第二話 『カルフォルニアスパングルド』
「フッ。久しぶりだな、マイスィートハニー。三年前のジンバブエ以来か……。ぐあっ、あの時のことを思いだすと、左腕を切り落とされた傷が疼くぜ……! ぐぉぉお、今度は頭を斬り飛ばされた時の古傷があっ……!」
両手で首をおさえ苦しみもがいている俺に、
「あははっ。まぁくん相変わらずだねぇ……ぐすっ。まぁくんだ……本当にまぁくんだぁ~うわぁーん……まぁくーん! ずっと会いたかったよぉ~~! 寂しかったよぉー!」
零れ落ちる涙を手ですくう彼女の様子に俺の良心がちくりと痛んだ。うん、男子たる者こんな可愛い女の子を騙すのはいけないよね。可愛い女の子は宝だ。その輝きが騙し騙されが横行する陰謀めいた世間に染められてはもったいない。
「あー、すまん……言い難いんだが、実は俺――」
「あ~~っ! まぁくん、それっ! 『ワールドマスター』の特集やってるの!?」
彼女は俺の手に持っているグラビア雑誌……ではなかったゲーム誌に気がついた。
何気なくぱらぱらとめくってみるが、そこに水着美女はいない。なんでだよちくしょうふざけんなよ、今この場で食い千切ってやろうか。
「あー、ワールドマスターね。俺も持ってるよ、ワールドマスター。五段を取得する時、時間かかっちゃってさー。今やワールドマイスターなんて呼ばれちゃう俺だけどねー」
「五段っ!? 何なのワールドマイスターって!? 『ワールドマスター』に検定や資格なん必要ないよ!? ……もしかしてまぁくん、『ワールドマスター』が何か知らないの?」
「あー、もちろん冗談だよ。知ってる知ってる。煮てもいいし焼いてもおいしいよね、ワールドマスター。醤油もいいけど俺はコショウかけて食べるのが好きかなぁ。ちょっと骨が多いけど、一口サイズだから丸ごと口に放り込んじゃうよねー?」
「さも共通意識であるかのように同意を求められても!? 食べ物でもないよっ。まぁくんの頭の中でどんなものになってるのっ! 『ワールドマスター』はCSNゲームだよっ、サイバーソーシャルネットゲームだよっ! なんとっ今日から正式サービス開始だよ!」
うん、まあ、鼻高々に教えて頂かなくても知ってるけど。
そして俺は『まぁくん』じゃないんだけど。
このままだと俺が『まぁくん』じゃないと訂正するタイミングが無くなっていきそうだ。
俺は誤解を解くために多少強引に話を切り替えることにした。
彼女の細い両肩をわしりと掴んで俺は少し眼を伏せる。
「なあ、可愛いらしい女の子、心して聞いてくれ。俺たちは愛し合ってはいけないんだ」
「……え……? ど、どうして……わたし、今でもまぁくんのこと……」
そんなに『まぁくん』とやらに恋焦がれているのか、少女の顔に影がさす。
よし、『まぁくん』ぶち殺がす。俺は心に固く誓いながら言葉を続ける。
「言いにくいんだが……俺はまぁくんじゃないんだ。騙してすまない。俺の君に対する愛は本物なんだが……人違いなんだ。俺の君に対する愛は本物なんだが……」
大事なことなので耳に残るように二回言っておくのがミソである。あわよくば『まぁくん』とやらからこの子を奪ってしまおうだなんて企みが紳士メンな俺にあろうはずがない。
「えぇっ!? 人違いなわけないよっ! だってあなた、黒猪正義くんじゃないのっ!?」
黒猪正義くん? あ、なるほどなぁ。マサヨシの頭文字をとって『まぁくん』なわけかぁ。こんな可愛い幼馴染がいるなんて羨ましいなぁ。絶対にぶち殺がすぞ、黒猪正義!
しっかし黒猪正義なんてフザけた名前は珍しいな。正義と書いてマサヨシとかなんだそれぷふっ、親に狙ってつけられたのか? もしそんな奴がいるとすれば俺なら指差して大爆笑しちゃうね。一生からかい続けちゃうね。まあ俺も黒猪正義って名前なんだけど、かなり恥ずかしいもんなぁ。小学校の頃によく変なあだ名を――っていうか、黒猪正義って俺じゃん! そんな漫画みたいなフザけた恥ずかしい名前をクソ両親に授かった恥ずかしい奴はきっと俺しかいないじゃん!
「お、お前っ……! いや、貴様っ! だ、誰だ!? どこで会った!? 何者だ!?」
俺はあまりの驚きに、見たこともない謎のプリティーガールを突き飛ばす。そして両手を翼のように広げて片足立ちになり、荒ぶる鷹のように威嚇した。
「えぇっ!? どうして今になってその反応なの!? トリケラトプス並に反応が遅くない!? ……もしかしてまぁくん、わたしのこと忘れちゃったの?」
じっと彼女の顔を見つめてみる。なんだこいつ……見れば見るほど可愛いじゃないか……。
何を食ったらそうなんの? びっくりするわー。驚きの可愛さだわー。
俺の視線から赤らめた顔を反らし、彼女は人差し指さん同士をちょんちょんと突きあう。ちらちらと横目でこちらを覗う様子も非常に愛らしく求婚したくなるほど男心をくすぐるのだが……。
うーん、どうしたもんか……。
「まったく見覚えがない。今日、初めて会ったよね? 偶然という名の必然に導かれて」
「がぁーんっ! うっそだぁ! 冗談だよね!? 驚かそうとしてるんだよね!? あはは、まぁくんってば人が悪いなぁー。わたし馬鹿だから信じかけちゃったよー、あははは」
少女は体全体でショックを表現すると、すぐに笑って頭をかいた。はは、この子面白いな、見てて飽きないや。……全然知らない子だけど。
俺がどう答えるべきか内心で迷って黙っていると、それを察したのか今度は怒りだした。
「なあぁんでぇ!? どうして覚えてないのっ!? わたしだよっ!? 明日野未来っ! 明日の未来に羽ばたく明日野未来だよっ!」
お前は選挙候補者か、と言いたくなる言い回しだった。本人は羽ばたいているつもりなのか、小鳥さんみたく手でばたばたと宙をかいている見知らぬ少女、明日野未来さん。
その羽ばたく姿はお世辞にも大空を舞う白鳥のようには見えない。池に溺れてもがいているペリカンのようなどん臭さを彷彿とさせていた。
「お前は選挙候補者か」
ボケ担当だがツッコミもできる俺は無意識に彼女の頭をぺちりとやっていた。
「あいたぁっ!? ま、まぁくんいきなりなにするのさー!? DVだよ! ドラマティックバイオレンスだよっ!」
それを言うならドメスティックだと思うよ、可愛い子ちゃん。なんだドラマティックな暴力ってどんなだ。この出会いを感動巨編にでもするつもりか? ……この子、本人も自覚している通りに馬鹿なのかも知れない。きっと脳に行くべき養分がすべてそのよく育った胸にいっちゃったんだろうなぁ……。
「や、やだ……ど、どどど、どこ見てるのっ!」と真っ赤になって両腕で俺の視線を遮る。
「85センチのCカップ」
「えぇっ!? どうして分かったの!?」
フッ……俺だから……としか答えようがない質問だぜ、子猫ちゃん……。
「うーん……まぁくん覚えてないかなぁ。小さい頃よく一緒に遊んだんだけどなぁ。あれだよ、ほら。幼馴染だよ? もうね、結婚の約束とかしちゃってるレベルの幼馴染だよ?」
幼馴染……だと? 耳に心地よい甘美な響きだった。しかも結婚の約束までしてるだって? そっかー、この子が俺の嫁だったのか。でも馬鹿だしなぁ。胸は大きいのに……。
それに俺にはもう幼馴染と呼べる人物がいる。
幼い頃に北海道へ引っ越してしまった鳳という美がつく少女だ。しかし、クールでドライな性格の鳳嬢と明日野さんは似ても似つかない。むしろ人懐っこそうな明日野さんとは真逆のタイプといっていい。
そもそも鳳とは二年前のある出来事をきっかけに絶縁状態だし。あー、鳳との絶縁は決して俺がパンツを盗んだのが原因ではない、とだけ俺の名誉のために付け足しておこう。
……ん? あれ? 名誉のために付け足したつもりが名誉を汚しているような気もするが……まあいっか……。深く考えるのは女の子のことだけで充分だよね。
「よし、分かった! そこまで言うなら真相を究明しようじゃないか! 電話で腐れ縁の友達に明日野さんを知ってるか訊いてみるよ」
「確かめるまでもなく幼馴染だよっ。疑う余地すらなく幼馴染だよっ。天地が逆さまになったって幼馴染だよっ。だから逆から読んでも幼馴染だよっ」
地団駄を踏んでいる自称・幼馴染を放って携帯端末を耳に当てる。番号の登録が三つしかないので探すのも簡単だ。数度コールすると腐れ縁の本郷虎雄と回線が繋がった。
「おう、友人。今さ、城東通りで人に会ったんだけど、ちょっと訊きたいことがあるんだ」
『どったの、変人。にひひ、電話してくるなんて珍しいねぇ。訊きたいことって何さー?』
いつものようにお気楽能天気な調子で明るい声が返ってくる。
「明日野未来って知ってる?」
『明日のミク? じぇんじぇん心当たりないよーん。漫画のタイトルー?』
だよねー。知ってるはずないよねー。マイガッ、明日野さんが妄想の中に生きるイタイ子だと確定してしまったじゃないか……! マイガッ!
「ああ。『まぁくん』という実在しない幼馴染を探す電波女の物語だそうだ」
「わ、わたし、電波じゃないよっ! まぁくんどうして覚えてないのっ!?」
『あ、そーそー。正義くんさ、今、通りのどのあたり? 昨日の話の続きなんだけど、ちょっと大変なことが分かって――』
虎雄が何か言いかけていたが、俺は回線を切って明日野未来さんへと振り返る。
「失礼します。ちょっとボク急いでるんで……」
頭を下げて、そのまま明日野さん――関わっちゃいけない人の横を通り過ぎようとした。
「うわぁーん、待ってよぉ、まぁくーん! 信じてよーっ! 何がダメだったのー!? 再会の仕方間違ってたのぉ!? 空から降ってきた方が良かったのぉ!?」
俺の胴に抱きついてずりずりと足を引きづっている明日野さん。再会の仕方で第一候補に『空から降ってくる』がノミネートしちゃうなんてイタイ子め! 漫画の読みすぎだ!
「いや、うちのこれが、これで、これだからさ。俺もう帰らないと」
俺は身振り手振りを交えて、帰らなければいけないことを主張した。
「まぁくんの飼ってる猫が、ロケットランチャーで、滞空爆撃してるの? 猫飼ってるんだ! 見たい見たい! 三毛猫? チシャ猫? カルフォルニアスパングルド!?」
こ、こいつ。今の高度なジェスチャーを完璧に読み取るとは……なんだか本当に幼馴染な気がしてきた……。…………ところでカルフォルニアスパングルドってなに?
頭の中に沸いた疑問を隅に追いやって、真剣な表情をしている明日野さんを見やる。
コロコロと変わる感情表現の豊かさには驚嘆ものだ。楽しい子には違いないけど……反応するポイントが爆撃じゃなく猫なあたり天然なのかな。イタくて電波で天然とは……。
「……三重苦か……。神は荷物を与える、って本当なんだなぁ」
「あはは、まぁくんおバカさんだね。神様が人類に与えたのは荷物じゃなくて、愛だよっ!」
しかもとびきり頭が悪いらしい。ダメだ、こりゃ。(注・正義も間違って覚えてます)
大抵の男をイチコロにしてしまうであろう笑顔で彼女は俺をびしりと指差した。可愛くて純粋な馬鹿だなんて考えようによっては無敵じゃないのか、この子。
どうやって明日野さんを煙にまこうか考えていると、前から見知った顔が歩いてきた。
「おー、いたいたぁ。正義くーん。さっきの電話はなんなのさー?」
気の抜けるような能天気な声、独特の言葉使い、跳ね上がった髪先。そして嫌でも眼についてしまうのが彼が首にかけている黄色の星が入った黒いヘッドフォンだ。
彼こそ俺のただ一人の友人、本郷虎雄その人だった。
「虎雄。この大きな胸の子が誰だか分かる?」
俺は挨拶もせず、明日野さんを指差して虎雄に鑑定士の役割を与えてみる。
「初めましてっ。明日の未来に羽ばたく明日野未来ですっ。よろしくねっ」
悩みなんてなさそうな元気一杯さで自己紹介するペリカン、もとい、明日野さん。
「「お前は選挙候補者か」」
虎雄と俺は同時に明日野さんの頭をぺしりとはたいた。お前は今まで自己紹介の度にそのアホさ加減まるだしのモノマネを披露してきたのかっ!?
「な、なにするのぉ! どうしてぶつのぉ!? わっかんないよぉ~!」
涙眼で抗議する彼女に、虎雄はツッコミ待ちのボケじゃなかったのかと少し驚いたように俺を見た。だよねぇ、ボケだと思うよねぇ。嘘みたいだろ……マジなんだぜ、こいつ。
長年の付き合いによるアイコンタクトでそう告げると、
「にひひ。どもどもー。本郷虎雄だよーん、よろしくねーん」
お気楽な調子で笑って虎雄は明日野さんと握手をする。どう見ても初対面の対応をしているお二人に、もはや俺に迷いはなかった。
「お前は誰だよっ! どこの異次元から迷い込んできやがった! 帰れ! 帰れよぅ!」
「あ、あれぇっ!? なんだか話が最初に戻ってるよ!? どうしてぇ!?」
明日野さんは知り合ったばかりの虎雄に疑問を投げかけていた。
だが来たばかりで話の流れが分かるはずもない虎雄は「なにがぁ?」と眼をぱちくりさせていた。