第37話 俺たちの譜面に、正解はない
完璧な正解として用意されていた第一封印曲のルート。
怜司がその最終手印を止め、原曲の中に『空白』を作った瞬間、大聖堂の頂を取り巻いていた魔力の流れが、軋みを上げて停滞した。
分岐は、まだ開いていない。
書かれていない一拍も、まだ存在しない。
ただ、エルネリアの原曲が最後まで流れきるはずだった道に、初めて何も決められていない余白だけが生まれていた。
『……正気か、奏者よ』
上空の巨大な魔法陣を背負い、大人の姿となったエルネリアが信じられないというように紫の瞳を見開いた。
『わらわの用意した完璧な結末を……一拍の遅れもなく至高の響きを与えてやる奏座を、自ら放棄するというのか!』
「ああ」
怜司は、どの手印にも固定していない両手を構えたまま答えた。
「正解が危ないなら、そこを叩く理由はない」
『……ならば、その空白ごと消し飛ぶがよい!』
エルネリアが白く長い腕を振り下ろした。
上空の魔法陣から、原曲の流れを守るための極度に圧縮された『光の柱』が、雨霰となって尖塔の床へ降り注いだ。
触れれば一瞬で消し炭になる、絶対的な破壊の雨。
だが、その弾幕の前に、躊躇なく飛び出した影があった。
「ふざけるな。アイツの伴奏など、一度も引き受けた覚えはない!」
ザフィラだ。
彼女は戦弦槍を頭上で回転させ、降り注ぐ光の柱を物理的な遠心力で強引に弾き飛ばした。
そして、ただ怜司を守るための一定のテンポではなく、極めて攻撃的で、変則的なステップを刻み始める。
ダンッ、タ・タ・タンッ、ベンッ!
四拍子でも三拍子でもない。
七拍子と五拍子が不規則に入り混じる、戦奏民の中でも異端とされる激しい変拍子。
「私に合わせろ、異邦人! 主導権は常に私だ!」
ザフィラが血を流しながら、挑戦的な笑みを浮かべて叫ぶ。
戦奏試合で二人が本気でぶつかり合った時と同じ、互いの音を喰い合うような闘争の合奏。
「上等だ! 振り落とされるなよ、一番槍!」
怜司の十指が、包帯に滲む血を散らしながら宙を舞う。
ただし、もう石版に記された原曲をなぞってはいない。
ザフィラの変拍子をその場で読み、原曲の最後へ流れ込もうとする魔力を横へ逃がす。
ザフィラが次の一歩を踏み出す位置を先読みし、そこへ短い手印を置く。
ザフィラはその光を拾い、さらに半拍早く踏み込む。
互いに速度と主導権を奪い合う、息の詰まるせめぎ合い。
だが、今までと決定的に違うことが一つあった。
怜司自身にも、この先の完成形が見えていない。
(決まった譜面がない……)
目の前に落ちてくるノーツを叩くのではない。
ザフィラが鳴らした音を拾い、その場で次の入力を作る。
その結果を見て、さらに次を決める。
一手先すら保証されていない。
それでも。
(……面白い)
怖い。
だが、それ以上に。
これまで味わったことのない種類の高揚が、怜司の背筋を駆け上がった。
ザフィラの変則的な動きと怜司の即応性が噛み合い、エルネリアの放つ光の柱はことごとく空を切り、尖塔の床を穿つのみに留まっていた。
『小賢しいわ!』
エルネリアが苛立たしげに叫ぶ。
『だが、いくら原曲の終止部を拒もうと、第一曲の対象はすでに「全人類」として固定されておる! その空白に何も入らぬままでは、やがて原曲の力に呑まれるだけじゃ!』
その言葉通りだった。
上空の魔法陣は不安定に震えながらも、完全には止まっていない。
王都から立ち上る魔力の光点も、まだ消えてはいなかった。
怜司が原曲を止めたことで抽出速度こそ鈍っているが、このままではいずれ押し切られる。
しかも『全人類』という巨大な対象指定そのものは、まだ生きている。
「……久瀬さん」
ザフィラの背後から、ノエラが藍黒のドレスの裾を強く握りしめ、一歩前へ進み出た。
彼女は深く息を吸い込む。
限界を超えて嗄れた喉が、小さく震えた。
「私も、入ります」
「喉は持つのか?」
「わかりません」
ノエラは、それでも少しだけ笑った。
「でも……歌いたいので」
そして、大聖堂の空へ向かって、己の意志のすべてを込めた歌を響かせた。
――♪……!
神への祈りではない。
全体への抽象的な慈愛でもない。
「……東通りで、いつも焦げたパンをオマケしてくれたお爺さん」
ノエラが歌へ紡ぐのは、彼女が王都で出会った人々の顔だった。
「……転んで泣いていた、金髪の男の子。荷馬車の前で困っていた、ロバを連れたお婆さん……」
教会の均質化された聖歌が削ぎ落としてきたもの。
一人一人の名前。
仕事。
暮らし。
誰と食事をして、何を嫌い、明日は何をしたいのか。
ひどく個人的で、泥臭くて、世界全体から見れば取るに足らない願い。
ノエラは、自分が覚えている限りの人々を、一つずつ歌へ乗せていく。
『な、何をしておる……!?』
エルネリアの顔に、初めて明確な動揺が走った。
第一曲は『全人類』を一つの対象として処理しようとしている。
だがノエラの歌は、その巨大な一括指定へ、一人ずつ別々の輪郭を与えていた。
ひとまとめにされていた対象が、無数の『個人』として分離されていく。
「マスター。対象指定の処理負荷が急上昇しています」
後方で大盾を構えていたセナが報告する。
「第一曲の魔力抽出速度、二十七パーセント低下」
「まだ足りない」
「肯定します。対象設定そのものの解除には至っていません」
止まってはいない。
だが、効いている。
『ええい、鬱陶しい!』
エルネリアが声を荒らげた。
『そのように拍が乱れ、濁った音の入り混じる不協和音で、高度な手印魔法が成立するものか! 自壊せよ!』
確かに、音楽として見れば滅茶苦茶だった。
ザフィラのテンポは荒ぶり、ノエラの歌は一定ではない。
人の名を歌うたびに長さも呼吸も変わる。
石版に残された原曲から見れば、規則外れの音の集合だ。
だが。
(……違う)
怜司の目は、かつてないほどの集中力で二人を捉えていた。
ザフィラがわずかに踏み込みを遅らせた。
疲労ではない。
ノエラが長い名前を歌い切るまで、ほんの半拍だけ待ったのだ。
ノエラの声がかすれた。
ザフィラがすぐさま弦を低く鳴らし、その隙間を埋める。
二人とも、原曲には存在しない。
しかも、毎回違う。
それでも互いを見ながら、必死に繋げている。
(雑音じゃない)
怜司の指が走る。
(全部、意味がある)
ザフィラの揺れ。
ノエラの息継ぎ。
声の震え。
誰かの名前を思い出すために生まれた、一瞬の間。
怜司はそれらを誤りとして切り捨てず、一つずつ次の手掛かりとして拾い上げていった。
原曲を完成させるためではない。
空白を、空白のまま維持するために。
エルネリアの原曲へ魔力が戻ろうとするたびに、その流れへ新しい手印を差し込み、別の方向へ逃がす。
一つ。
二つ。
三つ。
その場限りの接続を重ねる。
譜面はない。
正解もない。
それでも、魔法は壊れていない。
『……あり得ぬ』
エルネリアの表情から怒りが消え、一瞬だけ純粋な驚愕へ変わった。
『譜面なき手印を、なぜそこまで繋げられる……』
「別に」
怜司は歯を食いしばりながら笑った。
「俺が全部作ってるわけじゃない」
ザフィラが音を出す。
ノエラが意味を与える。
セナが崩れかけた足場を盾で支える。
怜司は、それを拾っているだけだ。
「正解がないなら――みんなが出した音を、次の一手にすればいい!」
十指が加速する。
ザフィラの槍の軌道に合わせ、降り注ぐ光を逸らす短い防壁を作る。
ノエラが名前を歌った人間へ向かう抽出線だけを、一時的に切断する。
一本。
また一本。
第一曲が王都へ伸ばした魔力の線が、局所的にほどけていく。
しかし、切ったそばから原曲が自動的に修復しようとする。
(くそっ……!)
怜司の指が軋む。
今やっているのは、書き換えではない。
原曲が完成するのを、仲間の音を使って無理やり遅らせているだけだ。
青白い巨大魔法陣の表面へ、怜司たちの手印による黄金色の亀裂が走る。
一本。
二本。
だが、染め替えるところまではいかない。
魔力の逆流が一時的に鈍り、王都から立ち上っていた光点も減少する。
それでも、完全には止まらなかった。
「マスター」
セナの声が飛ぶ。
「第一曲の自己修復速度が上昇。現行の即興入力のみでは、あと四十七秒で原曲側が優勢になります」
「わかってる!」
分岐が必要だ。
この空白を、本当の新しい終止部へ繋ぐための条件。
だが、そのための『予測不能な一拍』はまだ来ない。
ザフィラが意図的に変拍子を入れても違う。
ノエラが歌を揺らしても違う。
怜司自身がタイミングを外せば、ただのミスになる。
どれも意味を持っている。
だが、どれも彼ら自身が『起こそうとして起こした音』だ。
(違う……これじゃない)
怜司にはわかってしまう。
どれだけ即興に見えても、今の音は全員が『第一曲を止めるため』に出している。
目的から逆算された音だ。
だから、原曲の理の外には出られない。
『くは……くはははっ!』
エルネリアが笑った。
先ほどまでの驚愕を押し殺し、自信を取り戻した笑い。
『惜しかったのう、奏者よ! 確かに見事な足掻きじゃ。譜面のないまま、これほど原曲へ食らいつくとは認めてやろう』
青白い魔法陣が再び脈動する。
黄金色の亀裂が、じわじわと押し戻され始める。
『だが、それだけじゃ!』
エルネリアが腕を大きく広げた。
『貴様らが何をしようとしているかは、すべてわらわの原曲の内側にある! 止めたい、救いたい、勝ちたい――その意図がある限り、原曲の理は先を読める!』
「……っ」
図星だった。
ザフィラが歯噛みする。
ノエラの歌声が苦しげに揺れる。
セナの青い瞳が高速で明滅し、膨大な候補を演算している。
「予測不能な入力候補を演算します」
「駄目だ、セナ!」
怜司が即座に叫んだ。
「計算して出した時点で、それは乱数と同じだ!」
「……了解しました」
セナの演算表示が止まる。
その瞬間。
エルネリアの紫の瞳が、冷たく細められた。
『ならば、その不快な音を作っている原因そのものを消せばよい』
「何……?」
怜司が顔を上げた。
エルネリアの視線は、自分を見ていなかった。
歌い続けているノエラ。
そして、変拍子を刻み続けるザフィラ。
二人へ向けられている。
『わらわの奏者が迷うのは、貴様らという濁りが混じるからじゃ』
「――っ、エルネリア!」
『不純物の発生源を絶つ』
エルネリアは、魔法陣の残存出力を純粋な物理破壊力へ変換した。
彼女が狙ったのは、手印を組む怜司ではない。
その曲を原曲の外へ引っ張り続けている、二つの音。
ノエラとザフィラだった。
バギィィィンッ!!
尖塔上部を支えていた巨大な石柱が、根元から爆ぜた。
「しまっ……!」
怜司が気づいた時には遅かった。
メキメキメキッ! という轟音と共に、天井の石組みが崩れる。
さらに、その中央に吊られていた数十トンもの巨大な青銅の鐘が、支えを失った。
ザフィラとノエラの真上。
回避するには、あまりにも遅い。
「ザフィラ! ノエラ!」
怜司が叫ぶ。
だが手を止めれば、今度こそ第一曲の原曲が空白を呑み込み、完成する。
自分が助けに行くことはできない。
セナは怜司のすぐ隣で大盾を構えている。
最上位目標は、怜司が入力を終えるまで彼を守ること。
守護機兵としての正しい行動は、一つしかない。
怜司のそばに残ること。
巨大な鐘が落ちる。
その影が、ザフィラとノエラを完全に覆った。
そして。
セナの青い瞳が、激しく揺れた。




