第四章 誰が、祈ったの?
「……恭ちゃん」
見慣れた幼馴染は困ったように、苦笑いを浮かべた。
「どうして、わかったのかな?」
「……簡単だよ。絵夢が襲われ、カナミが襲われ、亜季先輩が操られた。じゃあ、残ってるのはお前しかいない」
「さすが恭ちゃん。名推理だねー」
都子は変わらない。いつもと同じようにのほほんと笑う。
地味な幼馴染。
田舎者らしくて、一緒にいると和んで、誰よりも長い時間を重ねてきた女の子。
そんな女の子がなぜこんなことをしたのか……水鏡には見当もつかなかった。
「……うん。始まりはね、ほんと、他愛の無いことだったんだー」
手を後ろで組み、水鏡に背を向けて、都子はグラウンドが見えるフェンスへと向かう。
水鏡もなんとなくその後を追った。
「今の恭ちゃんは思い出せないかもしれないけど……。本当の世界……あ、カナミちゃんは元の世界って呼んでたのかな? その世界ではね。わたしと恭ちゃん、三年生でクラスが分かれちゃったんだー」
それは水鏡も覚えている。
そのシステムはこの世界も元の世界も同じだからだ。水鏡が通う高校は大学受験のことも考えて、三年次には文系・理系でクラス分けが行われる。
だから、理系の水鏡と文系の都子が同じクラスになることはあり得なかったのだ。
「恭ちゃんは平気そうだったけどね。わたしは、すっごく淋しかったんだー。だって、小学校からずっと同じクラスだったんだよ? それなのに、急にクラスが分かれて、疎遠になっちゃって……」
「疎遠、って。別に遠く離れたわけでもないだろう? 授業中が一緒の教室じゃないだけで、昼食だって一緒に食べれるし、下校だって一緒じゃないか。何も変わらない」
「うん……わたしも、最初はそうだって、思ってた。だけど恭ちゃん、本当にわたしがいなくても平気になっていっちゃったんだもん」
そう言って振り返った都子は、少しだけ目元に涙を溜めていた。
「お昼を食べに恭ちゃんの教室に行っても、お弁当食べながらずっと参考書眺めてるし、話かけても、どんどん返事してくれなくなっていったし……。ああ、わたしって必要ないんだなーって、すっごく悲しかったんだから」
「そう、なの、か…………?」
自分は、そんなにひどい人間だったのだろうか。
水鏡は必死に記憶を探るが、やはり元の世界での記憶には靄がかかっているみたいに、鮮明に思い出すことができない。
ただ、朧に思い出す風景は、確かに自分一人だった。
教室の風景や参考書のページ、板書や授業をする教師の姿が大半で、友達どころか都子や絵夢と一緒にいる思い出すら、一つも出てこない。
「それは……なんと言うか、悪かった。今の俺からすれば信じられない話だけど、まさか、元の世界の俺が都子を無視していたなんて……」
「受験が大変だって言ってたよ。恭ちゃん、レベルの高い大学受けるんだもん。わたしと一緒に地元の大学にすればよかったのに……どうしてそんな難しいところにしたのかな」
そう言って、また都子は苦笑した。
当時のことを思い出しているのか、本当に辛そうだ。今にも涙が零れそうである。
女の子の涙なんて見たくなくて、だから水鏡は、努めて明るくふざける。
「いやー! すまん、すまん! 俺が女の子にそんなことするなんて、ちょっと信じられないわー! こんなに可愛い幼馴染にそんな仕打ちをするなんて、俺が俺じゃないみたいだ!」
「……そうだね。恭ちゃん、こっちの世界に来て、ちょっと変わったもん」
「……変わった?」
「うん。元の世界の恭ちゃんは、そんなに女の子にガツガツしてなかったし、今よりももっとクールで、落ち着いてたよ?」
そ、そうなのか……?と水鏡は自分自身を観察するが、当然、この世界の水鏡に分かるはずもない。
人格が変わった絵夢。初めて出会ったカナミ。再会した亜季。そして何よりも……ループした都子が周りにいたお陰で、水鏡も少しだけ変わったのかもしれない。
「そいつは悪かったな。幻滅させたなら、ごめん」
「ううん。恭ちゃんは、恭ちゃんだもん。元の恭ちゃんも、今、目の前にいる恭ちゃんも、どっちもわたしは好きだよ」
面と向かって好きだと言われ、水鏡の顔が朱に染まる。
男の赤面なんて気持ち悪いだけだと水鏡自身も思っていたが、これが水鏡にとって人生で初めての、女の子からの告白なのだ。元の世界における、夕暮れの教室での一件をノーカンにすれば、だが。
「ありがとう。俺も都子のこと大好きだよ。だから……元の世界に帰って、ちゃんと正しい場所でやり直そう」
「――――それは嫌」
水鏡の表情が固まる。
都子は再び水鏡に背を向け、グラウンドの方を向いた。
「どう、して?」
「恭ちゃんは、知ってるんじゃないかな。精霊にお願いするにはね。〈供物〉が、いるだよ」
グラウンドの方を向いている都子の方が、淋しそうに揺れる。
――〈供物〉。
精霊のチカラを使うための対価。
「何を……支払ったんだ……?」
水鏡の声が震える。
世界を改変するほどのチカラ。
それを行ったのがエレナでなかったとしても、これほどの規模なのだ。支払った対価も決して安くはないはず。
水鏡は知らず、都子の体を上から下まで確認した。事あるごとにエレナが『眼球』や『片腕』を対価に求めたので、体の一部を差し出したのかと思ったのだが……幸い、都子の体に異常は無かった。
……ただし。
都子が口にした対価は、そんなものよりもずっと、手遅れだった。
「わたしが払ったのはね……〝思い出〟だよ」
「思い出…………?」
「そう。恭ちゃんとの思い出をね。支払ったの」
「思い出を……? で、でも! お前は覚えていたじゃないか! 元の世界で俺がどんな風に変わってしまったのか! それで、どれだけお前が辛かったのか!」
「うん……。わたしはね。恭ちゃんとの〝楽しかった思い出〟を支払ったの」
水鏡の表情が凍る。
「ねえ、恭ちゃん。わたしたち、小学生の頃、遠足とか行ったのかな? 中学生の時、同じ班で給食当番はした? 高校になってから一度くらいは、恭ちゃんからわたしに話しかけてくれた……?」
振り返った都子は、泣いていた。
手に入らなかった幸せ。
それを手に入れるために、すでに持っていた幸せすら手放してしまった。
それがどういう意味を持つのかも、深く理解しないまま。
「わたしはもう、どうやって恭ちゃんと出会ったのか思い出せない……っ! どうしてわたしは恭ちゃんを好きになったのか! 大好きな恭ちゃんと、どんな学生時代を過ごしたのか、全然思い出せないのっ!!」
泣き顔を見られたくなかったのか、都子は両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちてしまった。
水鏡は茫然として立ち尽くすしかない。
地味で真面目で田舎者らしい幼馴染。
一緒いると楽で、和んで……たぶん、ずっとこのまま一緒にいるんだろうなと、勝手に思っていた幼馴染。
その幼馴染を、無自覚なまま、これほどまでに苦しめてしまっていた。数少ない思い出を犠牲にしても構わないと思わせてしまうほどに。
「今の世界にするだけで、恭ちゃんとの思い出の大半を使っちゃった……。元に戻したら、わたしは恭ちゃんのこと、全部忘れちゃう……!」
――どうすれば、いいんだ。
水鏡は、世界改変を行っている犯人さえ見つかれば、それで問題は解決すると思っていた。探偵気取りで犯人を指名し、カッコつけて優越感に浸れると考えていたのだ。
だが、現実はどうだ。
自分に好意を寄せてくれた女の子を傷つけ、大切な幼馴染を泣かせ、その上その幼馴染から残り少ない記憶を奪おうとしている。
確かに、この世界に来てから随分といい思いはしたが、それにしたって割が悪すぎる。
そんなことを考えていると、都子の後方の空間が歪み、そこから下品な笑い声が聞こえてきた。
「ぎゃはははは! ご名答ー! 素っ晴らしい茶番だからしばらく傍観させてもらったが、そろそろ我慢の限界だなァ!」
黒い靴。黒いジーンズ。黒いTシャツ。
全身黒尽くめの服装に対して、病的なまでに白い肌と、一昔前のロックミュージシャンの如く長く垂れる金髪。
どう見ても人外の存在が、そこにあった。
「ハジメマシテぇ。オレ様の名前はルクルド。お前にとって都合のいい世界を創ってやった恩人だァー」
真っ赤な唇を鎌のように歪めて嗤う精霊。
それを見た水鏡の頭が、一瞬で沸騰した。
「テメェが……都子を……!」
「ああン? 勘違いスンナよ、人間。オレはその女の願いを叶えただけだろォ? 望んだから、与えてやっただけだろォ? それなのに、文句を言われる筋合いなんざねェなァ!」
何が可笑しいのか、ぎゃはははは、とまたもやルクルドは腹を抱えて嗤った。
「――やっと姿を見せたわね。会えて嬉しいわ、ルクルド」
水鏡の背後から金髪少女の声がする。脳へ直接ではなく、ちゃんと耳へと声が届いた。
振り返ると、エレナが実体化し、屋上へと降り立つところだった。
「ああン? 何だよ何だよ何ですかァ? 誰かと思えば、霊力は超一流のクセして燃費が悪ィせいで全く使えない【金の精霊】じゃありませんかァ? ぎゃははは! こいつはイイ! オレはツイてる! 大して何もできないテメェから、たっぷりと霊力を頂くいいチャンスだァ!」
「何を馬鹿なこと言ってるの? 私が【運命の精霊】なんかに負けるわけないでしょう」
そう言ってエレナは、水鏡と都子に僅かながら視線を送る。
「恭弥。あの精霊――喰らうわよ?」
「ま、待て! そうしたら都子の思い出が――!」
「……残念だけど、精霊に捧げた〈供物〉が戻ることなんてあり得ないわ。それはその子が納得して支払ったものなんだから、自業自得よ。貴方があれこれ悩む必要ないわ」
「だ、だけど……」
「それに、ルクルドを喰らえば、この世界を改変するチカラが消え失せ、世界を元に戻すことができる。――その子が追加で〈供物〉を支払わなくてもね」
「っ!? 本当か!?」
「嘘をつくはずないでしょう」
エレナは当然と言わんばかりだ。
その言葉を聞いて、水鏡は都子の両肩を掴み、正面を向かせる。
「……都子。元の世界に帰ろう」
「い、イヤ…………」
都子がフルフルと首を振る。
普段から落ち着いていて大人びて見える幼馴染が、今は小さな子どものようだった。
「大丈夫だ。元の世界に帰ったら、俺も都子とのことをちゃんと考える。できるだけ、近くにいれるようにするよ。……そういえば、デートの約束だって果たせてないしな」
「恭ちゃん…………」
最後だけ冗談っぽく付け加えると、都子が堪えきれずに笑みを零す。
「やっぱり、恭ちゃんはこっちの世界に来て変わったね。でも、そんな恭ちゃんも好きだよ。だから…………助けて」
「ああ。たぶん元の世界の俺は死ぬほど都子に迷惑かけただろうし、それ以上に悲しませたんだろう。だから、今ここでたっぷり利子つけて借りを返してやるよ」
もう一度しっかりと都子の目を見据えて気持ちを伝え、水鏡は立ち上がった。
「……エレナ。もう容赦しなくていい。あの精霊――ルクルドを喰らえ」
毅然として水鏡が告げると、前方のルクルドが楽しげに嗤う。
「でっきるかなー? オマエらに。このオレ様を倒すことがよォー?」
「当然でしょう。死になさい」
そう言って、エレナが軽く右手を振った。
ただ、それだけだった。
たったそれだけのことで、目が眩むほどの金色が生まれ、大気が振動し、屋上が半壊した。
「うわぁぁぁあああああああ!!!」
水鏡は慌ててしゃがみ込み、都子を庇う。
光が消えても、突風はなかなか収まらない。
「え、エレナ! やめろ! 俺たちまで死んでしまう!」
「もうとっくにやめているわ。これはただの余波よ」
エレナは事も無げに告げるが、しかし屋上は、そこだけ台風が吹き荒れているかのような暴風に包まれ、半壊した瓦礫が凶器となって牙を剥く地獄絵図と化している。
水鏡はとにかく都子だけは傷つかないように庇いつつ、必死に目を閉じて風が弱まるのを待った。
そうして、ようやく風が止んできた頃に目を開ければ……そこには、床面積の半分以上を失っている屋上があった。階下の校舎も半分以上持って行かれている。まるで隕石が降ってきて、そこだけ切り取られてしまったようだ。
「ふう。さすが私ね。残り少ない自前の霊力だけで、ここまでできるのだから」
「おまっ――! だからって、限度ってもんがあるだろうっ!」
「加減なんてしてたら、やられてたわよ? 格下とはいえ、現在はルクルドの支配下にある世界で戦っていたのだから」
「そ、そうだけど……。……! 都子、無事か!?」
あんまりな惨状についエレナへの文句を優先してしまった水鏡が、慌てて腕の中にいる都子の安否を確かめる。
「だ、大丈夫だよ……。えへへ」
そんな風に笑う都子の顔は、泥で頬が汚れていた。
水鏡が庇いきれなかった足下も、瓦礫の破片で切ったのか、少しばかり血が流れている。ただ、命に別状は無いようだ。
「……ごめんな、都子。本当に。失ったものは取り返せないかもしれないけど……これから、俺は……」
「オイオイ。情っけねェなァ! 自分のせいで与えた損害なら、自分の手で奪り返すのが当然だろうがァ?」
「――――!?」
耳障りな口調に驚き、振り返る。
いや、声はもっと高い所から聞こえていた。水鏡がまさかとは思いつつも上空を見上げると……先程と全く変わらず、服にも傷一つ無いルクルドが、余裕の表情で浮遊していた。
「そんな……!?」
驚いたのは水鏡だけではないらしい。前方にいたエレナも信じられないものを見るような表情でルクルドを見上げていた。
「あり得ないわ! 憑いた人間自身が戦うことを放棄し、〈供物〉を捧げることもなくなった。その状態で私の攻撃を受けて、なおも生き残るなんて――!」
「ああ。確かに、アレは効いたぜ。お陰で〝一つ命を失っちまった〟」
「なん……ですって……?」
焦るエレナがそんなに面白いのか、ルクルドは病的に赤い唇を歪めてくつくつと嗤う。
「もう俺はその女には〝憑いていない〟。だから、その女が〈供物〉を捧げようが捧げなかろうが、カンケーねェってわけだ」
「そんな……! 同時に二人の人間に憑くなんて――」
「できるわけがねェ、ってか? 確かにそうだなァ。だが、こんな風に世界のルールを変更できちまうオレ様には、あながち不可能ってわけでもねェんだよ」
エレナが悔しげに俯いた。その背中が、薄っすらと透けてきている。
ルクルドを倒すために全霊力を消費したのだ。ただ現世に顕現するだけでも膨大な霊力を消費してしまうエレナ。このままここに留まれば、霊力を使い果たして元の座に戻るしかなくなってしまう。
「……ごめんなさい、恭弥。後のことは、任せたわ」
「お、おいっ! 任せるって!?」
「こうなってしまった以上、仕方がない。貴方が一人でルクルドを倒すしかないわ。その後、霊力を喰らう程度のチカラは残しているから」
「そ、そんなこと言ったって――――」
なおも情けない言い訳をしようとする水鏡の肩を、エレナが鷲掴みする。
体格には不釣合いなほど強い握力。握られた肩の骨がミシミシと嫌な音を上げるのを意図的に無視しつつ、水鏡はエレナを見据えた。エレナの顔は、信じられないほど悲痛の色に染まっている。
「……お願いよ、恭弥。このままでは、この世界はルクルドの思い通りになってしまう。世界征服がどうのと言っていた私が言うのも何だけれど、あの男に任せた世界がどれほど酷いものになってしまうか、貴方にも解るでしょう?」
肩を掴んでいたエレナの手が離れる。
そのままそっと水鏡の胸に触れ、姿を消失させた。
「くっ……!」
事、ここに至ってようやく水鏡は腹を括った。
もうエレナは頼れない。
ここで自分がルクルドを止めなければ、この世界はこのまま、ルクルドのものになってしまう。
「お別れの挨拶は済んだかァ?」
上空のルクルドは愉し気だ。
圧倒的なチカラを持つエレナを出し抜いたのが、愉快で仕方ないらしい。
「オレ様程度のチカラで真正面からぶつかっても、【金の精霊】には勝てねェ。だが、要は考え方だ。パワーだけが自慢の燃費不良車なんざ、ちょいと策を講じればいくらでも対処のしようはあンだよ」
「……お前の目的は何だ?」
「ああァ?」
「お前の目的だ。まさか、俺にとって都合のいい世界を創るのが目的じゃあ、ないんだろう?」
「当然だろォが」
カッカッカと、ルクルドが愉しそうに両手を広げた。
「オレ様の目的は単純明快、世界征服だよ。〈供物〉を集めたりとか、人間からの信仰を集めたりとか、そんなのはメンドくせェ。だったら、そもそも世界のルールごと変えちまう方がよっぽどラクだ。だからオレは、そんなチャンスを延々と待ち続けてきたンだ。それが、ようやく叶った」
ルクルドが水鏡に抱きかかえられた都子に目を落とす。
「そいつがテメェともうすこし一緒にいたい、なんてくっだらねェ願いを持っていたのは渡りに船だったぜ。そして、そんな願いのために自分の『思い出』なんつー、精霊からしてみれば破格の〈供物〉を捧げたのもラッキーだった。お陰でオレ様は存分にチカラを使えて、なおかつ、【金の精霊】を出し抜くことにも成功したんだからなァ!」
「……都子が二人目だったってのは、わかった。それじゃあ、一人目は――この世界を最初に望んだのは、誰だったんだ」
水鏡の問いにルクルドはニタリと嗤う。
都子の願いが『水鏡ともう少しだけ一緒にいたい』というものだったなら、わざわざこんな世界を用意する必要なんてなかったのだ。だから当然、この世界を創ったのはルクルドが最初に憑いた人間の願いということになる。
「ああ。アイツはよかったゼ。この世界を創るために――オレ様のチカラを存分に発揮するために、自分が持つ全てを捧げた。だからオレ様はここまで派手に、この世界を創り変えることができたんだからよォ。人間ATMっつー言葉は、まさにアイツにこそ相応しいもんだ」
「それが、誰かと訊いているんだ!」
水鏡は諦めていない。
単純なチカラの差ではルクルドに勝つことができなくとも、そのパートナーである人間を懐柔すれば、まだチャンスがあるかもしれない。
都子の時と同様にその人間の願いを聞き、元の世界に戻すよう説得さえすれば――――。
だが、続けてルクルドが告げた名前は、水鏡にとって死ぬほど残酷だった。
「――水鏡絵夢。テメェの妹だよ」
「――――――――」
水鏡の思考が停止する。
そんなバカな、と思った。
都子に続いて絵夢までが、自分のために多くの犠牲を払い、多くを失ったという現実を受け止めることができない。
だが、ルクルドはその証拠を見せるように歪んだ空間に手を突っ込み、先程の騒動で失神していたらしい絵夢を掴み出した。
「絵夢っ!」
水鏡が叫ぶと同時、目を覚ましかけた絵夢をルクルドが屋上へと放る。
慌てて駆け寄った水鏡の手によって、なんとか屋上への衝突は免れることができた。
「ソイツはもう用済みだァ。そいつとの契約で、オレ様は好きなときに好きなだけ〈供物〉を引き出せることになってる。相方サマの頼みだと思って、しばらくはこの世界に甘んじてやったが、サービスタイムは終了ー。こっから先はオレ様の好き放題にさせてもらうゼ」
ぎゃははははーと嗤いながら、【運命の精霊】の姿が宙に溶けていった。
◇
始まりは、些細なことだった。
幼い頃に交通事故で両親を失った一人の少女が、両親の親友だった人の家へと養子に入ることになったのだ。
少女は幼く、そのことの意味を正確に把握してはいない。
ただ、なぜか少女の元に母親も父親も会いに来ることがなくなり、知らない家で知らない大人たちに囲まれて暮らすことは、少女にとってストレス以外の何ものでもなかった。
そんなストレスだらけの生活の中で、唯一の救いが『お兄ちゃん』だったのだ。
常に不安とストレスに怯え、過酷な現実を生きている少女にとって、何の意味もなく優しい笑みを浮かべ、自分と遊んでくれるその『お兄ちゃん』だけが、唯一の救いだった。
だから少女は『お兄ちゃん』が大好きだったのだ。
その気持ちは時を重ねるごとに薄れるどころか、どんどん強まっていった。
そして、その気持ちはとても『兄妹愛』なんて言葉で表されるものでは、なくなってしまっていた。
だけど、そんな彼女自身、気付いていたのだ。
自分の気持ちが世間的に見て、如何に常識から逸脱しているかを。
だから少女は、自分の気持ちを大好きな兄に押し付けるつもりはなかった。日常の中で自分の気持ちを素直に表現することはあっても、決して兄が困るような迫り方はしていなかったのだ。
そして、そんな兄がついに自分と離れてしまう日がやってくる。
兄が受けた大学は、とてもじゃないが自分達二人が通っている高校のレベルと釣り合っていなかった。
なぜ兄がそうまでしてその大学を目指したのかはわからない。ただ、受験勉強に取り組む姿勢は真剣そのもので、妹である自分はもちろん、仲の良かった幼馴染と過ごす時間さえ削っているようだった。
そんな兄のひたむきさを知った少女に、反対することなどできるはずもない。
受験を頑張る兄の手伝いをすることはあっても、邪魔をすることは無かった。冗談で兄の布団に潜り込むこともなくなり、その分、家事に時間を割くことが増えた。
自分の気持ちは全て殺し、ただ兄の幸せだけを願って行動し続けた。
……だから、無理が祟ったのかもしれない。
国公立大学の合格発表があった、あの日。
兄と一緒に高校に通える最後の日に、つい、本音が口から零れた。
気持ち悪いと言われても仕方が無かった。
拒絶されても、仕方が無かった。
ただ、知っておいて欲しかったのだ。
明日からこの街を去り、遠い場所で新たな人生を歩き始める兄に。
いつか、お互いが別々の家庭を持った頃、笑い話として話せればいい――そんな淡い願いを込めて、少女――水鏡絵夢は、自分の気持ちを告げた。
だが、それに対する返事は。
少女が想像していたものとは全然違っていて、ずっと残酷だった。
だから、願ってしまったのだ。何かに。
神も仏も信じない少女が、つい、何かに祈ってしまった。
〝もう一度やり直したい〟と。
そんなことをしても無意味だということは、少女にだって分かっていた。
分かっていながら、祈るしかなかった。
祈らずにはいられなかったのだ。
遅すぎた幸福。
気付かなかった日々。
在ったかもしれない運命を。
まさにその時だった。
少女が、全身黒尽くめの【運命】と出会ったのは――――




