可憐なそれ
■■■三章:可憐なそれ■■■
揺れる四輪駆動のバンの後部座席の車窓からは森が広がっている。
今にも吸い込まれそうな暗さが、昼過ぎだというのに森の奥には続いている。
綺麗に塗装されたアスファルトの道に砂利や砂が落ちているのか、タイヤからはたまに枯れた音が聞こえて来る。
車を運転している男は病院関係者らしい。どうするわけでもないけれど運転が荒いので気が抜けない。着慣れないスーツもまた感覚を敏感にさせる原因だ。
夕日先生の言葉を車の中で反復して思い出す。
検査の内容中心に思い出してから、本打ちの目的をどのように遂行するかを考える。とりあえず探し回れと言われても、割と本気で困る。
屋敷の構造を見た時、怪しげな空間が一回にあったのでその点から中心に探すことにする。三階建てで横に広い屋敷なのである程度検討をつけなければ。
「ほら、もう着くよ」
「はい」
車の直線状に、豪奢な屋敷が見えた。あの夕日先生が豪邸と言うだけの事はある。和式と言うよりも洋式、特にフランス様式に見える。
車がこれまた豪華な門を潜り、屋敷の円形の駐輪のようなロータリーの様な所で降ろされた。
「じゃあ、明日の昼ごろ迎えに来るから」
「お願いします」
今日は一泊する予定がある。翌朝の検査結果も必要というのが理由らしいが、多分今回の件で動きやすくしてくれたのだろう。
これから葵を助け出す。
そう思って二メートル半ほどある扉に向かって踵を返した。
ぎぃ、と扉が開くと執事だろうか、燕尾服を着た白髪の使用人が現れた。
「お待ちしておりました。お荷物をお持ちしたします」
「いえ、おかまいなく」
手荷物には医療機器だけだが、この屋敷の見取り図も入っている。無暗に渡さない方が良い。
「ではお嬢様がお待ちです。こちらへ」
そう言うと屋敷の中に案内された。
屋敷の中には豪華な装飾の他に、いちいち高そうな家具や小物が見えた。発条式の時計、アンティークを基調とした花瓶や燭台、シャンデリア。何より目立つのは赤い絨毯である、踏むと柔らかい感触が靴越しに伝わってくる。
周囲の装飾に見とれたフリをして屋敷の構造と見取り図の内容と照らし合わせる。やはり不審な点はあの一階の黒塗りの部分だけだろう。その付近に差し掛かったあたりで、別の部屋に案内された。
食堂。と言うべきだろうか、本物の長いテーブルを見たのは初めてだ。十、十二……上下(?)を合わせて十六人掛けのテーブルか。白く綺麗なテーブルクロスを掛けられていてテーブル上にマカロン・ムーが乗った銀皿が用意されていた。
椅子を引かれ、席に着く。座る直前にテーブルマナーを学んでおけばよかったと後悔した。
後悔するのとほぼ同時に、自分が入った扉とは別の扉が開いた。
「あら、ごきげんよう」
折角座ったのにと思いつつ、立ち上がり挨拶をする。
俺はあまり女性の服について知らないので詳しくは分からないが、白とピンクを基調とした綺麗なドレスを着ている。年齢は二十歳手前と言った印象だが、自分と同じ治療を受けたという事は外見で年齢を判断するのは難しいだろう。容姿端麗で、少し気遅れをしそうだ。
テレビなんかで見るお嬢様の持つオーラのような何かは分からないが、初対面の相手への余裕がある態度は実に凄みがある。
完全な確信はないが、この人が葵にひどい仕打ちをしている人間なのか……。
簡単な社交辞令の様なあいさつを交わして再び席に着く。向かい合わせではなく、東元矢代は自分の横に着くように座った。机の角でL字型になるように座る。広いテーブルでこのような隅で何故座らなければならないのだと思ったが、遠くても不便なのだろうし、仕方がないか。
「岩波知郷様ですよね?」
「はい、ご存知でしたか」
「ええ。新聞や言葉伝いにお耳にしましたわ」
「俺……あ、ワタクシと同じ境遇の方が、知らぬところにいらっしゃったとは思いもよりませんでした」
「礼儀やマナーなどはお気になさらずとも結構ですよ。私のお屋敷なので他に誰もいませんし」
「えっ、あっ。はい」
他に誰もいない。と言う事は、使用人はあくまで彼女にとっては手足、若しくは空気のような存在として見ているという事なのだろうか。つい、白髪の紳士の方を見るが毅然としている。プロフェッショナルだなぁと思うが、いつもの事なのだろうか。
「診察の前にお茶でも如何でしょう? 私少々喉が乾いていますの」
「……はあ、そうですね」
そう言うと、お茶を別の使用人が持ってきた。それは、香りの高いいつも飲む紅茶とは違う物だった。
「初めてこのような所に来るという事ですので、落ち着くカモミールをご用意致しました」
「それはどうも。あ、どうもです」
「ですから気にせずとも良いのですよ」
「はは、そうでしたね」
作り笑いで取り繕う。悲惨ながら自分の経験則でこうするのが最善だと思ってしまう。
紅茶は飲むと砂糖を入れていないのに、ほんのりと甘みが広がった。
その甘味は紅茶ではなく、脳裡に別の物を彷彿とさせた。
なんら関係がないのに、葵の血の味を思い出す。
「お口に合いませんでしたか?」
心配そうにこちらを見て来る。
「あっ、いえ。そう言うわけでは。このような紅茶をいただくのは初めてでして、少々驚きました。美味しいですね」
「そうでしたか! 嬉しいですわ」
顔の前で手を合わせて喜ぶ。
首に冷や汗の様な物がジワリと出ている事が分かった。俺に対して何かをされることは現状無いだろうが、気付かれた際に何をされるか分からない。そんな恐怖が襲ってくる。
冷静になれ。今はまだ耐える時だ。
「東元さん」
「矢代で結構ですわ」
「では、矢代さん。最近不調などは無いですか?」
「あら、早速問診ですの? もう少しお話しませんか?」
「すみません、あまり会話は得意ではないのです」
「そうなのですか。でしたらこれを機に慣れましょう!」
手を叩き、そう提案して来る。うぅん、と唸り俺はどうするか悩む。
自分の荒が出て何かしら警戒されるとやはり困る点は多い。しかし、東元矢代の腹の内を探るチャンスでもある。
「ねぇ、知郷さん。貴方は年を取らない体はどのようにお考えですか?」
「いきなりディープな話題ですね」
「ええ、同じ境遇ですのでどのようにお考えか知りたいと思いましたの」
「そうですね、俺はまだこんな年齢にしか見えない容姿なので色々と辛いですね。メガネの少年探偵はこのような気持ちなのかと思ってしまいますよ」
「メガネの少年探偵ですか?」
娯楽の感性が違うのか、お嬢様は世間で当たり前だという事はあまり分からないようだ。テキトウな相槌で切り抜ける。
「私ももう二十五になりますのに、お酒の席では不振がられるのは少々厄介ではありますね。特にヨーロッパやアメリカの方はリトルガールと揶揄される事もありますわ」
「白人から見ると日本人は子供に見えるといいますからね」
「ええ、そうですの! 日本人はみんな子どもだって言うんですよ! もう私はダンスを踊って貰わなければと思ってしまったのですわ」
「ダンスですか……」
「ふふふ、ダンスです」
貴族階級みたいな人の比喩表現や感情表現はまるで分らない。怒ったらダンスで収まる物なのだろうか。
「赤ワインを片手に優雅なひと時でしたわ。お互いそれで寄り添えましたの」
「和解の手段ですか、流石に慣れていらっしゃいますね」
「私がエスコートしてあげなければ踊れない残念な方でしたけれどね、とても子供の様にはしゃぐ可愛らしい方でしたわ」
ニコニコとその時の様子を思い出し笑う。
話題についていけないので、別の話に切り替える。
「ところで、俺はこのような屋敷に呼ばれることなんてないので分からないんですが、結構大きな屋敷になると多方面で大変ではないのですか?」
「そんな事はありませんわ。使用人の殿方達がみんな丁寧な仕事をしてくださいますの」
「そうなのですか。やっぱり俺みたいな一端の人間からは想像も出来ない範囲のやりくりになるんでしょうね」
「貴方こそ香織先生のお手伝いをされていて大変でしょう」
「先生には俺も多くの迷惑をかけているので、恩返しと言った感じですかね。それに今回同じ境遇の方に合えるという事で、少し好奇心も燻られましたし」
「私も貴方に興味が津々とありますわ!」
その後、蛇足な内容を嬉々として東元矢代は語ってきた。そのうち話す事もあるかもしれないが、あまりにも右から左に流れ落ちるように話を聴いていたので、適当な相槌で終わらせてしまった。
問診と、血圧や採血などの検査を夕日先生に言われた機材を言われた通りに使って終えた。採血は今ボタン一つで出来る簡単な機材があるなんて初めて知った。判子注射みたい跡が残る物ではないが、小さな傷が腕に付いた。
「普段お話しできない方との会話はとても楽しゅうございましたわ。ありがとうございます」
「俺も楽しませてもらいましたよ。普段聞かない話が沢山あって良い経験となりました」
「ふふふ、謙虚な事ですわね」
そう言って、お嬢様はそのまま食堂(?)を後にした。そう言えばこの部屋をなんて言うのかを訊き忘れていた。まあ、そのうち知る機会もあるかもしれない。
その後、俺は二階の部屋に案内された。途中使用人の男を二、三人見かけたが、確かに屋敷の大きさと比べると少なかった。結局あの不審な空間は何があるのかを見る事が出来なかった。
部屋に入り、少しの間中を見回していた。物珍しそうに見る少年を演じつつ、監視カメラが無いかを見て回った。その後、鞄の中に持ち込んできた探知機を使い盗聴器や遠隔のカメラなどが無いかを確認する。念のためにコンセントに挿入されている電子機器のタップを全て抜いておいた。
その上で屋敷の見取り図を取り出し、見て回った記憶を照らし合わせて確認する。間違いはないようだ。
「ふむ……やっぱりここからだよな」
俺はまず着替えた。部屋着の作務衣は、かなり運動するうえで役に立つし、この格好で出ていれば「トイレを探していて迷った」という言い訳もできると考えたのだ。全くもって俺も浅千恵である。
鞄の底に入れて置いた警棒をズボンの右足の部分に入れて上着で覆うようにして隠す。ホルダーを紐と結びつけておけば何とかなった。緩めの作務衣なので、少しぐらいなら膨らみも怪しまれないだろう。
息を一息ついて、その部屋を出た。
柔らかい絨毯が延々と敷かれている廊下を裸足で歩いた。靴は一応肩掛けの小さいバッグに入れて携帯してある。学生が使うような上履きの様な靴だが。
足音をなるべく立てないように歩き、人と会わないように気を付けながら一階へと降りた。
一つ部屋の扉が開いており、中を覗くと、数人の男性が談笑していた。恐らく休憩中なのだろう。先ほど東元矢代と謁見した部屋とは違い、かなり質素な部屋の様式である。
気づかれないようにするりと扉の前を通り抜けて、例の場所へとたどり着いた。
てっきり壁を塗られていると思っていたが、普通に扉があった。
ごくり。と、唾を飲みこみ扉をゆっくりとあけた。
奥に広がる黒い空間と、冷たく埃っぽい空気が隙間から流れ出してきた。
扉の中を覗きこむと、階段があった。地下へと続いているようだ。いかにも何かが隠されていると思い、俺は中に身を滑らせるようにして入り、扉を閉めた。
階段は完全な暗闇ではなく、小さな白熱電球がぶら下がり明かりを灯している。まるで俺がここに来るのを知っていたかのように、電気は既に通っていた。
石段になっており、足の裏が冷たい。俺は靴を履いてゆっくりと下った。
二十数段の段を降りると、また廊下が広がっていた。廊下と言うには聊か雑な作りで、ほとんど石で出来ている構造だ。鉱山洞窟と言った方が伝わりやすいかもしれない。
屋敷の中の構造とのギャップに驚きつつ、慎重に歩いた。
歩いて度歩いて行くと、何か物音が奥の方からした。何かガラスの様な物の音がする。
なんだ。と思いそろりそろりと忍び足で近付いた。
一つ木製の扉というか、とって付けた日曜大工のようなつい立のような物から光が漏れていて、その中から音がしているようだ。
扉の木は割れていて、その隙間から中を覗くことが出来た。
そこには白衣を着た一人の男性がぬらりと歩いていた。
様子を見ていると、何か実験でもしているような感じだ。部屋の中は実験機材であふれかえっており、石造りの廊下とは大違いの綺麗さで整理されている。
ここではないのかと思って次の場所を探そうかと思ったが、明らかに屋敷とは不釣り合いで異質なその光景に目を奪われていた。
「さっきから何をしてるんだ忍草」
低くハードボイルドな声で突如そう言った。何処か苛立ちが混じっているようだ。
こちらに気付いたのだろうか。だけど忍草って……確か自生している野草の名前だよな。
「ふむ……」
そう言ってうねった髪がボサボサと生えている頭を掻きながらこちらに近付いて来る。
とっさに周りを見たが、隠れられそうな場所がない。
戦うか、それとも弁明するか。俺が迷っていると、ボロボロな扉が木屑を落としながら開く。
目が合うと分かる、三十半ばから四十過ぎの男性だ。丸いメガネをかけており、髭面のその男はきょとんとしてみていた。
「やあやあ、久方ぶりだね」
そう言って男性はほほ笑んだ。先ほどの声とは違う、優しい声である。
久方ぶり、と言う事は以前どこかで会ったことがあるのだろうか。
「えっと……」
「中に入っておいで、汚い所だけれどコーヒーぐらいは出そう。インスタントだが」
俺はこの男性と出会った経緯があるのかを必死に思い出そうとしたが、分からなかった。
中に案内されて中を見てみると、白い壁紙が貼られており、完全に研究室だった。良く分からない機材や、ビーカー、フラスコ、攪拌機などがある。
「いやあ。本当に久しぶりだねえ。十年ぶりだかな、君に会うのは」
「十年ぶり……ですか」
「そうだよ。手術の際に立ち会わせてもらったっきりだ」
十年前の手術と言うと、夕日先生が行った手術の事だ。しかし、この情報は多くのマスメディアなどで取り上げられているので、多くの人が知っている事だと思われる。俺の顔を知っていてもおかしくない。
「いやあ、香織さんは元気かい? 相変わらず仏頂面だろう」
俺の考えを打ち消すように夕日先生の名前を出して来た。
「俺にはいい笑顔を見せてくれますよ」
何となく反抗してみた。嘘は無い。
「君の事を子供のように思っていたからねえ」
「……」
「昔の彼女は綺麗だったなぁ。あれ以来会っていないけれどきっと今でも綺麗なんだろうなあ」
物耽ったようにそう言った。
「あの、ここはどこなんですか?」
「東元さんのお屋敷の地下室だよ」
「すみません、間違えました。ここは何なんですか?」
「僕の研究室」
にやにやと笑いながらそう答える。不気味だ。妖怪ぬらりひょんと言われても納得できる。
「僕はね、彼女と一時期結婚をしていたんだよ」
……。
……。
「あれ? 信じてない? 君にとられたんだよ? 香織さんは僕なんかより、君に傷心して「医くんいらない」って捨てて行っちゃったんだよ。悲しかったなあ」
「いや、夕日先生がバツイチだったなんて初耳で……それに僕は覚えていないんです、医さん? の事も……」
「ああそっか。君は僕の事をちょっとしか見てないもんね。あの時葵ちゃんの身体から作った耐性薬と、その調合に立ち会ったんだよ。手術の後一回だけ会ったのだけどね」
「ちょっと待て、葵を知ってるのか!?」
「え? うん、そりゃあ彼女は僕と香織さんとの子供だからね」
「なっ、は? え?」
性懲りもなく取り乱してしまった。和製紳士たるものが何てざまだ。
「とりあえず座りなよ、ずっと立ってても疲れるだろう」
そう言って、パイプ椅子を取り出して俺に差し出してきた。
「いや、それよりも……葵の場所を教えてください」
「ん? 何で?」
あっけらかんとした声で返してくる。こっちの真剣さが伝わっていないのだろうか。
「俺は、彼女に半端な優しさを与えてしまったんです。そんな事をして、あんな少女が耐えきれるわけがない。あの子の苦しみを倍増させてしまった。そんな事になったら責任を取らない訳にはいかない……それに……」
「ふうん。君はやっぱり香織さんに似てきているね」
「え?」
「葵ちゃんに恋しちゃったんでしょ?」
「んなッ、ッ」
何を言い出すこの親父は。素っ頓狂な反応で返してしまったじゃないか。
「ほら、香織さんも似たように論理的になる相手で、最後だけ口籠るのは恋してる証だったんだよ。だから君も、ね?」
ニヤけ面が腹立たしい。このまま剥いでやろうかと本気で考えたほどだ。
途端、ニヤけ面に影が落ちた。
「でもねえ。葵ちゃんを救うのは君じゃ出来ない」
「何だって……」
俺は思わずその言葉に反応して、怒りを露わにして立ち上がる。
パイプ椅子が俺の怒りの様な乾いた鉄の音を立てた。
「君は葵ちゃんを助け出すことが出来ても、救う事は出来ない。それぐらい分からないのかい? 例えば君が葵ちゃんをここの屋敷から助け出したとして、そこからどうなる。またこの屋敷に連れ戻されて終わりか、そのまま残りの人生をそのまま別の苦しみを与えてどちらかが先に朽ちて死ぬだけだろう。それとも海外に逃亡するという考え方もあるけれど、葵ちゃんはパスポートなんてとる事は出来ないし、密入国をしてもこの東元財団の力を甘く見てるとすぐに捕まる。そんな力不足の君が葵ちゃんを救う事なんて出来ないよねえ」
指先に力が入り、関節から音が鳴る。
目の前の視野が一気に狭まった、立っている目の前の医だけが視界に入ってくる。
武者震いを体で体現した。
しかし、これ以上の事をしたら何かしら駄目だ。
そうだ、今は葵を探し出すことが中心だ、これで殴ったりしたらそのまま俺も捉えられて終わりになるかもしれない。それは良くない。
「ね? このような事から、君が救えない理由がわか――ぶひぇっ」
理系、マジムカツク。
と言いだすぐらいの勢いで手が出ていた。
理論的に今の目的を全否定されるとついつい手癖が。どうにも悪い事をしちゃったなぁー。もうどうでもいいかー、はっはっはー。
と、言い訳をして開き直るまでが一瞬にして脳内で再生された。
ヤベェ。
この一言に尽きたのである。
物音を立てて転げる医の姿を見て冷静にやっちまったなと再度思った。この一瞬で何回の後悔をすればいいのだろう。
「いたたたあ」
わざとらしく、ただ確実に痛がって立ち上がった。
言葉を続けて放つ。
「君は本当に香織さんに似ているねえ。考えながら行動するタイプだ。だから失敗もするし大成功もする。僕なんかとはまるで違うよ」
「何の嫌味だよ……」
「いや、褒め言葉さ。ついでに、今から大事な事を言うからもうぶたないでね」
「……」
沈黙して言葉に耳を傾ける。
「ぶたれるのは痛いからねえ。いや、本当」
「早く言えよッ」
「ぬ。おっと、ごめんごめん」
わざとらしく両手を上げて謝る。もう一度ぶん殴ってやろうか。
「君一人では葵ちゃんを救う事が出来ないけれど、僕と組めば大丈夫だよ」
「ど、どういうことだよ……」
困惑した。
息を深く吸い、そして彼は発した。
「僕は、葵ちゃんを人間にする」
思っても見ない言葉だった。
「僕はね、葵ちゃんが生まれてからちゃんとした人間として育てて挙げたかった。けれど、出生届を出すわけにもいかないし、誰かに頼る事も出来ない。あと一歩で彼女を本当の人間にする事が出来る。そのためにここで研究を重ねているんだ」
集約され過ぎて言葉の意味が分からない。しかし、重みは伝わった。
彼は俺には理解できない、言葉にし難い思いを抱えている。真剣に何かに向き合っている。そう感じさせた。
「意味が分からない……けれど、本当に葵を助け……救う事が出来るのか……?」
藁にもすがる思いに振り回されそうになる。
彼の言うところの父親と言う言葉が本当なのであれば、夕日先生と同じく深い思いを抱えているだろう。
俺はそれを甘んじて受け入れることが出来ないかもしれない。俺自身の思いと交差してしまうかもしれない。葵自身の考えとまるで違うかもしれない。
でも、それでも。
葵を助け出す、救いだす思いは同じのようだ。
俺は一度息を吸い彼に共に手を取り救いだそうと言いかけた時、扉から別の声が聞えた。
「あれ? チサトさんだ! わぁ、ボクに合いに来てくれたのぉ?」
無邪気な笑いを見せる、あの少女がいた。
葵の手を躊躇なく食い。
俺のファーストキスを奪い。
口移しで葵の肉を流し込んできた。
あの少女だ。
「忍草、何をしている」
医という男は、最初に俺が最初に聞いた、苛立ち混じりの声で少女にそう語りかけた。
「ぃやだなぁ、凱夫さん。いつも通りじゃん? ただ遊びに来ただけだよ」
「僕は君が嫌いだって前々から言っているだろう」
「あはは。ボクは凱夫さんの事好きだよ! あっ、でも今はチサトさんの方が好きかも」
熟れた言い方で二人は牽制し合っているように見えた。
「君、岩波くん。葵ちゃんは階段を上がった三階の一番奥の部屋にいる」
「あらぁ? 凱夫さん矢代様に何か悪い事しようとしてるのかなぁ?」
「くくく。忍草には常に言っているだろう。嫌いな相手に有益な情報は与えないと」
「そぉだねー。ボクはだから好きな凱夫さんに言うよ? これ以上何かするなら大々々々々々々々々々々々々々々々大っ好きな矢代様の為に捌くよ?」
「くくく。怖いねえ」
笑いを上げながら、医はそのまま椅子に座りこんだ。
俺は、おいおいそれじゃあ何も出来ないだろう。と呆れた。
「何だよ。本気なのかよぉ」
少女はすっ呆けているのか、おかしなことを言う。
「そりゃあねえ。お前手加減しないだろう?」
「よくわかってるじゃん! さっすがボクの好きな凱夫さんだ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
俺は居ても経ってもいられずに口を挟んでしまった。
「椅子に座ったら本気……ってどういうことだよ……それに裁くってどう粛清をするって言うんだよ」
医はくくく、と不気味に笑っている。何が可笑しいのか、全く分からない。
「なぁに? 凱夫さんは何も話して無いの?」
「何の事だよ……」
「ここの屋敷のルールだよぉ」
「ル、ルール……」
いつか見たあのニヒルな笑顔で言う。
「この屋敷にメイドがいないのは気づいた?」
ピリリとした緊張が背中に走る。何だこの吐き気にも似た嫌悪感は。
彼女を見ていると、葵の手を、腕を食べる姿が浮かんでくる。
「十四人」
そう呟く。
「メイドが十人、執事が四人。矢代様のお腹の中に入ったわ」
簡単にそう言った。
「矢代様に逆らうとね、葵みたいに食べられちゃうの。でも、人間って食べたら戻らないでしょ? 可哀想だから私はやめてって言うんだけどね、矢代様は駄目って言って食べちゃうの」
気づけば前に黄色い液体が広がっていた。
俯き前にあるのは石畳の床だった。
マカロン・ムーは欠片となって少しだけ混ざっていた。殆ど消化されていたが、色鮮やかなそれは胃液の中でも存在を主張する。
「あらら。チサトさん大丈夫?」
堅い芯を感じる手で背中をさすってきた。
「君には刺激が強すぎると思ってねえ。言わないでおいたんだ」
くくく、と笑いつつそう言う。先ほどよりも湿った笑いだ。同情でもしているのだろうか。
「チサトさん、ボクは人間が大好きなんだ。チサトさんはその中でも、矢代様の次に大好きなんだよ。だから、一緒に生きようよ」
鉄の様に固い体で優しく抱きしめてくる。
俺にどうしろというのだ。
弱った所に付け入ろうというのか。
頭がちゃんと回らない。
どうすればいいんだ。
このままなるようになってしまおうか。
体を預けて楽になってしまおうか。
「岩波くん、君の好きにしていいよ」
「ほら、凱夫さんもいいって言ってるよ」
「ただ、僕はそれでも葵を救うよ。君がいなくても、僕はやりきる」
その言葉が、ふわふわと漂う俺の意識を引き寄せた。
喉の一部に残った胃液をむせるように吐き出す。
「悪い……俺は……その誘いには乗れない」
そう言って、優しくも冷たい腕を引き離した。
すり寄るように歩いて、俺は医の傍に寄る。
「はあー。そんなぁ~、そんなのないよぉ~。ボクは人が好きなのに、人はボクを好きになってくれないんだよねぇ~。あー。もう嫌だ~。ボクを愛してくれるのは矢代様だけなのかなぁ~~~。うあぁあぁぁ」
体を捩るようにうねり、その場でくねくねと何かを表現する少女。
「岩波くん、僕が彼女を引きつけてる間に、葵の所に向かうんだ。そして、彼女を屋敷から連れ出してくれ」
「俺に出来るのかよ……こんな状態だぜ」
「くくく。君の事は君より知っているよ」
悪どい面は少女に向けたまま、こちらにちらりと目だけ向けた。本当に妖怪小泣き爺と言われても十中八九納得してしまうだろう。納得しなかった人間は本当に妖怪だと思うに違いない。
「俺の個人情報に保護法は通じねえのかよ。どいつもこいつも知ったような口で言いやがって」
俺もどこかしらか笑いが漏れていた。
つい先ほどまでゲロリと口から物を出した人間がこんな顔をしてるなんて、ただの情緒不安定だな。
と、思いながら今だに続く少女のダンスを見る。
ビタリと止まり、うぅうぅと呻く。
「岩波くん、これを」
いつの間にか医が手に大きな拳銃を持っており、それを言葉と同時に投げ渡してくる。俺は反射的に受け取ると、予想以上の重量が両腕にのしかかった。
「君しか使えないから安心していい――――よッっとお」
バキンと言う石畳の割れる音がしてから、気付けば少女は医に飛びかかっていた。
それに対して医はあろうことか、椅子に座ったまま。というよりも椅子を手足の様に使いその拳を受け流した。受け流れた少女の腕は壁に突き刺さり、白い壁紙の奥の堅い石が砕けて飛び出る。
俺は動くことを忘れかけたが、医の「行け」と叫んだ言葉で我を取り戻したように走り出す。
鉱山洞窟のような廊下を走り抜けるとき、爆弾でも使っているような音が幾度とこだました。
少女の貴笑う声が耳の奥に残っている。
あのまま医は死ぬのかもしれない。そう思いとにかく葵を連れ出して、この屋敷から早く逃げなければと思った。
石造りの廊下を抜け、無造作に作られた階段を駆け上がり扉を蹴破る勢いで開いた。
転びそうになる物の、無理矢理に体勢を立て直し走る。
一階の廊下まで地下から、爆発音のような音が響き渡っている。
使用人たちが談笑していた扉の前に近付いたので、少しだけ気配を殺しながら中を伺い通り抜けようとする。
中を見ると、依然と談笑を続ける使用人たちがいた。
「またなんかやってるよ」
「もうお嬢様と言い、後で片づけるのは俺達だってのに困ったもんだな」
なんて悠長な事を言って笑っている。
すると、何かに気付いたように一人がこちらを見た。
俺は息を殺したが、全速力で走ったおかげで呼吸を止められなかった。
「動くな!」
拳銃の銃口を向けて、威嚇する。
立ち上がり、両手を上げて敵意を無い行動をする。一人見えなかったが、立ち上がって三人の使用人の姿が見えた。
すると、一人の体躯の良い使用人の男が手を降ろして失笑している。
「おいおい、坊や。君の様な体でそんな拳銃は撃てないぞ。多分大人でもそんな体勢で撃ったら肩が砕けてしまうさ。リボルバーは女子供が使うもんじゃないよ」
英語訛な声でハハハと貴笑った。
「ああ、それは知ってるさ。俺は腕を捨てる事前提だぜ」
嘘の無い言葉を放ち、睨みつける。
安全装置を
理由は分からないが、俺はそう言えた。その経緯があった。
「……」
顔が引きつったまま男は固まった。
数秒の沈黙が続いた。
地下からまた、大きな爆発音のような音が聞えた事を合図に、男は飛びかかって来た。
俺はこの男を殺す気が無い。
とっさに威嚇射撃と言う形で、やや上方に向けて撃ち放つ。
一瞬意識が飛んだ。
途端背中に壁が押し寄せてきた。いや、正しくは叩きつけられた。
腕の骨は折れ、肩は砕けたまま拳銃が床に転がる。
先ほどまで立っていた扉は数メートル先にあった。その少し奥に失禁をして泡を噴く男が倒れている。更に奥には二人の男が体を小鹿の様に震わせて目をぐるぐる回している。
俺は立ち上がり、首を少し勢いを付けて鳴らす。
肩、腕、手に力を入れて数秒硬直。
その後、少し違和感がある物の問題がない事を確認した。
「う……腕が……」
この反応は、前回気絶をして目覚めた時にも似たものを見た。
有り得ない物を目の当たりにしている目だ。
「ば……化け……化け物……」
「いや……俺はまだ、人間だよ」
「ご、ご、ごめんなさい、食べないでください、ごめんなさい、ごめんんさない、ごめんなさいごめんなさい、食べないでください、ごめんなさい(∞)」
永遠とその言葉を二人は声を合わせる余裕もなく口ずさむ。
ああ、もう。身体の不調がすぐ治るからって、痛くない訳じゃないんだよ。ギャーギャー目の前で騒がれたら苛立ちを隠せなくなる。
「あー。分かった、黙れ」
「「――」」
意外にも異常なまでに怯えている二人はすぐに言葉に従った。
恐怖で歪みきった顔をしているが、多分それ以上に言葉に逆らったら殺される……いや、あのお嬢様に食べられるという意識があるのだろうか。命令には絶対遵守という物が体に染みついているだけかもしれない。
とにかく、これでここは問題がなさそうだ。
「とりあえず、その男連れてこっから逃げろ」
「はいッ」
と勢いよく言って、行動に移す直前で男二人は、よしと言われておやつを食べていいのか迷う飼い犬の様な顔を見合わせてから、すぐに泡を噴く男を抱えて外に向かって動き始めた。
男たちは悪臭を撒き散らせながら外に逃げて行った。
俺はそれを確認しつつ、落ちた拳銃を手に取り安全装置をかけてから確認する。
何も考えずに撃つ構えになっていたが、手に持ったのはリボルバーである。しかし、異様に大きい。
俺の背丈が小さくなければ、あの男も気づいたのだろうか、この大きさに。
トリガーは六連式で、一発撃ったので残り五発が残っている。
「本当に俺が使えるって思ったのかよ、あの狸親父」
妖怪の様な面をしたあの男には狸親父と言う言葉がしっくりきた。今度会ったらそれで呼ぶことにしよう。そしてぶち殺そう。ぶって殺そう。
本気でそう考えて、葵がいると言われた部屋に向かう階段を駆け上がる。
展開が早すぎて俺の頭はオーバーヒートしかけたので、何も考えない事にした。
三階の一番奥の部屋。そこまで行くには三百メートルは廊下が続いた。どれだけ広いんだ、この屋敷は。六畳一間に住みやがれ、と怒りを覚える。
紳士たる心の仮面がはがれ始めたあたりで、部屋の前に到着した。到着と言うにはあまりにも勢いが良いダイナミックエントリーをかましてから部屋に入った。上手い事ドアノブが壊れてくれてよかった、失敗したらただ扉にあたってこけるだけになっていたからな。
目に飛び込んだ最初の印象、部屋の中は白かった。
天井や壁から多く蛍光色の光が出ている。なんというか、映画の世界の様だと一瞬錯覚した。
「あら? ふふふ、岩波様こんな所で何をされているのですか?」
声の方を見ると、先ほどまで純白無垢だったお嬢様が、返り血を浴びて真っ赤になってそこに立っていた。
何故かそこには調理台とおぼしき銀色の台と、奥には冷蔵庫があった。
不可解なまでに落ち着き払った声でそう言って来たのだ。
「いやあ、ちょっと探し物をしてましてね」
俺は負けじと言い返した。右手に大口径の拳銃を手にしている人間がそんな事を言ってどうするかはわかりきっているはずだ。
「あらあら、それは大変ですわ」
そう言って先ほどと同じ動作で両手を顔の前に持って来て合わせる。違う点と言えば、右手に切っ先の長い包丁がある。牛刀型の包丁で、切っ先から柄まで血でドロリの塗られている所である。
屈託のない微笑みは、状況と不釣り合いで違和感だらけである。
「あら、私ったらお粗末な物をお見せしてしまいましたわ」
「……」
「今お食事のご用意をしておりましたの。間もなくできますので、岩波様はお部屋でお待ちくださいませ」
「……」
「生きの良いお肉が入りまして、少々血を浴びてしまいましたのよ。御心配なさらないでください」
「……」
「岩波様?」
「……」
「どうさないました?」
「……」
「……あの」
「……」
「……ねえ」
「……」
「お部屋に帰ってくださいませんの?」
「……」
俺は沈黙を続けて、ただ睨んでいた。
返す言葉もない。
すると、東元矢代は微笑みの表情は重量に引かれるようにして、ぐったりと崩れた。
「はぁ。私はそんなに舐められる行動をしておりましたか?」
「……」
俺はゆっくりと右手を持ち上げて、銃口を矢代に向けた。
「悪いが、葵を渡してもらおうか」
悪いのは俺で良い。
後の事はどうにでもなれ、今はこのお嬢様をどうにか丸め込んで葵を渡してもらわないといけない。
先ほどとは異なる、低いため息を吐き言った。
「あら……これの事でしたの……」
声も低く、怠そうな声で言ってから左手を台の上に伸ばし、台で隠れていた所から何かを取り出した。
真っ赤に染められたそれは、人の頭だ。首から下はちゃんと繋がっているようで、重たそうにお嬢様が持ち上げる。
緑の髪を掴まれて、辛そうな顔をこちらに無理やり向けらてた葵がそこにいた。
一度会ったっきりだが、一目で分かった。
「くふふふ。これが欲しいのですの?」
そう言って持ち上げた葵の顔に、矢代は自身の顔を近づけてニヒルな顔で悪どく微笑む。
「てめぇ……ッ」
「あら、野蛮な言葉ですわね。私はうら若き乙女ですわよ」
葵は一切抵抗していない、それどころか精気が抜けているようにも見える。
「葵に何していやがる……」
「あら、先ほど申し上げたじゃないですか、生きのいい肉を捌いていただけですわよ」
俺は銃を構え直し、にじり寄って行く。
「それ以上は近寄ってはいけませんわ」
「……ッ」
文字にならないぐらい小さい声が漏れる。
「ふふふ。ふひひ。ひひひひひひひひひひひひひ」
何が楽しいのか、何が可笑しいのか。東元矢代は笑い始めた。
「ご覧あそばせ」
そう言って、右手に持った包丁を葵の右目に突きたてた。
あまりにグロテスクな光景にこれ以上俺の語彙では表現できない。
一言で言うと、眼球を抉り出し、食べた。
これ以上表現するのにはあまりにもショックが大きすぎた。
あの少女によって食う事になったあの時よりも、目の前で何も出来ずに、ただ抉り出され食っている光景はトラウマどころではない。
青少年少女が見たら二度と立ち上がる事が出来ない映像だろう。
老人老婆が見たら心臓が止まるであろう。
中年男性が見たら一瞬で禿げ上がるだろう。
中年女性が見たら一瞬で化粧がひび割れ、皺枯れるだろう。
「ぁあぁああ。ア……く……うぅ……」
言葉にならない音を葵は上げている。
「ふふひひひ。ふひひ。くふふ。ひひひ」
汚らしく笑う東元矢代には、先ほどまでのお嬢様としての風格の欠片も残っていない。
ただの野蛮人である。
「岩波様もお食べになりますかぁ? あと一つありますよ? くふふ、ひひひ」
葵の苦しむさまがよほどお気に召したのか、野獣は傷口を指先で何度もいじっている。
銃を構えている手が震えた。
今すぐにでも撃たなければ。
先ほどから何度もその命令が指先に出ている。
だが、外して葵に当たってしまったらと思うと引き金が引けない。
「岩波様も美味しそうですわね」
背中にぞわりと浮くような電気が走る。
舌なめずりをして、俺の方を見て来ている。
恐怖。
そうか、あの使用人たちはこれに怯えたのだ。
酷い事をしてしまった、と後悔した。
俺は何を考えているのだろう。こんな状態で。
体は震えて固まっている状態で、頭だけはやけに冷静になってきてしまった。
ああ。俺は馬鹿だった。安全装置すら外し忘れているじゃないか。
じりじりと近付いて来る東元矢代の方に目が向いた。
冷静になった俺の頭は一つの単純な命令を、確実に出した。
安全装置を即座に解除し、引き金を引く。
先ほどの衝撃を一度体験していたので、意識は飛ばなかった。
だが、その分全身の衝撃は痛みへと変わり脳髄に響き渡った。
体が硬くなっていた事も幸いしてか、そのままの体勢で後ろに吹き飛んだ。
訂正。体勢はそのままだが、腕は折れてあらぬ方向にへし曲がって後ろに俺は吹き飛んだ。
腕が折れてくれたおかげで、拳銃が顔に直撃するのを避けられたが、体より先に拳銃は廊下の奥にのめり込むような音を立てて当たる。俺の体自体は、廊下に出る事なく、室内の壁に叩きつけられる。強化プラスチックで出来ているのか、妙な音を立てて発光する壁にひびが入った。
受け身の取れない体勢で壁に当たっていたら即死をしていたかもしれない。折れた腕と足で無理やりに当たりに行ったので、致命傷は避けられた。
ああ、畜生。冗談も言えないぐらい苦しいじゃねえか。
気絶しておけば良かった、と思うほど痛い。
一秒ほど(体感では何時間ぐらいか分からない)打ちつけられた体は無理な体制で倒れ更に衝撃が走る。一度痛みが走った部分は上乗せの痛みが走る。壁に当たった時の方が痛くなかったなんて皮肉なもんだ。
数秒。身体がジワリと痛みを走らせて徐々に治る。
先ほど奇声を発しながらこちらに接近してきた東元矢代が足を向けて倒れている。スカートのかかり方は隙間からパンツが見えそうだ。
しかし、そんな事を考える余裕もなく。睨みつける。
どうなったのだ。
倒れている以上弾丸が何かしら彼女に悪戯をしたのに違いない。
いや、発砲の際に起きた爆風かもしれない。俺が飛ばされるほどの爆風だ、倒れるぐらいは普通にあり得るだろう。
その奥も視界に入ると、冷蔵庫に大穴が空いていた。それどころか壁を突き破り、吸いこまれるような闇が奥に続いているようだ。冷蔵庫はごうごうと不穏な音を立てている。
矢代は動かなかった。
やがて体の自由が戻り、俺はゆっくりと警戒しながら立ち上がる。
見下ろすようにすると、東元矢代の頭が吹き飛んでいる事が分かった。
胸をなで下ろす思いだった。
俺は万全を期して銃を拾い上げてから、葵に掛ける様にして近付いた。
「葵! 生きてるか!」
彼女を見て戦慄する。
左腕が、斬りおとされていた。
「知郷さん」
虚ろな片目の瞳でこちらを見て、そう言った。
肌に何も掛けられておらず、足も縛られていない。
抵抗をしないと確信するぐらい、何度もここに転がる東元矢代に切り付けられることを繰り返していたのだろうかと、何度も痛めつけられていたのだろうかと思うと胸が締め付けられた。
「早くここを出よう。動けるか?」
俺は銃を一度置き、彼女の身体を支えるようにして起こす。
左腕が落ちた所は、傷からじわりじわりと血が出ているものの、おおよそ塞がっていた。
その腕を避けるようにして、俺は自分でも思いもよらない行動に出た。
抱きしめた。
そうせざるを得なかった。
葵もそれを甘んじて受け入れ、体を預けてくる。
俺は心臓が高鳴った。
だが、それは彼女との抱擁に心を震わせたからではない。
その奥に見えた光景に心臓が危険信号を発したのだ。
「嘘だろ……」
月並みなセリフを俺は発して、彼女を無理やりに血で塗れた台から降ろし、立たせた。
吹き飛んだ頭部が印象的な東元矢代の身体が起き上っていた。
頭があった場所には、蛆虫が這いまわるように蠢く何かがあった。
「に、逃げるぞ!」
拳銃を手に取り、俺はそれを避けるようにして扉があった場所にむかった。
扉に差し掛かるあたりで、呻き声の様な、怒鳴り声のような、言葉にし難い音が聞えた。
それは、頭が二つになっていた。緑色の髪が特徴的な阿修羅の様だ。
背にして逃げるにのはあまりにも恐怖だった。
元あった整った顔の原型も無い異様な形の頭部は目が五つあり、裂けるように大きな口があり、小さい口がもう一つあった。耳のような物もある。
『ガァッ……グ……ゲ……』
後ずさりをするようにして、銃口を向けたまま蹴破った扉の方に向かう。
目がぐるりぐるりと廻り、何処を見ているのか分からない。
葵をゆっくりと扉の外の廊下に出した。続いて俺が出ようとする。
「きゃ……」
と、葵が小さな声を漏らす。
「ありゃぁ~? 何で出てるの?」
医が食いとめているはずの少女がそこにいた。
「なっ、おまっ。くそ」
「チサトさんも何してるんだよぉ、これは出しちゃだめだって」
扉の陰にいるので、まだ東元矢代の変わり果てた姿を見ていないので少女は呑気にそんな事を言っている。
どうするべきか迷いつつ、それからは目を離さずにいると、葵が少女を振りほどき俺の背中に縋った。
それを追うように少女が部屋に入ると、動きが止まった。
「何あれ……?」
そう少女が言うと同時に、東元矢代だった物は自分の両腕を食った。食った場所から別の腕の様な異形な物がじわりじわりと生えてくる。
今銃を撃つわけにはいかない、撃ったら葵を巻き込んで飛んでしまう。
「東元矢代だよ……あれは」
真実を伝えた。
「……ぇ。え?」
振り返らずにその反応を聴く。
すると、その異形なそれの目の幾つかが動きを止めて、こちらを見た。蛇に睨まれた蛙とはこのような状態なのだろうか。動けなかった。
地鳴りをするような音で奇声をそれは発した。
大きく開いた口の中には、歯がびっしりと敷き詰められている。その奥に続く喉まで見るほど大きな声で呻いた。
それを皮切りに俺の身体の自由を取り戻した。
「おい! 逃げるぞ!!」
踵を返し葵の身体を掬うように抱えて、少女に促す。
廊下を駆け出すと、それは扉に向かって動き出した。廊下を十メートル走った所でそれが廊下に飛び出した。扉に閊えたのか、転がって壁にぶつかる。それに伴い屋敷全体が揺れたように感じた。
走ったまま少女は問う。
「チサトさん! あれ、お嬢様!? え? え? ええ?」
「そうだよ! とにかく逃げないと!」
廊下をある程度駆けると、前から二人の使用人が向かってきた。俺達を見て止めようとする体勢になった直後、後ろからついて来る物に怯えて動きが止まる。
「うぁああ、何だあれ」
「服を着ているぞ、お嬢様の服だ!」
「お前、どうすんだよ」
「知らねえよ」
と、戸惑いを隠せない会話をしている。
「おめえら逃げろ!」
怒鳴りその二人の横を通り抜ける。
首だけで後ろを見ると、悲鳴を上げて喰われる姿を目にした。
大きな口で、一人の胴回りまで一瞬で噛み砕き、異常に生えた腕の様な物でもう一人を巻き付き、もう一つの小さな口に押し込む。
目を追いたくなるような光景を後目に、俺はとにかく遠くに逃げようとする。
階段を一段飛ばしに降りて、一階まで来た。
上にいる化け物は俺達を見失ったのか、降りてこない。
「ちょっと、チサトさん!」
「何だよ!」
怒鳴るように切り返す。
「お嬢様が何であんな風になってるんだよ!」
「知るか。頭を吹き飛ばしたらああなったんだ」
「嘘だ! お嬢様は誰よりも人間だ!」
「嘘じゃねえよ!」
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! お嬢様は誰よりも弱くて、誰よりも人間らしい人なんだよ!」
「じゃあ、アレは何なんだよ!」
「チサトさんが何かしたんだろ!」
「俺は……」
何もしていない訳ではない。先ほども一度言ったが頭を撃ち殺した。
殺したはずなのだ。
「ボクは人が大好きで、その中でもお嬢様がとにかく好きなんだよ」
歯ぎしりをするように強く口を噛み言う。
「ボクが人間じゃないから、人間を好きになって、一番好きになってくれたお嬢様が大好きだったのに、何でだよ!」
一つだけ思い当たる節があった。
考える間もなく俺は口に出した。
「俺も多分アレと同じだ」
「お前なんかがお嬢様と同じなもんか!」
俺は多分あそこまではないが、人間としては異常の範疇だろう。
骨が折れてすぐに治る人間なんていない。
これは、INNRD治療の代償である。
だが自分に、他人に、「俺は人間だ」と言い続けてきた。
「同じなんだよ……」
少し俯くと、葵が心配そうな目でこちらを見ている。
そうだ。悲観している場合ではない。早く逃げなければ。
「とにかく、早くここから離れよう」
玄関扉に向かって走り出すと、少女は止まったままであった。
「おい、何してんだ!」
「ボクは……」
数メートル先で立ち止まり、呼びかけると少女は寂しげな表情で小さく言う。
「ボクは……やっぱりお嬢様と一緒に居なくちゃ」
「そんな事言ってる場合じゃねぇ! 早く――」
そう言っている間に、階段が大きな物が転がり落ちてくる音がした。
「くそっ」
迷っている暇はない。早くここを離れなければ。迷いつつ、駆ける。
二階に降りてきた音は、さらに物音を立てて這いずりまわっているようだ。男性の断末魔がまた聞えた。
あと数十メートルの扉までが地平線ほど遠く感じる。
どうにかたどり着いて扉を背中で開けると、それが二階から落ちてくる音が迫る。
体を外に出して、中を見ると階段の前で上を見上げる少女の背中が見えた。
「お嬢様ッーー」
俺は涙を流した。
抱きかかえた葵を抱きしめるようにして。顔を隠しながらとにかく走る。
泣きわめきたい感情を押し殺して駆けていると、轟々とした音とまばゆいが後ろから迫って来た。
「岩波くん、乗るんだ!」
バン……と言うには少しゴツい車をドリフトさせて停めてから医が顔を出して言う。
俺はそれに従い、後部座席に葵を乗せて、俺は足元に転がるように乗り込んだ。
車が急発進をして、扉はその勢いで閉まった。
ひとまず安堵した。
腕がパンパンだ。人を一人かかえて走っている上に、鋼鉄製であろう銃を持ち運んでいたからだ。無我夢中で、どんな体勢で持っていたかあまり思い出せない。
大きく一息を吐くと、力が抜けた。
「葵、大丈夫か?」
「……はい」
戸惑いよりも、疑問のニュアンスが篭った返答だった。
「言っただろ、ずっとここに居ていいって」
俺は最初にその言葉を言ったあの時は、家の中と言う意味を込めて言ったが、今は俺の傍に。そう言った意味を強くこめて言った。
戸惑い、微笑み、涙を流した。
「お、おい、泣くなよ」
「ごめんなさい……あれ……なんで……だろ……こんなの……初めて……です……」
涙を手の甲で拭い、俺は力強く抱きしめた。
この子の思いは俺には分からない。迷惑かもしれない。そう心の片隅でどこか思っていたが、抱きしめた時に皮肉にも医が言った『恋』をしてしまったのかもしれない。
「お二人さんよ。まだまだいちゃつくには早いよお?」
ハンドルを急激に切り、ブレーキ、アクセルを繰り返して塗装されていない道を威風堂々とは車を走らせながら医は言う。
言葉に引かれる前に、俺も気づいた。
後部座席のさらに後ろのリアガラスから見える光景は、先ほどのアレが追いかけて来ているこの世の物とは思えない世界であった。
混沌とした森か、ここは。
俺は女性に抱き着いたり抱き着かれたりすると不幸になる体質であるのかもしれない。
そうであればその体質を呪わねば仕方あるまい。
座席下の足元に置き去りにした銃を手に取り直し、後部座席の更に後ろの窓の前まで体を滑り込ませる。荷物置きは思ったよりも広い空間だった。
リアゲートドアを開けるときに、落ちそうになったがどうにか立て直して銃を構えた。
近付いて来ていないが、離れてもいない。
「おいっ! もっとスピードは上げられないのかよ!」
「上げたら君が落ちるだろう?」
「ッ。くそ」
舌打ちをして、銃を構えた。今は後ろに浮き飛ぶわけにはいかないので、少し特殊な構え方である。
この拳銃はリボルバーだが、撃鉄が無い。何となくわかっていたが、多分特注だ。マテバ社の物だろうか。安全装置もちゃんとあるので、それを外す。
銃を逆さに構え、小指にトリガーの横に添える。まだ指は掛けない。先ほどまでは気が動転してちゃんとした扱いをしていなかった。今もしてはいないのだが。
本来撃鉄がある部分を車のリアケートドアのカバー部分を避けて、直接車体に密着させる。
体を完全に倒す事は出来ないが、なるべく銃の軌道が見える位置に顔を持って来て、前を見据えるとちゃんと直線状に標的があった。
「俺はゲームでしかやってないから外しても知らねぇぞ」
そう呟いて、から一発。
爆発音にも近い音を鳴らして弾道は標的に着弾する。当たった部分は弾けて飛んだ。多分炸裂弾などではなく、この拳銃の威力だけで吹き飛んだのだろう。
ただ、それどころではない。銃の勢いは車体をずいっと押し出した。既に走っている車の速度があがったので、また体が放り出されそうになるが、銃を持った手に来た反動で車内に押し戻される。
体を押し戻した衝撃は腕から肩にかけての骨を粉砕した。
車の天井を仰ぎ呻くと、葵の顔が見えた。
「バカ、伏せてろ……」
そう言ったが、後部座席を乗り越えて同じ場所に来た。
「私も……」
「ほう、驚いたねえ」
医が何か関心をしている。
「お前余裕があるならあれをどうにかしろよ」
「なあに、あと二発でも打ち込めば活動停止状態になるさ。死ぬかは保証できんがね」
「保証できないって……こんなバカみたいな銃わたしてそれはないだろ!」
歯ぎしりをするように喝を飛ばして葵の方を見る、直視すると裸なのが気になったので近くに落ちていた布をテキトウに渡した。骨がまだ治っておらず動かすと激痛が稲妻の様に走った。
渡したのは黒い布でどうやら車のシートカバーのようだ。羽織った肌が少し透けて見える。
ふう、と息を吐き車の外を見る。
砕けた肉片はそのままに、大きな傷から別の肉がうじゃうじゃと生えて来る。文字を這えて来ると書いても相違がなさそうだ。
葵に布を渡したのが幸いしたのか、彼女は片手で布を落ちないように抑えるのが手一杯の様で、肩や腕の骨がおおよそ治った俺が再度構えてもおろおろとするだけだった。
「少し離れてろ」
そう言うと、彼女は逆にくっついてきた。
「危ねぇから離れろって」
「……私も……一緒に……」
彼女は胸がぎゅうと押し付けて、俺が飛ばされないように支えてくれているようだ。
右手を布から離して、俺の身体に巻きつける。それなりに力はあった。
奇怪極まりない動きでまた、それは迫りくる。
「葵、行くぞ――――3……2……1……」
カウントと同時に息を吸い込み、放つ。
爆発の様な音と共に着弾。今度は中心に当たったようで、ぽっかりとその得体も知れぬ物の中心に穴が開く。
俺達は銃の勢いに二人掛かりで対抗をしようとしたが、あっけなくその努力は水泡に帰した。
体は浮き上がり、二人は車の外に放り出された。
背中から落ちると思うと、葵を守らなければと無意識に体を捩って自分の身体から落ちるようにした。手に持っていた銃はそのまま転がり、腹から落ちた。
「あぐっ、っかっ……くっ……」
気づけば葵の手も離れて、それぞれに転がる。俺は木にぶつかり止まった。
葵は声をほとんど洩らさなかった。
「お、おい。生きてるか……」
俺は首だけを捻り葵の生存を確認する。
「……はい……」
元から小さい声だが、それに重ねて今にも消えそうな声だった。
即座に、首を戻し来た道を見る。
それはまだ生きていた。
いや、正確には動いていた。と言うべきかもしれない。
蠱毒の壺から這い出てきたようなそれは、中心の大穴から人間の頭のようなものをいくつも、いくつもめきめき生えて来ている。
「やべぇ……」
俺はまだ体のほとんどが動かせる状態じゃないが、右腕だけがかろうじて動いた。無意識に左腕で銃を押さえて衝撃が殆ど左半身に逃げたのかもしれない。はたまた、葵の左腕が無い事がそうさせたのかもしれないが、そんな事はどうでもよかった。
焼け焦げた手を地面に突いて、這いずり転がった銃の所へ行った。
手に取り、這った状態のまま右手だけで構える。
「これ……死ぬかもな」
心なしか笑いが込み上げる。すぐに失笑して歯を食いしばって狙いを定める。
「おーい! 生きてるかい」
呑気な声が聞えたので安心してしまいそうになるが、標的は次の動きに転じようとしたので撃ち放った。
肩に嫌な感触がした。
激しい激痛。
腕が痛い。
腕が無い。
無いのに痛い。
言葉にならない声を発した。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――…………………………………………………………。
いっそ死んでしまった方がましだと思う。
転げまわって、そのまま地獄の底の窯で茹でられて、蛸の様に煮赤くえてしまった方が楽だと思ってしまう。
どこか痛みの中に冷静な一面があって、それが『あれ、なんで走馬灯が見えないんだろう』なんて悠長な事を考えている。
痛みの中、うっすらと目を開いてみると、乙女の顔がそこにあった。
今まで綺麗な乙女のこんな顔をドラマでしか見たことが無かった。いや、それよりも真に迫る物がある。ああ、これは本当にそう言う反応なのだろう。
葵の綺麗で整ったはずの顔が、しわくちゃになって涙で汚れている。
「知郷、知郷、知郷!」
枯れそうな声で何度も俺の名前を叫んだ。
その奥に不吉な物が見えた。
歯。歯。歯。
敷き詰められた歯。
ばっくりと割れて、上下に敷き詰められており、奥に黒く吸い込まれそうなグロテスクな穴が開いている。
顎が割れそうなぐらい食いしばり左腕を伸ばして葵の身体を無理やりに引き、押し倒すような姿勢で庇う。
目を思い切り閉じて覚悟をすると、どぐん。という重たい音がした。
振り返ると、先ほど乗っていた車が怪物のような生き物に物かっていた。
そのまま数メートル轢き、急ブレーキで距離を離してバックをしてそれから離れる。轢いて動いた道筋には大量の血と肉片が砂利と砂に混じり、地獄の窯の湯が零れ落ちたようになっている。
目をそれの方に戻すと、まだ蠢き続けている。
ただ様子が先ほど違う。
血がすぐに止まり蛆虫の様に動いていた傷口が、今は血を垂れ流しながら動いている。
「再生限度を超えたんだ! 早く止めを!」
何の事だか分からんが、とりあえずもうすぐこの不毛な戦いが終わる。なんて考えたが、不毛ではない、毛ほどの進展がこれからあると信じてここまで来たのだ。
葵の身体に馬乗りになっているのを、どうにか離れて辺りを見回すと、俺の右腕と共に銃が転がっているのが見えた。
左手で無理やりに右手の中に握られている銃を離して、少しずつ近づいていく。
十メートルと少し。これ以上近付くのは身体が拒否をした。
このまま撃てば終わる。
ぼとり、ぼとりと右腕から血が垂れ流れて、意識が朦朧としてくる。
最後の一発。
目の前が暗くなってくる。
足の感覚が無くなり、崩れ落ちそうになる。
そこに、左腕を支える腕があった。
緑色の瞳。
緑色の髪。
「知郷」
綺麗でか細いその声は俺の最後の力を振り絞らせた。
俺の左腕の下から、右腕を伸ばし二人で銃を握る。
「これで終わりだぁあああああああ!!!!」