1 異世界へ
瞼をチリチリと焼く日差しの感覚に沈んでいた意識が浮上する。
どうやら僕はどこかに仰向けに寝転がっている様だ。
ゆっくりと目を開けると途端に差し込む太陽の眩しさに目を細めながら、しばらくそのままボーっとしていると意識を失う前の曖昧だった記憶が段々とはっきりしてきた。
(そうだ……、確か女の子を助けるために飛び出して僕はトラックに轢かれたはず)
はっきり思い出した瞬間、思わず背筋に震えが走った。
(どういうことだ? 死に損ねて今は路上にでも転がっているんだろうか?)
疑問に思いながら体の方は無事なのかと思い意識を体の隅々まで伸ばしていく。
どうやらまだ五体満足でいるようでほっとする。
だがそこまで確認したところで今度は何故無事なのかと戸惑う。
(なんで無事なんだ? 目で見た訳じゃないからはっきりわからないけど、どこも怪我らしい怪我をしていないようだし。トラックに跳ね飛ばされたんだから少なくとも骨折くらいはするよね? それに目が覚めてから結構時間が経っている筈なのに誰も近づいて来ない)
全くの他人ならいきなりの事態に気後れして近寄ることを躊躇うかもしれないが、すぐ傍には愛菜がいたはずだ。彼女なら誰よりも先に駆けつけてくれると思うのだけど。
とりあえず周りの状況を確認しようと思い、体を起こすために両手を地面につく。
カサリ。
だがそこでまたも僕の中に疑問が生まれた。
記憶が確かなら今僕が横たわっているのはアスファルトで覆われた硬い地面のはずだ。でも、今の感触は明らかにそれとは違う芝に手をついたような柔らかい感触だった。
何故? と思いながら体を起こすとそこには僕の混乱に拍車をかける光景が広がっていた。
僕が今いる場所は辺り一面に背の低い草が生えている草原だった。少し離れた所には鬱蒼と生茂ったかなりの広範囲に広がる森がある。
「はあ?」
なんだこれは。何故僕はこんなところにいる?
あまりにも訳のわからない状況に思考を放棄しかけたけど、なんとか踏みとどまり今の状況に考えを巡らす。
(いや、考えてもわからないよ……!)
もしや夢! と思い、腕を抓ったり頬を叩いてみたが痛いだけで夢から覚めることはなかった。
(何をしてるんだ僕は……)
自分のしていることを虚しく感じ、一つ溜息を吐いた後もう一度辺りを見渡す。周りには自分以外誰もいない。
(現実……だよね)
未だに理解できないけど現実逃避するわけにもいかないので、一先ずこの状況を現実と受け入れよう。普通なら混乱に陥り右往左往するしかないんだろうけど余りのあり得なさに心が一周して逆に落ち着いてしまった。
(とりあえず人を捜そっか。今いる場所くらいは知りたいし)
人を見つけて話をしても信じてもらえるかわからないし、下手したら頭のおかしい奴と思われるかもしれないと心配になるけど行動に移る。
(さて、人を捜すにしてもどっちに向かえばいいのか……)
周りを見渡しても地平線の彼方まで草原が続くばかりで何もない。唯一僕の背後には森が広がっているけど今の装備で森に入るのは躊躇われる。
ちなみに今の僕の格好は上下が半袖半ズボンでポケットにはハンカチ一枚とポケットティッシュ一袋。財布はランドセルの中に入れておいたのだけどその鞄は無い。
「うぐ……」
思わず泣き言が口から漏れそうになるが助けてくれる者は誰もいないのだ。ここはグッと堪える。
「はあ……」
草原を進んだとしても地平線の彼方まで草原が続いているのだ。もしかしたらあの先も続いているかもしれないことを考えると水すらない状況ではきっと途中で力尽きてしまう。でも森に入れば川が流れているかもしれないし、果実などの食料を採れる可能性もある。運が良ければ森を抜けた先に街や村があるかもしれない。
希望的観測に過ぎないけど遙か先まで続く草原を当てもなく歩き続けるよりはいいんじゃなかろうか。
そうと決めた僕はさっさと行動に移すことにした。
僕は希望と不安を抱きながら森へと歩を進める。
森の木々が僕の頭上を覆う中、森を探索し始めてからすでに二時間ほどは経っただろうか。
未だに水や食料になる物を見つけられずにいた。
時間ばかりが無為に過ぎていき、焦りや緊張で肉体ばかりでなく精神的にも疲労が溜まっていく。さらに生茂った木々により日差しが全く射さないため暗く、ジメジメとした雰囲気が追い打ちをかけてくる。
(まずい……。せめて水だけでもなんとかしないと)
重くなりがちな足を引きずりながら懸命に前に進む。
すでにそれなりに森の奥深くまで入り込んでいるためもはや後戻りしてあの広大な草原を進むつもりは無かった。ここで何とかしなければ。
ガサガサ。
悲壮な覚悟を決めて森を進んでいると不意に横手の茂みから物音がした。
ビクッとして反射的にそちらに顔を向ける。
野生の動物だろうか。何らかの気配は感じられる。
突然の物音に驚きや恐怖を感じると同時に僅かな安堵も感じていた。
森の中に入ってから動物はおろか虫すらも見当たらなかったために、自分一人だけ世界に取り残されたような孤独感に襲われていたのだ。姿は見えなくとも他の存在を感じることにどこか安心感のようなものがあった。
だがそんな感情は茂みから出てきた生物を見た瞬間どこかに吹き飛んでいった。
それは体長三十センチ程、全身は白くふさふさとした毛に覆われている丸っこい生き物で、目は赤く染まりまん丸でくりっとしている。頭と思われる部分からは細長い耳が二本ついていた。
これだけならば日本でも見られるウサギに思えただろう。だが、ただのウサギとは決定的に違うものがそれにはついていた。
それは両耳の間から伸びる三十センチ程の円錐型の物体だ。
(あれって、角……だよね? なんでウサギにあんな物が?)
訝しみながら観察しているとウサギらしき生物も僕に気付いたようで、そのくりくりした目をこっちに向けてじっと見つめてきた。
少しの間お互いに見つめ合っていると不意に僕の背筋に悪寒が走った。
何故かはわからないけどその赤い目を見つめていると、なんだかウサギもどきに餌に対する品定めをされているように感じてしまったのだ。
無意識の内に一歩後ずさる。
するとウサギもどきは赤い目をスッと細め、その丸い体をさらに丸めるように体を縮めた。
――やばい。
そう思うと同時にウサギもどきが角を突き出し僕に向かって凄まじい勢いで駆け出した!
「!」
咄嗟に体ごと横の地面に投げ出すと、ウサギもどきの角が体に触れる寸でのところで回避に成功する。
目標を見失ったウサギもどきはそのまま背後にあった木に向かって突っ込んで行った。
ザグン!
大きい音を立てながら角が木に突き刺さり、ウサギもどきの動きが止まる。
ほっ、と安堵の息を吐くのも束の間、ウサギもどきは刺さった角を引き抜いて僕に向き直りまたも突進体制に入る。
「また⁈」
突進に備えてこちらも身構えると、ウサギもどきが先程と同じように突っ込んできた。
(スピードはあるけど真っ直ぐ突っ込んでくるだけなら避けられる!)
またも体ごと投げ出し、先程よりも余裕を持って突進を避けることに成功する。
(よし!)
こころの中でガッツポーズを作る。が、次の瞬間ウサギもどきが思わぬ行動に出た。
さっきのように後ろに駆け抜けて行くかと思いきやその寸前で急制動を掛ける。さらにその脚力にものを言わせて僕が避けた方に向かって飛び上がってきた。
「なっ!」
予想のしていなかった動きに回避が遅れる。
咄嗟に体を捻ってかわそうとしたがウサギもどきの角が左腕を掠めていった。
「ぐうっ!」
掠った左腕を押さえながら無様に地面を転がり、なんとか起き上がる。
角が掠ったところから血がたらりと腕を伝って地面に落ちる。
「ギギャ!」
またも獲物を仕留められなかったウサギもどきは不機嫌そうにこちらを睨みながら、その容貌に似つかわしくない凶暴な鳴き声を上げる。
(こ、殺される……!)
体はこちらの方が大きくとも、ウサギもどきからは捕食者としての確かな威圧感が感じられた。
そして自分が捕食される側だと理解した瞬間、僕はとてつもない恐怖に襲われる。
ウサギもどきが三度目の突進体制に入ろうとしているのを見てすぐさま逃走することを選択。
近くに落ちている石を拾い上げてウサギもどきに投げつける。それに僅かに怯んだ隙に背を向けて全力で駆け出した。
何も考えずにただがむしゃらに走り続ける。
もはや道など全く覚えていないがさらに走る。
全力で走り続けて息も絶え絶えになった頃、ようやく立ち止まった。
「はあっはあっはあっ!」
胸が苦しい。肺が酸素を求め、心臓が暴れまわり音が聞こえそうなくらいだ。
背後を振り返りウサギもどきが追ってこないのを確認すると、僕は安堵すると共にたまらずその場で腰を落としてしまう。
「はあーはあー、げほっ! はあー……ふう……」
なんとか呼吸を落ち着かせて体の力を抜く。
「た、助かった……」
あのウサギもどきはなんだったのか。少なくとも日本にあんな生物はいないはずだ。いや、日本どころかそもそも地球上に存在するんだろうか?
頭の中を今起きた出来事がグルグルと駆け巡る。
(トラックに轢かれたと思ったら知らない場所で目が覚めて。森の中では見たこともない生物に襲われて……。これってもしかして……)
僕の中にある予感が浮かぶが、決めつけるにはまだ早いとその予感を振り払う。
(あんなのがいるんじゃ迂闊に歩き回れない。それにメチャクチャに走ったせいでどっちに向かえば森から出られるのかもわからないし……)
途方に暮れているとどこからか土を踏みしめるような音が聞こえてきた。
またウサギもどきかと体が緊張するが、僅かながら話し声のようなものも聞こえる。
(人だ!)
そう確信すると疲れた体も気にならずに、すぐに起き上がり声の聞こえてくる方に駆け出す。
でも、僕はこの時もっと慎重に行動するべきだった。
肉体的にも精神的にも限界が来ていたため仕方がなかったとも言えるが、普通じゃない生き物が生息している森に来るような奴らがどういう奴か確認するべきだった。
そしてこの行動が僕の運命を決めてしまった。
茂みを掻き分けてどんどん進んでいくと段々と人の気配も大きくなってきた。
気配が大きくなるに連れて僕の中の希望も大きくなり、自然と歩く速度も上がっていく。
「――、――?」「――、――、――――」「? ――、――」
すでに微かながら声が漏れ聞こえるまでに近づいている。
(助かった!)
僕は躊躇うことなく最後の茂みに体ごと突っ込み、突き抜けると共に叫ぶ。
「すみません、助けてください! 森の中で変な生き物におそ……わ……れて……」
だが、救援を叫んだ声は段々と小さくなっていき、ついには途切れてしまう。
その原因は目の前の人物達にあった。
僕が飛び出た先にいたのは四人の人物だった。
四人とも確実に二メートルは超える体躯に、腕や足にはがっしりとした筋肉がついているのが剥き出しの肌からわかる。服装は日本ではお目にかかることはまずないだろう鋼の輝きを放つ金属製の鎧を胴体の部分だけに身に着けていて、下半身は動物の皮か何かを巻いてあるだけだった。そして彼らの手には柄の部分が彼らの身の丈の倍程で先端に鋭い刃が付いた槍を持っていた。
この姿だけでも動揺はするが、それでも何かの部族なのかもしれないと、なんとか納得できたかもしれない。
だがそれで済ますことの出来ない特徴を彼らは持っていた。
そう、彼らの首から上は人の顔ではなく醜悪に歪められた豚面だった。
それを見た瞬間僕の思考が吹き飛ぶ。もはや理解の範疇を超えていた。
「――――。――」「――」
呆然として立ち尽くしていると、目の前の豚人間達は僕を見ながら何事か話し合っているが言葉が通じず何を言っているのかわからない。
すると豚人間の一体が僕に向かって歩いて来た。
(!)
頭の中では警鐘が鳴り響くが、体が硬直してしまい動けない。
この期に及んでも頭の片隅で「もしかしたら助けてくれるかもしれない!」などと少しでも考えている自分を体が動かせるのなら殴り飛ばしたかった。
豚人間は立っているしかできないでいる僕の前まで来ると、その簡単に人でも殴り殺せそうな拳を開いて僕の頭を鷲掴みにして持ち上げる。
「うがっ!」
そこまできてようやく体を動かせるようになった僕はメチャクチャに腕を振り回したり足を振り上げて蹴りつけるが豚人間はビクともしない。
僕の抵抗など歯牙にも掛けずに仲間の元に運んで行くと、いきなり地面に放り投げられた。
「がっ!」
逃げなければと、慌てて起きようとする。
「かはっ!」
だが、今度は背中を踏みつけられてまたも身動きが取れなくなる。背中を踏まれた衝撃で肺から空気が吐き出されて苦しい。
僕を踏みつけているのとは別の豚人間がどこからか縄を取り出し僕の両手両足を縛り上げてしまう。なんとか縄から抜けようともがくがびくともしない。
完全に高速された僕を豚人間は抱え上げて近くに止めてあった大型トラック一台分程の面積がありそうな車輪付の荷台に放り込んだ。
あまりにも雑な扱いで荷台に放られたときに後頭部を床に打ち付けてしまった。
少しの間、頭の痛みに悶絶してから目を開けると荷台の上には僕と同じように体を拘束された何人もの男女の姿があることに気付いた。
その中に僕の目を引く者達が存在した。
よく見ると彼らの中には頭の上から何らかの獣の耳や、腰の辺りから尻尾を覗かせている者がいたのだ。
その種類も多種多様で、見覚えがある耳や尻尾を着けた者もいれば全く見たことのないものを着けた者もいる。
だが、さまざまな種族が入り混じっているこの空間で、彼らに共通していることが一つだけあるとするならそれは彼らの目だろう。
誰も彼もが希望を失ったように眼差しからは光が消えていた。
いきなり荷台に放り込まれた僕を見ても一瞬だけですぐに視線を戻し俯いてしまう。
ガタン!
そのとき僕の乗っている荷台を微かな衝撃が襲ったかと思うと少しずつ前進し始めた。
上体を起こし前を見れば、狼のような(大きさは三倍くらいありそうだが)生物が二匹、荷台とかなりの太さを持ったロープで繋がれて引っ張っていた。
荷台の周りには囲むようにして、先程の豚人間がおそらく荷台を引いているのと同じ種類の狼もどきに一人一頭ずつ跨り進んでいた。
ここにきて僕は遂に確信した。
どうやらウサギもどきから逃げた後に感じた予感は間違ってなかったようだ。
(僕、本当に異世界転移したんだ……)
日本にいたときに同じ孤児院で暮らしている年上の子にそういった類の小説を貸してもらい何冊か読んだことはある。
だが小説の中の主人公と僕とでははっきりと違うことがあった。
(神様からチート貰えなかったなぁ……)
いきなり異世界に飛ばされ、森では餌にされかけ、挙句の果てには魔物に拉致されてどこかに連れていかれる始末だ。
どこに行こうとしているのかはわからないが、この荷台の同乗者の表情を見れば碌でもない所なのは確かだろう。
この先に待ち受けている未来に欝々な気持ちになり、さらにあまりの衝撃の連続で遂に精神に限界が訪れたようだ。叶うなら夢であってくれと願いながら僕の意識はそこで途切れた。