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第39話 あと十一曲

大聖堂の尖塔を吹き抜ける風は、もはや肌を刺すような魔力の暴風ではなく、朝の陽光をたっぷりと含んだ柔らかな微風へと変わっていた。


 怜司は尖塔の縁から、眼下に広がる王都の街並みを見下ろした。


 第一封印曲《還天掌》の書き換えによって生み出された黄金色の魔力風が、都市の隅々にまで行き渡っている。暴走し、あちこちで決壊しかけていた魔力水路は、第一曲による魔力供給の遮断が解け、本来の穏やかな駆動音を取り戻していた。


 破裂していた魔力灯の基部にも再び青白い光が灯り始め、パニックに陥っていた市民たちから、安堵と歓喜のどよめきが湧き上がってくるのが微かに聞こえた。


「……終わったな」


 怜司が包帯だらけの指で石の欄干を叩くと、背後から近づいてきた足音が止まった。


「終わった、だと?」


 そこにいたのは、数名の高位聖職者と教会騎士たちに両腕を拘束され、連行されていく聖務卿カリオンだった。


 大聖炉を暴走させ、王都を壊滅の危機に追いやった疑いで、カリオンは暫定審問へ送られることになった。彼が守ろうとした秩序は、皮肉にもその管理者自身を裁く側へ回っていた。


 カリオンの白かった法衣は煤け、その顔には深い疲労と絶望が刻まれている。だが、彼の双眸だけは、未だに昏い執念の炎を燃やしていた。


「勘違いするな、異邦人。私の計画が潰えようと、貴様が世に放った『手印魔法』の危険性が消えるわけではない。魔力を持たぬ愚民どもがその力を振るい始めた時……この世界は、さらなる混乱と血の海に沈むだろう」


 それは、秩序の管理者としての最後の呪詛だった。


「かもな」


 怜司はカリオンの言葉を否定しなかった。誰もが学び得る強力な手印を、誰がどう教え、使いすぎをどう防ぐのか。その問題は未解決のままだ。


「だが、全員を縛って同じ曲を弾かせる最低の譜面より、下手でも勝手でも、誰もが自分の音を出せる世界の方が、俺は好きだよ」


 怜司が肩をすくめてみせると、カリオンは忌々しげに舌打ちをし、騎士たちに促されて暗い階段の下へと消えていった。


 カリオンの姿が見えなくなった後、怜司は振り返り、尖塔の床にへたり込んでいる三人の少女たちへと向き直った。


「セナ。お前、さっきのあの動きは何だ」


 怜司の低い声に、純白の装甲をボロボロに砕かれたセナが、ビクッと肩を震わせた。


 彼女の左腕の駆動系は完全にむき出しになり、火花を散らしている。残り十二パーセントの装甲で数十トンの瓦礫からザフィラとノエラを庇うなど、守護機兵の規定からは明らかに外れている。


「……一時的な、論理回路の乱れです」


 セナは青い瞳の明滅を遅くし、どこかバツが悪そうに視線を逸らした。


「落下物の軌道計算に誤りが生じ、機体制御が最上位目標から逸脱しました。早急に記憶核の整備を実行し……」


「嘘をつくな」


 怜司は歩み寄り、ひしゃげたセナの装甲にそっと手を触れた。


「お前は、自分の意志で二人を助けに行った。……そうだな?」


 セナはしばらく沈黙し、やがて、微かに唇を震わせながら顔を上げた。


「……はい。合理的な計算をすれば、私だけがマスターのおそばに残るべきでした。でも」


 セナは、胸の奥で熱を持つ記憶核をそっと押さえた。


「命令されたからではなく……私が、マスターや、皆と一緒にいたいと。この不規則な合奏を、ここで終わらせたくないと……そう、判断したからです」


 それは、計算と命令の外で彼女自身が選び取った、純粋な『愛着』という名の感情だった。


「よくやった。お前のおかげで、原曲の外へ道が開けた」


 怜司が微笑んで頭を撫でると、セナは嬉しそうに、そしてどこか誇らしげに青い瞳を瞬かせた。


「セナ。これから先も来るかどうかは、命令じゃなくてお前が決めろ」


「はい」


 セナは損傷した胸部装甲に手を当て、少しだけぎこちなく頷いた。


「命令ではなく、私の希望として同行します」


「久瀬さん」


 ノエラが、煤けた藍黒のドレスの裾を摘んで立ち上がった。


 限界まで歌い続けた彼女の喉は赤く腫れ、声はかすれていたが、その気怠げだった瞳には、夜明けの空のような澄んだ光が宿っていた。


「先ほど、騎士の方から聞きました。カリオン様の拘束を受けて、私への追放処分は再審に回され、結論が出るまで停止されるそうです」


「へえ。戻るのか、聖女様に」


 怜司の問いに、ノエラは即座に首を横に振った。


「私はもう、教会の都合の良い歌唱装置ではありませんから。……私は、私が歌いたいから歌います。久瀬さんの隣が、一番私の歌が響く場所だから。……これからも、一緒に連れて行ってくれますか?」


「俺の方から頼みたいくらいだ。お前のボーカルがないと、俺の入力プレイの調子が狂って仕方ないからな」


 ノエラが満面の笑みを浮かべ、怜司の袖をぎゅっと握りしめる。


 その光景を見て、ザフィラが「やれやれ」と大げさなため息をつきながら、戦弦槍を杖代わりにして立ち上がった。


「お前たち、すっかり大団円の空気を出しているが、私の問題はまだ半分しか片付いていないからな」


 ザフィラは自身の褐色肌に刻まれた部族の文様を指差した。


「長老から『族長候補』の資格維持は認められた。失われた終止部を持ち帰れば、民族全体からの完全な承認も得られるだろう。……だが、それよりも重要な約束がある」


 ザフィラは黄金色の瞳を細め、挑発的に怜司を睨みつけた。


「今回は、お前の即興に完全に助けられた。それを認めるのは癪だが、事実だ。……だが、次の曲ではこうはいかないぞ。私が誰よりも速く、完全に主導権を握ってやる」


「言うねえ。変拍子で俺を振り落とせなかったくせに」


「なんだと!? あの時お前が私の拍に……!」


 キャンキャンと噛み付いてくるザフィラの額を、怜司が包帯の巻かれた指で軽く弾く。


「次も楽しみにしてるよ、一番槍。あんまり遅れると、置いていくぞ」


 その軽口の応酬に、ザフィラは悔しそうにしながらも、どこか嬉しそうに八重歯を見せて笑った。


 勝敗が決められない、対等の合奏。その関係が続くことを、彼女は心から喜んでいた。


「……随分と、余裕そうだな。異端者ども」


 ふいに、階段の方から掠れた声が響いた。


 振り返ると、黒焦げのローブを引きずり、杖を支えにして立っている若き魔術師、レオン・グラードの姿があった。


 魔力を使い切り、立っているのもやっとの疲労困憊の状態。彼はカリオンのように失脚はしなかったものの、信じていた高魔力至上主義の常識を完全に破壊され、そのプライドはズタズタになっていた。


「レオン。まだ俺たちを捕まえる気か?」


 ザフィラが警戒して槍を構えるが、レオンは力なく首を振った。


「……そんな気力も、魔力もない。それに、お前たちが王都を救った事実を、私はこの目で見てしまったからな」


 レオンはゆっくりと怜司の前に歩み寄り、そして、深く頭を下げた。


「お前の、あの指の動き……『手印魔法』とやら。その技術の基礎を、私に教えてほしい」


 それは、エリートである彼にとって、死ぬよりも屈辱的な懇願だったに違いない。


 だが、彼は自身の高魔力の即応性と、怜司の精密な手印の技術が合わされば、どれほど多くの命を救えるかを、水路の暴走事故で実感してしまっていたのだ。


「……ほう」


 怜司は面白そうに目を細めた。完全にデレたわけでも、思想を改めたわけでもない。だが、純粋に新しい技術プレイスキルを渇望するその執念は、ゲーマーとして嫌いではなかった。


「教えるのは構わないが、俺の要求するテンポについて来られるか? 魔法陣の出力ごり押ししかやってこなかったお坊ちゃんには、シビアな判定だぞ」


「愚弄するな。私は王都で一番の才能を持っている。……必ず、モノにしてみせる」


「よし。じゃあ、まずは荷物持ちからスタートだ。俺の指の動きを、一番後ろで見て学べ」


 怜司がニヤリと笑うと、レオンは屈辱に顔を歪めながらも、反論せずに深く頷いた。


『……やれやれ。有象無象の伴奏どもに、出来損ないの魔術師まで加わるとはな。これでは、わらわの原曲がいつまで経っても完全な形で響くまい』


 不意に、怜司の肩の上から、ひどく尊大で、舌足らずな可愛らしい声が響いた。


 怜司が首を巡らせると、そこには、数十分前まで絶世の美女として君臨していたはずの魔王が、再び『幼女の姿』に縮んで、偉そうにふんぞり返っていた。


「エルネリア。お前、その姿……」


『ふん。大聖炉から吸い上げた魔力の大半を、第一曲の書き換えと安定のために注ぎ込んだからな。この姿を保つ力が足りなくなっただけじゃ。案ずるな』


 エルネリアは短い手足を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


 外見は幼女に戻ってしまったが、その紫の瞳には、女王としての記憶と威厳が確かな知性として引き継がれていた。


『……わらわの芸術的な原曲を、あのように泥臭く、濁りだらけに編曲しおって。本当に、忌々しい奏者じゃ』


 エルネリアは怜司の頬をぷにぷにと引っ張りながら、毒づいた。


『だが……まあ、よい。第一曲を変えられたことは、今回の一度だけ、特別に認めてやろう。王都の魔力を循環させるというのも、悪くない手印じゃったからな』


「一度だけ、ね」


 怜司が苦笑すると、エルネリアは怜司の肩の上で立ち上がり、短い指で遥か遠くの空をビシッと指差した。


『勘違いするなよ、奏者。わらわの封印曲は、この《還天掌》だけではない』


 エルネリアが指差した先。夜明けの白々とした空の彼方、世界のあちこちの地平線上で、微かな、しかし確かな光の柱がいくつも立ち上り始めていた。


『第一曲が書き換えられ、魔力が大きく変動したことで、世界中に散らばる残りの封印が共鳴して目覚め始めたのじゃ』


「あと十一曲、か」


『左様。……残る十一曲では、必ずわらわの完璧な原曲の美しさに、貴様ら全員を屈服させてやる。覚悟しておくのじゃな、愛しき伴奏どもよ!』


 幼女魔王の尊大な宣戦布告に、ザフィラが「やってみろ」と槍を掲げ、ノエラが静かに微笑み、セナが「マスターの防衛を最優先します」と駆動音を鳴らす。


 怜司は遠く光る十一の封印曲の兆候を見つめ、包帯だらけの指の関節をポキポキと鳴らした。


「上等だ。世界中に散らばってる譜面を全部読み解いて、気に入らない結末は俺たちの曲へ繋ぎ直してやる」


 魔力ゼロの荷物持ちから始まった、音ゲーマーの異世界攻略。


 第一の危機は去った。だが、まだ見ぬ未知の譜面と、最高の合奏が彼らを待っている。


 黄金色の風が吹き抜ける王都の空の下、新たな冒険の幕開けを告げる彼らの足音が、高らかに鳴り響いた。

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