プロローグ
――何故こんなことになってしまったのか――
少年は自分を取り囲む壁を見つめながら想う。
唐突に奪われた自由を、大切な日常を、もう戻らない平穏を。
少年は憎む。
自分に恐怖と絶望を与えた存在を。
だが少年に出来ることは何もない。刃向かうことは許されない。
力を持たない少年に出来ることは奴らの目に留まらぬようにひっそりと従順に生きるだけ。
ガチャガチャ、カチ。
扉の鍵を開ける音がする。
少年を地獄に連れ戻す為に今日も奴らがやって来た。
扉が開かれる音と共に声を掛けられる。
「――。――――」
少年は奴らが何を言っているのかはわからない。だがするべきことは理解していた。
少年は逆らうことなくすぐに立ち上がり扉に向かう。逆らえばどうなるかは身を持って理解していた。
少年は暗い通路を無言で歩く。
今日もまた始まる。
奴隷としての人生が。
最後の授業の終了を知らせる鐘が鳴り響き、周囲で一緒に授業を受けていた生徒達が一斉に立ち上がり思い思いの行動に移る。
仲の良い友達の元に行きお喋りを始める者や放課後の遊びの予定を話し合う者、あるいは脇目も振らずにすぐさま家路に着く者など様々だ。
そしてそんな生徒達の中で御神ハイジは自分の机に一人ぽつんと座ってじっとしていた。
別にハイジに友達が居ないだとか無視されている訳ではない。クラスメイトとは普段お喋りもするし、休み時間には一緒に校庭に出て遊んだりもする。
今ハイジが他の生徒に交じらす一人で居るのには理由があった。
それは──。
「ハイジ君、お待たせ!」
その時教室の扉からハイジを呼ぶ声が上がり、それに気づいたハイジがそちらに顔を向ける。
そこにはハイジにとって見慣れた少女、白銀愛菜の姿があった。
そう、ハイジは授業が終わったあと、彼女が来るのを待っていたのだ。
愛菜の姿を確認したハイジはランドセルを担ぎ、教室の出口に向かう。
「ごめんね。こっちの授業長引いちゃって」
ハイジが愛菜の前まで行くと、待たせたことを少ししょんぼりしながら謝ってきた。
「たいして待ってないんだから気にしなくていいよ」
実際ハイジは自分のクラスの授業が終わったあと、ほんの五分程しか待っていなかった。だから気にするなと微笑みながら明るい口調で言うと気持ちが伝わったのか愛菜も微笑んだ。
「それじゃあ帰ろうか」
「うん」
二人で教室を出るときに幾つか男子の嫉妬の視線がハイジに突き刺さったが、過去に何度も経験して慣れていたハイジはスルーする。
まあ彼らが抱く感情も仕方がないと言えるだろう。
今ハイジと一緒に歩いている愛菜は、まだ十二歳にして老若男女全てを魅了する美貌の持ち主だ。
それだけでなく成績優秀、スポーツ万能で人当たりもいいときたら人気があるのは当然だろう。
彼女は二年前にこの学校に転校して来て以来、上級生下級生問わず毎月何人もの男子に告白されるようになったのだがその度に全て断っていた。
そんな美少女と特に仲が良い男子として有名なハイジは先程の様によく男子の嫉妬の対象になっていた。
愛菜と一緒にいるだけでも嫉妬の対象になるのに加え、本人は気付いていないがハイジ自身が女子にそれなりに人気があることも男子の嫉妬に拍車をかけていた。
ハイジの容姿は愛菜とは違い特別優れている訳ではない。しかし、愛菜に並び成績優秀で面倒見が良く、穏やかで他人に対して優しい性格が子供っぽさの残る他の男子と比べ女子に人気がある理由だった。
ハイジが他の同年代の子と比べ精神年齢が高いのは普段の生活環境が影響しているだろう。
ハイジは幼い頃に両親を亡くしており、それ以来孤児院に引き取られ生活してきた。そこでは基本的に身の周りことは自分ですることと、自分よりも小さい子の面倒を見なければならないため自然と面倒見の良さや思いやりが育まれることとなった。
そしてハイジの隣を歩いている愛菜。実は彼女も同じ孤児院で生活している。
愛菜もハイジと同じく両親が居らず、転校してくると同時にハイジの居る孤児院に引き取られた。
そんな二人が一緒に帰るのは珍しいことではないし、住んでいる所が同じなのだから当然だろう。だが今日は孤児院に帰る前に寄る所があった。
それは今日の夕飯の買い出しである。
孤児院で決められている役割の一つで交代制で行うことになっている。今日は二人が当番の日だった。
二人は商店街に寄り必要な食材の買い出しを済ませる。
その帰り道、いつもに比べ口数が少ない愛菜を不思議に思ったハイジが声をかけた。
「ねえ愛菜、何だか今日はやけに静かだけどどうかした?」
話しかけられた愛菜は驚いた様に目を丸くし何故か頬を少し赤く染めた。
「そ、そんなことないよ! いつも通りだよ」
明らかに様子がおかしいのだが本人がいつも通りと言っているので気にはなるがハイジは深く聞かないことにした。
「ああ~! そうじゃないでしょ私! 今日、ハイジ君に伝えるって決めたでしょ~!」
隣で愛菜がブツブツ言いながら唸っているのを横目にしながらどうしたものかと表情には出さずハイジが悩んでいるとふとある場所が目に映った。
「ねえ愛菜、あそこ」
依然としてブツブツ言っていた愛菜がハイジの声に反応して顔を上げる。
「えっ、何?」
ハイジが指さす方を視線で追っていく。そこにあったのは──。
「公園……?」
そう。何の変哲もない小さな公園だ。
「あっ」
最初はあの公園がどうかしたのかと首を傾げていた愛菜だったが、どうやらハイジの言わんとしていることに気付いたようだ。愛菜の顔に小さな微笑みが浮かぶ。
「懐かしいな。あの公園で初めて愛菜と仲良くなったんだよね」
「ふふっ。そうだったね」
遊具は滑り台とブランコしかない寂れた公園。今も親子と思われる二人組しか公園内には見受けられない。しかしこの公園は二人が仲良くなる切っ掛けがあった、大事な思い出が詰まった公園だった。
普段の帰り道ならば通りがかることはないのだが今日は買い物をした後いつもとは違う道を通って来たため久しぶりに目にすることになった。
二人は暫し思い出に浸り公園を眺める。
暫くの間二人で公園を眺めていると不意に愛菜がハイジを呼んだ。
「ねえ、ハイジ君」
ハイジが愛菜の方に視線を向けると彼女は頬を染めながらとても真剣な、何かを決意した表情でハイジをじっと見つめていた。
急な変化にハイジが戸惑っていると愛菜の口から続きが発せられる。
「今日はハイジ君に大事なお話があるんだ。今まで言えなかったことなんだけど」
なんだろうと思いながらハイジは続く台詞を待つ。
「わ、私ね、実は――」
愛菜がそこまで言った瞬間、ハイジの視界に何か動く物が映り視線が吸い寄せられた。
愛菜もハイジの視線の変化に気付いた様子で、若干不満そうながらも途中まで言いかけた台詞を中断しハイジの視線の先を追っている。
どうやら公園の入り口からボールが転がり出て来たようだ。車道上で動きを止めたボールを見ていると、すぐに持ち主だろう三歳位の女の子が公園から出て来てボールのもとまで向かう。
「もう、危ないなあ……」
愛菜は心配顔で飛び出して来た女の子を見ている。
確かに今回は二百メートル程離れた所からトラックが走って来ているだけで他に車の姿は見えないが、運が悪ければ轢かれていただろう。
女の子の方は自分の胴体程もあるボールを抱え上げるのに少し手間取っているようだがこの距離ならトラックの運転手も気付いてスピードを緩めるだろう。もしかしたら女の子はこっぴどく怒られるかもしれないがまた同じことが起きても困るし仕方がない。
「ね、ねえハイジ君?」
ハイジも愛菜と同じく心配顔で女の子に視線を向けているとどこか戸惑った様子の愛菜から声をかけられた。ハイジが振り返ると愛菜はじっとトラックの方を見ている。
「どうかした?」
「なんだかあのトラック変じゃない?」
「変?」
愛菜の言葉にハイジもトラックに視線を向ける。
一見すると特に変わった所はないように見える。
だが、よく観察するとおかしいことに気付くだろう。トラックと女の子の距離はすでに百メートルを切ろうとしているのにスピードを落とすどころか更に上がっているのだ。
ハイジはまさかと思い、他人より視力の高い両目を凝らしてトラックの運転席を見つめる。
するとどうやら嫌な予感が的中してしまったらしい。運転手は前を見ておらず俯いている。
ハイジの顔が一瞬で青褪め心臓が一際大きい鼓動を刻む。女の子の方に視線を転じればまだもたついていた。
それを見た瞬間、ハイジは荷物を放り出し女の子に向かって走り出す。
「ハイジ君⁈」
ハイジの行動に驚いた愛菜が叫ぶがハイジは振り返らずに女の子のもとに走る。
すでにトラックと女の子の距離は五十メートルに迫っている。
全力で駆けて女の子のもとに辿り着き、そのまま有無を言わさず抱きかかえる。
抱きかかえられた女の子は目を丸くしてハイジを見上げて来るが説明してる余裕はない。トラックはもうすぐそこまで来ている。
(早く歩道まで避難しよう。これならギリギリ間に合う)
だが、そう思って油断したのがいけなかったのだろうか。それとも焦って視界が狭くなっていたのか。
抱え上げた拍子に女の子が落としてしまったのだろう。
ハイジが歩道に向かって走り出した際に足元にあったボールを運悪く踏みつけてしまった。
普段ならそれなりの運動神経を持つためバランスを崩しても転ぶことはなかっただろう。しかし今は女の子を一人抱えてるうえに死がそこまで迫った極限状態だ。その焦りもあり、ハイジは体制を崩して膝をついてしまう。
「ハイジ君⁈ 早く逃げて!」
愛菜の叫ぶ声にも余裕が全く感じられないが、ハイジの心はすでにパニックに陥っていた。
ハイジの視界の端にトラックの影が過った瞬間、ハイジの脳内を不吉な物が過る。
――間に合わない。
そう本能的に理解した瞬間、ハイジは腕の中の女の子を歩道に向けて思いっきり突き飛ばしていた。
「きゃっ!」
女の子は驚いて短く悲鳴を上げているが他にやりようがない。
もうハイジは助からないだろう。あと一秒か二秒後には彼の身体は跳ね飛ばされて、無様に路上を転がっているはずだ。
確実に死んでしまうのを理解したためか、ハイジの心はやけに落ち着いていた。
最後に愛菜の顔が見たくなり、ちらりと彼女の方に視線を向ける。
愛菜はその美しい顔を焦燥に歪めハイジの方に手を伸ばしていた。
ハイジは愛菜にそんな顔をさせてしまっている自分が情けなく、愛菜が話そうとしていたことも結局聞くことが出来ず申し訳なく思う。
そこまで思考を巡らせ、視線を戻す。
すでに目と鼻の先までトラックは来ている。
死ぬ瞬間は目を閉じていようと思い、瞼をおろす。だが瞼をおろしきる前にハイジの眼前が白く輝き出した。
その輝きはあっと言う間にハイジの視界を埋め尽くしていく。
そして、それに驚く暇も無くハイジの意識は闇に沈んでいった。