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五日間の旅路を経て、馬車がルミエールの街に入ったのは昼過ぎのことだった。
街道の先に見えてきたのは、赤い屋根が連なる活気のある街並みだった。三本の主要街道が交わる交差点には大きな噴水広場があり、荷馬車や商人、旅人がひっきりなしに行き交っている。市場の方角からは威勢のいい売り声が風に乗って届いてきた。
「思ったより大きいな」
御者台から飛び降りたリュシエンヌが、街を見渡して呟いた。
「人口およそ二万。周辺の農村部を含めれば五万に近い経済圏です。ここが我が商会の本拠地になります」
フィオナは馬車を降り、深く息を吸った。土と干し草と、焼きたてのパンの匂い。王都の洗練された空気とは違う、地に足のついた匂いだった。
商会の拠点として下見を済ませていた物件は、中央広場から二本裏の通りに面した石造りの倉庫だった。元は穀物商の倉庫だったが、持ち主が事業を畳んで王都に引っ越し、空き物件になっていたものだ。
鍵を開けて中に入ると、埃っぽい空気が鼻をついた。広い土間に木製の棚が並び、二階には事務所として使える部屋が三つある。壁にはひび割れがあり、窓ガラスは何枚か割れていた。
「……掃除からだな」
リュシエンヌが袖をまくった。マティアスは眼鏡を拭きながら、帳簿をめくって修繕費用を計算し始めている。
フィオナは箒を手に取った。公爵令嬢が箒を握る姿に、リュシエンヌが目を丸くする。
「あんたが掃除するのか」
「商会では対等だと言ったでしょう。それに、自分の城は自分で磨かないと気が済まないの」
三人で半日がかりで倉庫を掃除した。埃を払い、蜘蛛の巣を取り、割れた窓ガラスを板で塞いだ。日が暮れる頃には、少なくとも人が寝泊まりできる程度には整った。
翌朝、フィオナはルミエールの商人ギルドに挨拶に出向いた。
ギルドの建物は中央広場に面した三階建ての立派な石造りで、正面には金色の天秤のギルド紋章が掲げられている。受付で来意を告げると、奥の応接室に通された。
ギルド長のバルトロメは、腹の出た中年の男だった。脂ぎった顔に薄い笑みを浮かべ、フィオナを上から下まで舐めるように見ている。
「ヴァランティーヌ公爵家のお嬢様が、商売をなさると」
「はい。保存食の製造と販売を手始めに、商会を設立いたします。ギルドとは良好な関係を築きたいと考えております」
「はっはっは。しかしお嬢様、商売というのは帳簿の上だけでは動きませんぞ。泥臭い交渉も、朝から晩までの肉体労働もある。お嬢様の白い手には荷が重いのではないかな」
笑い方に悪意が滲んでいた。フィオナは微笑みを崩さない。
「ご忠告ありがたく存じます。ギルドへの正式な届出は明日にでも」
「届出はいつでもどうぞ。ただし、ルミエールの商慣習に従っていただきますよ。新規参入者には相応の——まあ、挨拶料とでも申しましょうか——が必要でしてな」
挨拶料。要するに上納金だ。
「金額をお聞かせいただけますか」
「金貨五十枚ほど。新参者がこの街で商売をさせていただくための礼儀です」
法外ではないが理不尽だ。フィオナは今は波風を立てないことを選んだ。
「検討させていただきます」
ギルドを出ると、リュシエンヌが壁に寄りかかって待っていた。
「どうだった」
「予想通り。歓迎はされていないわね」
「あの太った男、気に入らないな。目つきが汚い」
「でも今は敵を作るときじゃない。まずは実績を示すことが先よ」
二人は倉庫に向かって歩き始めた。フィオナは歩きながら街の様子を観察した。どの店が繁盛しているか、どの通りに人が集まるか。すべてが情報であり、すべてが商機だった。
夕刻、少し時間ができたフィオナは、街の茶館に足を運んだ。中央広場から一本入った路地にある小さな店で、磨かれた木のカウンターが温かい雰囲気を作っている。
カウンターの隅に腰を下ろし、紅茶を頼んだ。帳簿を広げてギルドへの対策を練っていると、隣の席に誰かが座った。
「珍しい。この店で帳簿を広げる人間は初めて見た」
低いが柔らかい声だった。顔を上げると、銀色の髪をした青年がこちらを見ていた。整った顔立ちに碧い瞳。旅装束だが、仕立ての良い外套を羽織っている。ただの旅人には見えない品のある佇まいだった。
「失礼。お邪魔でしたか」
「いいや。むしろ興味がある。その帳簿、物流コストの計算かな」
フィオナは驚いた。一目で帳簿の内容を見抜く観察眼。
「……よくお分かりですね」
「数字を見る仕事をしているものでね。ところで、その試算だと街道の通行料が過小評価されていないか。ルミエールから北の街道は、この秋に領主が料率を上げたはずだ」
「本当ですか」
「二週間前にその街道を通ってきた。荷馬車一台あたり銀貨三枚に上がっていた」
フィオナは慌てて帳簿の数字を修正した。この情報は大きい。北方への物流コストが想定より高くなるなら、輸送ルートを見直す必要がある。
「助かりました。旅のお方にこんなことを伺うのも失礼ですが、北方の経済事情にお詳しいのですか」
青年は紅茶のカップを口元に運び、少し考えるように間を置いた。
「多少は。北方は食料の確保が大きな課題でね。保存の利く食品があれば、喉から手が出るほど欲しがる国もある」
「保存食、ですか」
フィオナの目が光った。まさに自分が最初の事業として選んだ分野だ。
「もしよろしければ、もう少し詳しくお聞かせいただけませんか」
それから二人は、日が暮れて茶館の灯りがともるまで語り合った。北方の経済圏のこと、各国の貿易政策のこと。話すほどに、この青年の知識の深さと視野の広さに驚かされた。
「申し遅れました。フィオナと申します」
「アレクシスだ。旅の途中でね、しばらくこの街に滞在する予定だ」
互いに姓は名乗らなかった。けれどフィオナには確信があった。この人はただの旅人ではない。どこかの国の、相当な地位にある人間だ。
「またこの店に来ますか」
「気に入った。紅茶も、今日の会話も」
アレクシスは淡く微笑み、外套を翻して茶館を出ていった。フィオナは残された紅茶を飲み干し、帳簿に目を落とした。修正された数字の横に、小さく書き加える。
北方——要調査。
鼓動がわずかに速いことに気づいたが、それは新しい商機への興奮だと自分に言い聞かせた。




