4 ここでの価値
五日目
奴隷となり必死に毎日を生き抜いてきたが、この日は僕にとってここでの奴隷の在り様をはっきりと認識させられる日となった。
その日も僕はいつも通り鉱石を採掘しては運ぶという作業を繰り返していた。
昼に与えられる休憩時間までは何事もなく過ぎていたのだが、それは昼の食事を与えられる時に起きた。
オークから食事を受け取る際に奴隷の一人が誤って水の入った器を落としてしまったのだ。
しかも、運の悪いことに零れた水はそれを渡したオークの身体に思い切りかかってしまった。
その瞬間、周りはシンと静まり返り、一拍置いた後その奴隷の近くにいた他の奴隷達は波が引く様にすぐにその場から距離を取った。
水を零した奴隷は一瞬で顔を真っ青にし全身を震わせている。
許しを請おうとでもしたのか、その奴隷が膝をつこうと地面に屈み始めるとその動作が終わる前に水をかけられたオークが嫌な音を響かせながら奴隷を殴り飛ばした。
殴られた奴隷は十メートル以上も飛ばされ、受け身も取れずに地面に落下し、そのまま何メートルか転がった後ようやく動きを止めた。
――死んでしまう。
そう思って殴り飛ばされた奴隷を見ていると、奴隷の首の辺りが淡い緑の光を発し始めた。
少しして光が収まると奴隷の身体が僅かに身じろぎしたのが見えた。
まさかあれを受けて動けるのかと思い驚愕して見ていると、ふとリザンさんの話を思い出した。
(あれが自動回復魔法……)
確実に致命傷だったはずなのに数秒で回復させるとは、とんでもない機能である。
驚きと恐怖、そして少しの感心の気持ちで思考を続けていると、先程奴隷を殴ったオークが殴り飛ばした奴隷に近づいて行く。
奴隷の髪を掴んで持ち上げると他のオークに向かって何かを吼えた。
するとオークの中から数体が出てきて近づいていく。その中には鞭や棍棒を持った奴もいる。
まさかと思いオーク達の行動を見ていると、奴隷を持ち上げているオークが奴隷を頭から地面に叩きつけた。するとそのオークは鞭を持ってきたオークから鞭を受け取りそれを頭上に振り上げる。
やめろ、と思う間もなくオークは鞭を足元の奴隷に向かって思い切り振り下ろす。
「ぎゃああああああぁぁぁぁ⁈」
鞭が奴隷の背中を強かに打ち付けた瞬間、肉を打つ激しい音と耳を塞ぎたくなるような絶叫が奴隷の口から響き渡る。
だが痛みに呻く奴隷の事など無視してオークは更に二度三度と鞭を振り下ろす。
それだけでは終わらず、今度は棍棒を持ってきたオークがそれで奴隷の手足を叩きつけ骨を砕いていく。
目の前で繰り広げられる残酷で悲惨な光景から目を逸らすことも出来ず涙を流し身体を震わせながら、少し前までなら考えられない光景を見つめる。
他の奴隷たちは皆拷問を受けている奴隷から目を逸らしており、助けようとするどころかあの惨劇がとばっちりで自分の身に降りかからないようにどんどんその場から離れていく。
それは仕方がないことなんだろう。歯向かおうと思ったところで隷属の首輪のせいで奴等には危害を加えられないし、そんな事をしようとすれば次は自分が拷問を受けるのだ。こんな地獄で他人を助ける余裕はない。
そうやって僕は他の奴隷と同じ様に目を逸らし自分に言い聞かせながら、いつもより短い休憩の後午後の作業に取り掛かる。
オーク達による拷問は午後の作業に入っても一向に終わらなかった。
僕達は鞭が皮を裂き肉を抉り、回復する度に骨を砕く音と奴隷の止むことのない絶叫を背中で聞きながら作業を続けた。
奴隷の叫びが上がる度に耳を塞ぎそうになるが作業の手を止めるわけにはいかない。嗚咽が漏れ、視界が涙で滲む。だがこれは拷問を受けている奴隷を想っての涙ではない。いつ自分が彼と同じ立場になるかを考え、恐怖した故の涙だ。己のことしか考えられない自分に醜さと吐き気を覚える。
自分への嫌悪感で更に涙が溢れる中、今日が早く終わることを願いながら僕は懸命に目の前の岩を砕き続ける。
ついこの間まで平和な日本で暮らしていた僕には今日の出来事はあまりにも衝撃的な経験だった。
結局拷問が終わったのは日が暮れてその日の作業が終わる頃だった。
拷問を受けた奴隷は辛うじて生きているようだが起き上がる気配は無く倒れ伏している。
その時僕の目にふとあるものが目に入った。それは鞭打ちのせいで服が破けて露わになった奴隷の背中だ。
そこには、ここに連行された日に背中に焼き付けられる奴隷の証が存在していた。
自分の背中にも存在するそれを見たとき、己の運命を嫌と言うほど理解させられ、心に重く重く圧し掛かってくる。
(何が、『どうせなら格好いい模様がいい』だ! 僕は馬鹿か! こんなもの今すぐ剥ぎ取ってでも捨て去りたい!)
過去の呑気な自分に罵声を浴びせていると、拷問を受けた奴隷がオークに引きずられてどこかに連れて行かれた。
――生きたまま奴らの餌にされるらしいぞ。
連れて行かれる奴隷を眺めていると、脳裏にリザンさんの台詞が蘇った。
体中にゾッと震えが走る。
呼吸が乱れ、眩暈を感じて倒れそうになる。辛うじて体を支え奴隷を凝視していると、一瞬その奴隷と目が合った。
きっと偶然だったんだろう。だけどその一瞬のうちに垣間見た助けを求めるような、何かを懇願するような視線が僕の頭から離れなかった。
牢屋に戻ると食事を取ることもなくすぐさま横になる。すると僕が戻って来たのに気づいたのか、いつもの様に壁の向こうからリザンさんが声を掛けてきた。
「よお、お疲れさん」
でも今の僕は返事をする気にもなれず、黙り込む。
「んん? どうした? 帰って来たんだろ? はっはぁ、今日はいつにも増して御疲れかい?」
しかし、リザンさんの方は僕の返事が無くてもお構いなしに勝手に喋りだした。
正直、今日は放っておいて欲しい。
あの拷問の光景と最後の奴隷の目が頭から離れず、今でも僕の心を気持ちの悪さと嫌悪感で蝕み続けている。
少し経てば飽きるだろうと聞き流していたのに一向に終わらない。最初は好きに喋らせていたが、段々それすらも煩わしくなってきて遂に僕は声を上げる。
「……リザンさん。今日は静かにしてくれませんか」
「おっ、やっと返事が返って来たと思ったらどうした? いつもの様に色々と教えてやるぞ?」
「いえ……、いいんです。今日は疲れたからもう休みたい」
これで放っておいてくれるだろうと思ったが、リザンさんはなかなか引き下がらなかった。今度は疲れた理由を聞いて来る。
「おいおい、まさかツルハシを二本同時に振りまわしでもしたのか? そりゃあ止めとけ。逆に効率は落ちるし疲れるだけだからな」
「いや、そうじゃなくて……」
「じゃあ、あれか? 昼飯のパンを自分で踏んづけて食えなくなったとかか? はっはっは! そりゃあ間抜けな話だ!」
さっきからふざけたことばかり抜かすリザンさんに段々腹が立ってきた。誰がツルハシを二本も振りまわすか! 大体パンだって踏みつけるまでもなく最初から汚れているじゃないか!
さすがに我慢の限界が訪れ怒鳴りつけるため口を開く。
「いい加減に――」
怒鳴りつける、その瞬間。
「それとも、奴隷の現実をようやく理解したか?」
――⁈
先程までのふざけた口調から一転し、どこまでも真面目な声音で放たれたリザンさんの言葉に続く台詞を飲み込んでしまう。
「……」
僕が黙り込むことしか出来ないでいると、リザンさんの方から口を開いた。
「図星か。奴隷が食われるところでも見たか……、いや、その様子じゃ拷問を目の当たりにしたな」
その通りだった。自分が悩んでいることを当てられた驚きと、それを淡々と言われたことに少しの苛立ちを感じる。
「……何でわかったんですか?」
「簡単だよ。今までお前が入ってる牢屋にいた奴らも大体同じ反応してたからな」
今までこの牢屋を使っていた奴隷達も僕と同じだったのか……。
その人たちの気持ちを想像し僕は更に落ち込む。
「あなたは何でそんな平気そうなんですか? 拷問を見たことがないんですか?」
いつも気楽な様子で話すリザンさんに気になったので問いかけてみる。
「いや、俺も見たことはあるぞ。拷問どころかオークやゴブリンどもに奴隷が食われる瞬間もな」
「なっ!」
馬鹿な。だったら何でそんなに平然としていられるんだ。
「ん? 俺が平気そうなのが気になるのか?」
僕が気になったことをズバリ言い当てられた。
「別に俺だって最初から平気だった訳じゃない。初めて食われるのを見たときは飯を吐いたしな」
そうは言うが、今の様子からはそんな風には感じられない。
「人の適応力もなかなか馬鹿に出来なくてな、どんだけ残酷で悲惨な光景を見てもそれを何度も何度も繰り返せばいずれは慣れるのさ」
僕は絶句した。このいつも呑気でふざけた雰囲気の抜けない男が、自分とは比べものにならない程の過酷な経験をしていると知って。
「ここで生きていくには慣れることが一番さ。まあ、あんな光景に慣れるっていうのは人が持ってる何かを失うってことかもしれんがね」
そうかもしれない……。人として大事なものを捨てれば今までよりも楽になれるのかもしれない。でも――
「まあとりあえず今日のところは良かったじゃねえか。拷問を受けたのが他の奴隷で」
良かった? 良かっただって⁈ リザンさんの言葉に瞬間的に頭に血が昇る。
「どこがいいっていうんだ⁈ 少し水が掛かっただけだぞ! それなのに無抵抗の奴隷を何度も何度も痛めつけて! あんなのが許される訳がない!」
リザンさんに対して叫ぶのはお門違いだとわかっているが、止めることは出来ず敬語も忘れ激情に任せて吼える。
対してリザンさんの方は冷静だった。
「でもな、奴隷が拷問を受けているのを見たとき少しでも思わなかったか? 『今拷問を受けているのが自分じゃなくて良かった』ってな」
「!」
リザンさんの言葉が刃となって胸に突き刺さり、血が昇っていた頭が急速に冷えていく。
「思ったんだろう? 今お前が怒ったのは自分の身の安全を喜んでしまった罪悪感からってところか?」
どこまでも的確な指摘に何も言えなくなる。
……その通りだ。
僕はあの時己の無事を喜んだ。目の前で拷問を受けている奴隷よりも我が身が可愛かった。それを認めることが嫌でリザンさんに対して偽善の叫びを放ったのだ。
だがリザンさんには全てお見通しだったようで、ただ恥を晒しただけである。
「自分の身の安全を考えるのは悪いことじゃないし、他の奴隷達も考えていることだ。誰にも責められないさ」
慰めだろうか? 黙り込む僕にリザンさんが落ち着いた声音で声を掛けてくる。
「……怒鳴ってすみませんでした」
一応謝っておく。
「はっはは、気にするな」
いつもの呑気な様子に戻り彼は許してくれた。こういう事があると大人との差を感じる。
「……ここから出たいな」
本音が零れる。
「……そうだな。まあ諦めなければチャンスがあるかもな」
「チャンスって……どんなですか?」
「もしかしたら周辺諸国が連合軍でも結成して攻めて来るかもしれないぞ。そのどさくさに逃げるとか」
「どれ位の可能性があるんです?」
少し考える時間を置いた後、リザンさんは自信無さげにぼそりと呟く。
「……二割位?」
全然駄目だった。しかも疑問形だ。
「なんでそれっぽっちしかないんですか? 魔王が関わってるんだから各国で協力して討伐しようとか思わないんですか?」
危機感が無さ過ぎだと思うんだけど。
「あ~、そういやお前さんは山奥で暮らしてたんだったな。それじゃ各国の情勢には疎いか」
「え、ええ」
危うく「なんのことです?」と聞き返しそうになってしまった。気を付けなければ。
本当は疎いとかいうレベルじゃないんだけど黙って続きを促す。
「まあ、簡単に言うとどこの国も人同士で争ってて魔王どころじゃないんだよ。会議ばっかり繰り返して実際の対策は全く進んでない。もちろんまともな奴らもいるぞ。共通の敵が目前に迫ってるんだから今は協力するべきだってな。だが目先の利益しか見ることが出来ない一部の馬鹿な国と重役のせいで足並みが揃わん」
そういう奴らは異世界共通でいるんだな、と妙な納得をしてしまった。
しかし、放っておけばいずれ取り返しのつかない事態に発展するかもしれないというのに何を考えているのか。馬鹿共に対して沸々と怒りが湧いてくる。
「まっ、そういう訳で周りに期待は出来ないな。自分でどうにかするか奇跡でも起こるのを待つしかない」
リザンさんは溜息を吐きながらそう締めくくった。
「奇跡か……」
そんなものこの世に本当にあるんだろうか。あるとしたら誰が起こしている? 神様か?
ならこの現状を見て何故未だに奇跡を起こさないのだろうか。
「ハイジ」
神の有無を考えているとリザンさんが再び声を掛けて来た。
「なんです?」
僕が聞き返すと壁に開いた穴からころんと何かが転がって来た。
何だ? と思い拾い上げて見てみるとそれは丸い形をした真っ白な石の様だった。
「何ですかこれ?」
僕が聞くとリザンさんは苦笑を漏らしながら言った。
「まあお守りみたいなもんだ。昔、遺跡調査の任務の時に見つけてな。もしかしたらそれが奇跡を起こしてくれるかもしれんぞ。まっ、俺には何も起こらなかったけどな」
最後の一言は余計だった。
「ありがとうございます……」
「おう。んじゃ俺は寝るわ」
僕は受け取ったお守りをポケットに仕舞い込み自らも横になる。
奇跡という形も定かでないものに頼らなければならない現状に不安と悲しみを募らせながら僕は静かに目を閉じた。