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今さら泣きついてこないでください  作者: 小林翼


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ルミエールに到着して十日目。ヴァランティーヌ商会は正式に開業した。


倉庫の入口には真新しい看板が掲げられている。白地に深い緑色の文字で「ヴァランティーヌ商会」、その下に翼を広げた鷲の紋章。リュシエンヌが知り合いの看板職人に頼んで作らせたもので、シンプルだが目を引く出来だった。


「うむ、悪くない」


マティアスが腕を組んで看板を見上げ、満足げに頷いた。


フィオナは倉庫の二階の事務室に立ち、窓から通りを見下ろした。まだ人通りは少ないが、この景色がいつか活気に満ちる日が来る。そう信じて、ここに立っている。


最初の事業は計画通り、保存食の製造と販売だ。


まずフィオナはルミエール近郊の農家を一軒一軒訪ね歩いた。リュシエンヌを伴い、馬車ではなく徒歩で。公爵令嬢が泥道を歩いて農家の門を叩く姿は、最初こそ奇異の目で見られたが、フィオナの丁寧な物腰と具体的な提案に、農家たちは次第に耳を傾けるようになった。


「余った果物や野菜を、適正な価格で買い取らせていただきたいのです。季節外れのものでも構いません。むしろ、今まで捨てていたものに値段をつけます」


農家にとって、収穫物の余剰は頭痛の種だった。保存できずに腐らせるか、二束三文で仲買人に叩き売るかの二択。フィオナの提案は、その悩みを解決する第三の選択肢だった。


三日間で七軒の農家と仕入れ契約を結んだ。秋の果物——林檎、洋梨、葡萄を中心に、冬に向けた根菜類も確保する。



並行してフィオナは、保存食の要となるガラス瓶の調達に動いた。


ルミエール近郊のガラス工房、ホフマン工房とシュタイン工房の二軒を訪問した。どちらも技術は確かだが需要不足に苦しんでおり、フィオナの大量発注の話に目の色を変えた。


「五百本を初回として、以後毎月三百本の継続発注をお約束します。ただし、条件があります」


フィオナが示したのは、密閉性を高めるための瓶の設計図だった。前世の知識を元に、蓋の構造と封蝋の方法を詳細に描いたもの。


「この仕様で作っていただきたい。蓋と瓶の接合部を二重構造にして、ここに蝋を流し込んで密封します。空気を完全に遮断することが目的です」


ホフマン工房の親方は設計図を食い入るように見つめた。


「こんな構造は見たことがない。だが理屈は分かる。やれるか試してみよう」


「試作品を十本、一週間でお願いできますか。出来次第、本発注に入ります」


価格交渉ではマティアスが力を発揮した。老経理士は柔和な顔の裏に鋼の交渉術を隠し持っており、工房の原価構造を見抜いた上で、双方に利益が出る価格を巧みに引き出した。



瓶の試作を待つ間、フィオナは加熱殺菌の実験に没頭した。


倉庫の土間に大鍋を据え、薪で火を焚く。果物を煮詰め、熱いうちに瓶に詰め、蓋をして蝋で封をする。さらに瓶ごと湯煎にかけて加熱殺菌する。前世の知識では、この工程で瓶内の微生物を死滅させ、長期保存が可能になるはずだった。


しかし理論と実践の間には常に溝がある。


最初の試作は失敗した。封蝋が甘く、三日目に蓋が浮いて中身が腐った。二度目は加熱温度が高すぎて果物が煮崩れ、見た目が悲惨なことになった。三度目は瓶そのものにひびが入り、中身が漏れた。


「くそ」


フィオナは珍しく声に出して悔しがった。リュシエンヌが目を丸くし、マティアスが眼鏡の奥で苦笑する。


「お嬢様がそんな言葉を使うとは」


「マティアスさん、商会ではフィオナと呼んでください。それと、もう一度やります」


四度目。封蝋の量を増やし、蓋の圧着方法を改良し、加熱温度と時間を細かく調整した。果物は林檎を選び、砂糖と少量の酢を加えて煮た。


一週間後、封を開けた瓶の中身は——新鮮な酸味と甘みを保ったままだった。


「できた」


フィオナの声は静かだったが、目が輝いていた。リュシエンヌが味見をして唸る。


「うまい。こいつは売れるぞ」


マティアスはさっそく原価計算を始めた。果物の仕入れ値、瓶代、燃料費、人件費。すべてを積み上げて売値を算出する。


「瓶一本あたりの原価が銅貨十五枚。売値を銅貨三十枚に設定すれば、粗利率は五割だ。悪くない」


「一般の果物が銅貨五枚で買える中で、三十枚は高くないですか」


「季節を問わず食べられるという付加価値がある。冬場なら果物そのものが手に入らないのだから、むしろ安いくらいだ」


フィオナは頷いた。だが最初から高価格帯で売るのは慎重でありたい。


「最初の一ヶ月は銅貨二十枚で販売します。味を知ってもらうことが優先です」



しかし、販路の確保という最大の課題が残っていた。


ギルド長バルトロメの態度を見る限り、ルミエールの既存の店舗にフィオナの商品を置いてもらうのは難しい。挨拶料を払ったとしても、ギルドの息がかかった店が新参者の商品を積極的に扱うとは思えなかった。


倉庫の事務室で、フィオナは腕を組んで考え込んでいた。


「既存の流通に乗れないなら、自分で流通を作ればいい」


呟きながら、帳簿に新しいページを開く。


「移動販売よ。荷馬車一台あれば、市場やルミエール周辺の村を巡って直接売ることができる。店を借りるコストもかからない。お客様の反応も直に確かめられる」


リュシエンヌが腕を組んだ。


「護衛はあたしがやる。だが馬車の御者と売り子が要るぞ」


「売り子は私がやります」


「あんたが?」


「前世……いえ、昔から営業は得意なの」


フィオナは微笑んだ。前世の藤野真奈美は、飛び込み営業で何十回断られても笑顔を崩さなかった女だ。市場で保存食を売るくらい、どうということはない。


こうしてヴァランティーヌ商会の最初の商品——「林檎の蜜煮瓶詰め」が完成した。倉庫の棚に並んだ五十本の瓶が、ランプの光を受けて琥珀色に輝いている。


「さあ、ここからが本番ですよ」


フィオナは仲間たちを見回し、力強く宣言した。戦いはまだ始まったばかりだった。

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