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出発の朝は、よく晴れていた。
秋の空は高く澄み渡り、ヴァランティーヌ公爵邸の庭に植えられた楓が赤く色づいている。フィオナは自室の窓からその景色を眺め、この部屋で過ごす最後の朝だと思った。
荷造りはすでに終えていた。持ち出すのは衣服の最低限と、帳簿類、そして前世の記憶を頼りに書き溜めた技術ノートの束。ドレスや宝飾品の大半は置いていく。商売の現場に絹のドレスは要らない。
「お嬢様、馬車の準備が整いました」
侍女のエマが告げた。フィオナが公爵邸を離れると聞いて泣いた彼女は、目元がまだ赤い。
「エマ、ありがとう。あなたにはここで元気にしていてほしいの」
「お嬢様……どうかお体に気をつけて」
エマの手を軽く握り、フィオナは階段を下りた。玄関の広間には父レオポルドと、数人の使用人が並んでいる。
公爵は娘の前に立ち、しばらく何も言わなかった。やがて懐から革の小袋を取り出し、フィオナの手に押し付けた。
「開業資金とは別だ。何かあったときのために持っておけ」
「お父様、これは——」
「父親が娘に路銀を持たせるのに理由が要るか」
ぶっきらぼうな言い方だったが、握らせた手が震えていた。フィオナは小袋を胸に抱き、深く頭を下げた。
「必ず成功してみせます」
「成功しなくてもいい。生きて帰ってくれば、それでいい」
公爵の声がかすれた。フィオナは目の奥が熱くなるのを感じたが、唇を引き結んで堪えた。泣くのはあの夜だけと決めたのだ。
馬車は公爵邸の正門を出て、王都の大通りを南へ向かった。御者台にはリュシエンヌが座り、馬車の中にはフィオナとマティアスが向かい合っている。
窓の外を、見慣れた王都の風景が流れていく。白い石造りの建物が並ぶ貴族街。色とりどりの看板が揺れる商業地区。噴水広場では子どもたちが水を跳ね上げて遊んでいる。
フィオナはふと、社交界の「友人」たちのことを考えた。婚約破棄の噂はすでに王都中に広まっている。茶会で一緒に笑い合った伯爵令嬢たち、舞踏会で扇の陰から囁き合った侯爵夫人たち。出発を告げる手紙を送ったが、返事をくれた者は一人もいなかった。見送りに来た者も、もちろんいない。
予想していたことだ。社交界の友情とは、立場と利害で結ばれた蜘蛛の糸に過ぎない。婚約を失った公爵令嬢に絡みつく糸はもうない。
それでも、少しだけ胸が痛んだ。
「フィオナ」
マティアスの声で我に返った。老経理士は帳簿を膝に広げ、眼鏡の奥から鋭い目を向けている。
「ルミエールまでの道中で、仕入れ先の候補を整理しておきたい。ガラス工房の件だが——」
「ええ、お願いします」
仕事の話が始まると、感傷は引っ込んだ。フィオナの頭は数字のモードに切り替わり、帳簿の上で指を動かしながらマティアスと議論を交わす。
王都の南門を抜けるとき、馬車が一度止まった。
門の脇に、一人の少年が立っていた。蜂蜜色の髪を風になびかせ、息を切らしている。ギルベルトだった。
フィオナが窓から顔を出すと、弟は走り寄ってきた。
「間に合った……。姉上、これを」
差し出されたのは小さな包みだった。開けると、銀の懐中時計が入っている。蓋には公爵家の紋章——翼を広げた鷲が刻まれていた。
「母上の形見です。姉上が持っていてください」
フィオナの母は、フィオナが十歳のときに病で亡くなっていた。この懐中時計は母が生前愛用していたもので、いつも書斎の引き出しに大切にしまわれていた。
「ギルベルト……これはあなたが」
「僕には公爵家の紋章入りのものはいくらでもあります。でも姉上は、これからヴァランティーヌの名前を背負って一人で戦うんでしょう。だったら、母上のお守りがあった方がいい」
十六歳の弟は、フィオナが思っていたよりもずっと大人になっていた。
「それと、宮廷の件は任せてください。ルシアン殿下とヴァレリア嬢の動きは、僕が逐一報告します」
「無理はしないで。あなたはまだ学生なのだから」
「学生だからこそ目立たないんです。完璧な作戦でしょう?」
ギルベルトは悪戯っぽく笑い、それから真剣な顔になった。
「姉上、必ず見返してやりましょう。あの王子に、姉上を手放したことがどれほど愚かだったか思い知らせてやるんです」
フィオナは弟の頭にそっと手を置いた。
「見返すためにやるんじゃないわ。でも——ありがとう」
馬車が再び動き出した。ギルベルトの姿が小さくなっていく。フィオナは窓から手を振り、やがて前を向いた。
懐中時計を握りしめた手のひらが温かい。母の形見と、弟の想い。それだけあれば十分だった。
王都の城壁が遠ざかり、やがて街道の両側に麦畑が広がり始めた。黄金色の穂が風に揺れ、秋の陽射しを浴びて輝いている。
フィオナは帳簿を開き直し、ペンを取った。ルミエールまでの五日間で、事業計画の最終確認を済ませるつもりだった。振り返っている暇はない。すべてはこの先にある。




