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今さら泣きついてこないでください  作者: 小林翼


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7

五日間の旅路を経て、馬車がルミエールの街に入ったのは昼過ぎのことだった。


街道の先に見えてきたのは、赤い屋根が連なる活気のある街並みだった。三本の主要街道が交わる交差点には大きな噴水広場があり、荷馬車や商人、旅人がひっきりなしに行き交っている。市場の方角からは威勢のいい売り声が風に乗って届いてきた。


「思ったより大きいな」


御者台から飛び降りたリュシエンヌが、街を見渡して呟いた。


「人口およそ二万。周辺の農村部を含めれば五万に近い経済圏です。ここが我が商会の本拠地になります」


フィオナは馬車を降り、深く息を吸った。土と干し草と、焼きたてのパンの匂い。王都の洗練された空気とは違う、地に足のついた匂いだった。


商会の拠点として下見を済ませていた物件は、中央広場から二本裏の通りに面した石造りの倉庫だった。元は穀物商の倉庫だったが、持ち主が事業を畳んで王都に引っ越し、空き物件になっていたものだ。


鍵を開けて中に入ると、埃っぽい空気が鼻をついた。広い土間に木製の棚が並び、二階には事務所として使える部屋が三つある。壁にはひび割れがあり、窓ガラスは何枚か割れていた。


「……掃除からだな」


リュシエンヌが袖をまくった。マティアスは眼鏡を拭きながら、帳簿をめくって修繕費用を計算し始めている。


フィオナは箒を手に取った。公爵令嬢が箒を握る姿に、リュシエンヌが目を丸くする。


「あんたが掃除するのか」


「商会では対等だと言ったでしょう。それに、自分の城は自分で磨かないと気が済まないの」


三人で半日がかりで倉庫を掃除した。埃を払い、蜘蛛の巣を取り、割れた窓ガラスを板で塞いだ。日が暮れる頃には、少なくとも人が寝泊まりできる程度には整った。



翌朝、フィオナはルミエールの商人ギルドに挨拶に出向いた。


ギルドの建物は中央広場に面した三階建ての立派な石造りで、正面には金色の天秤のギルド紋章が掲げられている。受付で来意を告げると、奥の応接室に通された。


ギルド長のバルトロメは、腹の出た中年の男だった。脂ぎった顔に薄い笑みを浮かべ、フィオナを上から下まで舐めるように見ている。


「ヴァランティーヌ公爵家のお嬢様が、商売をなさると」


「はい。保存食の製造と販売を手始めに、商会を設立いたします。ギルドとは良好な関係を築きたいと考えております」


「はっはっは。しかしお嬢様、商売というのは帳簿の上だけでは動きませんぞ。泥臭い交渉も、朝から晩までの肉体労働もある。お嬢様の白い手には荷が重いのではないかな」


笑い方に悪意が滲んでいた。フィオナは微笑みを崩さない。


「ご忠告ありがたく存じます。ギルドへの正式な届出は明日にでも」


「届出はいつでもどうぞ。ただし、ルミエールの商慣習に従っていただきますよ。新規参入者には相応の——まあ、挨拶料とでも申しましょうか——が必要でしてな」


挨拶料。要するに上納金だ。


「金額をお聞かせいただけますか」


「金貨五十枚ほど。新参者がこの街で商売をさせていただくための礼儀です」


法外ではないが理不尽だ。フィオナは今は波風を立てないことを選んだ。


「検討させていただきます」


ギルドを出ると、リュシエンヌが壁に寄りかかって待っていた。


「どうだった」


「予想通り。歓迎はされていないわね」


「あの太った男、気に入らないな。目つきが汚い」


「でも今は敵を作るときじゃない。まずは実績を示すことが先よ」


二人は倉庫に向かって歩き始めた。フィオナは歩きながら街の様子を観察した。どの店が繁盛しているか、どの通りに人が集まるか。すべてが情報であり、すべてが商機だった。



夕刻、少し時間ができたフィオナは、街の茶館に足を運んだ。中央広場から一本入った路地にある小さな店で、磨かれた木のカウンターが温かい雰囲気を作っている。


カウンターの隅に腰を下ろし、紅茶を頼んだ。帳簿を広げてギルドへの対策を練っていると、隣の席に誰かが座った。


「珍しい。この店で帳簿を広げる人間は初めて見た」


低いが柔らかい声だった。顔を上げると、銀色の髪をした青年がこちらを見ていた。整った顔立ちに碧い瞳。旅装束だが、仕立ての良い外套を羽織っている。ただの旅人には見えない品のある佇まいだった。


「失礼。お邪魔でしたか」


「いいや。むしろ興味がある。その帳簿、物流コストの計算かな」


フィオナは驚いた。一目で帳簿の内容を見抜く観察眼。


「……よくお分かりですね」


「数字を見る仕事をしているものでね。ところで、その試算だと街道の通行料が過小評価されていないか。ルミエールから北の街道は、この秋に領主が料率を上げたはずだ」


「本当ですか」


「二週間前にその街道を通ってきた。荷馬車一台あたり銀貨三枚に上がっていた」


フィオナは慌てて帳簿の数字を修正した。この情報は大きい。北方への物流コストが想定より高くなるなら、輸送ルートを見直す必要がある。


「助かりました。旅のお方にこんなことを伺うのも失礼ですが、北方の経済事情にお詳しいのですか」


青年は紅茶のカップを口元に運び、少し考えるように間を置いた。


「多少は。北方は食料の確保が大きな課題でね。保存の利く食品があれば、喉から手が出るほど欲しがる国もある」


「保存食、ですか」


フィオナの目が光った。まさに自分が最初の事業として選んだ分野だ。


「もしよろしければ、もう少し詳しくお聞かせいただけませんか」


それから二人は、日が暮れて茶館の灯りがともるまで語り合った。北方の経済圏のこと、各国の貿易政策のこと。話すほどに、この青年の知識の深さと視野の広さに驚かされた。


「申し遅れました。フィオナと申します」


「アレクシスだ。旅の途中でね、しばらくこの街に滞在する予定だ」


互いに姓は名乗らなかった。けれどフィオナには確信があった。この人はただの旅人ではない。どこかの国の、相当な地位にある人間だ。


「またこの店に来ますか」


「気に入った。紅茶も、今日の会話も」


アレクシスは淡く微笑み、外套を翻して茶館を出ていった。フィオナは残された紅茶を飲み干し、帳簿に目を落とした。修正された数字の横に、小さく書き加える。


北方——要調査。


鼓動がわずかに速いことに気づいたが、それは新しい商機への興奮だと自分に言い聞かせた。

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