし、それに興味を示す生徒はいない。

 図書室には13人いるが、純粋に読書をしているのは里咲を含めて数人だけだ。

 他の生徒は、図書室の机で勉強していたり、紙に描いた将棋盤で紙製駒を動かしていた。


 新たに1人の女子生徒が、図書室へ足を踏み入れた。

 眠っていた男子生徒が、扉の閉まる音で頭を上げる。その生徒は直ぐ、机に頭を突っ伏す。


 佐枝は、なんとなく小説を読みたい気分だった。真っ直ぐ、特設コーナーへと向かい。

 警察小説を手に取った。図書室を見回した佐枝は、見知った人物の背中を発見する。

 少し驚かせてみようという。彼女にも良く分からない悪戯心が芽生え、そっと里咲の後ろから近づく。

 里咲の左肩を彼女が、トントンと2回叩き。わざと当たる場所に右人差し指を伸ばしておく。

 右人差し指の先端が、振り返った里咲の左頬に少しだけめり込んだ。

「さ、枝さん?」間髪入れず。

「どう? びっくりした」

 言い終わってから、右手を引っ込める。

「あの」「隣、いい?」

 ほぼ同時に2人は声を発した。

「……どうぞ」少し困惑した表情で里咲は答える。

「ありがと」

 机に小説を置き。

 後ろからスカートを両手で押さえながら、柔らかいクッションがつけられたパイプイスに腰を下ろす。

 本を広げた佐枝はちょっぴり後悔していた。嫌な思いをさせちゃったかなという想いが頭の中をぐるぐると回り続ける。


 結果、読書に集中できず。更に考え込むことによって本の“扉”より先に進めずにいた。


「あ……、あの。さっきのことは、気にしてないですから」

「そう……」

 同意しつつ、佐枝は前のめりになる。

「中学生の時期って、未成熟だと思いませか。世の中のことを知った気でいるけど、本当はそうじゃない」

「えっ?」里咲の話が気になり、顔を持ち上げた。

「勉強してなんになるんだろう。道徳なんて無駄。運動しても、社会の中じゃ役にたたない」

「そんなことない! 未来の自分のために、わたしたちは勉強するんだと思う」

 図書室にいるほぼ、全ての人物から視線を向けられる。

「ごめん」

 先に謝ったのは、里咲だった。

「言葉が足りなかった。そんなことを中学1年の時に思ってた」

「あ、そうだったの。今、じゃないんだね」

「でも良かったー。意見に同意してくれなくて」

 佐枝は右を向き、里咲を見守る。

「若し、その勉強が社会じゃ役に立たなくても。勉強して知識にしたことに意味があるんだと分かったんです」

 相づちを打ち始めた。佐枝へと里咲は顔を向ける。

「小説は新しい世界を魅せてくれて、新しい知識や発見をくれる。若しかしたら小説は映像すら超える地力を具えているのかもしれない――」

 話しが終わるまで、彼女は何度も相づちを行なうのだった。




 ◇◇◇◇◇ 




 帰りのホームルームの中間で全員にプリントが配られた。

 里咲はそれを観る。

『SNSの正しい使い方』と一番上に、赤文字を白枠で囲って書かれてあった。

 複数の生徒が、数週間前に通信会社の人が来てスマートフォンの利用について。

 授業を行ったことを思い出す。

「プリントは、ちゃんと持って帰り。必ず、親と一緒に見てください」

 理科の担任を務める先生が、2年2組の担任である。

 女性教諭は、その後。お別れの挨拶を行うよう。当番に声を掛けた。

 お別れの挨拶が終わり。教室から、少しずつ生徒が減り始める。

 通学鞄に布製の筆入れを突っ込んだ里咲は、翔悟(しょうご)と一緒に下校する予定だ。

「おい、晟冬(せいと)。何ぼけっとしてんだよ、早く帰ろうぜ」

 右から近づいてきた翔悟に、返事をする。

 2人は教室の外に出た。

「明日から3連休。よし来たって感じだ。でもって土曜日は地獄の学校があるぜ……どうした晟冬せいと? 元気ねえな」


 右の廊下で、吹奏楽部の女子生徒が譜面台を立てる。

 少し離れた場所から、金管楽器の練習音が流れてきた。

「部活始まってんな~、帰宅部の俺らには関係ねえな」

「……そう、だな」

 先に校舎の階段を降りた翔悟は、階段前で立ち止まっていた晟冬を見上げる。

 里咲は、溜め息を大げさについた。

「なんだよ、恋する乙女の溜め息かよ。え? マジでどうした晟冬」

 階段を急いで降りる。

 左に曲がり。更に階段を降りが、里咲はうっかりバランスを崩す。階段の段は地面まで残り、6段と言ったところだ。

 数人の生徒が彼に視線を向けた。

 不本意ながらも、階段で跳んでしまったがなんとか地面に着地する。両足に降下した分のダメージが、加えられた。

「大丈夫かよ、考え事なんかしてっからだよ晟冬」

「彼女のこと。好きになったかも……」

「誰を? えっ? どういう意味だよ」

「秘密だっての」

 靴箱に走って向かった里咲を、翔悟は同じ速さで追いかけた。

 ちょっとした日常でふざけ合える仲間がいて、楽しい日々。それもまた学校の魅了なのだろう。

 一週間に一度の掲載予定。

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